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霞ヶ谷の厨房で、静かに火を入れる

第1話 第1話

第1話

第1話

右手の中指の、関節の内側。十五年分の包丁胼胝(たこ)が、硬いままそこにあった。

 佐伯蓮は、その一点だけを頼りに、目を開けた。

 木の梁が、ひび割れた天井から斜めに垂れ下がっている。剥げかけた土壁のあいだから、朝の薄青い光が帯になって差し込んでいた。鼻の奥に、湿った藁と煤(すす)の匂い。口の中には、昨日まで嗅いでいた業務用の油煙とは違う、もっと乾いた、もっと古い、石と藁の匂いが残っていた。

 ……死んだのか、俺。

 身を起こすと、肩の関節が軋んだ音を立てた。コックコートの代わりに、粗い麻の寝間着らしきものを着せられている。板敷きに散らばっていたのは、覚えのある紙束だった。十五年、自分の頭の中だけで育ててきた煮出し汁の黄金比。塩の打ち方。火の落とし方。——十五冊の、すり切れた小さな手帖。昨夜、旧店のオーナーと若いホール長が「うちの看板の味は、俺たちの財産だろ」と笑いながら、厨房の裏口から蓮を蹴り出したとき、唯一ポケットに残っていたものだ。

 窓の木枠に手をかけて、外を見た。

 痩せた畑があった。土は灰色に乾き、葉のひしゃげた青菜が、申し訳なさそうに首を垂れている。その畦(あぜ)の向こう、井戸の縁にもたれるようにして、ぼろを着た老婆が一人、桶を引き上げる気力もないまま立ち尽くしていた。畑のさらに向こう、朽ちた石塀のそばでは、五つか六つの子どもが、空の木椀を、ただ抱えていた。誰の目も、こちらを見ていなかった。もう、何かを待つことに疲れた目だった。

 ……帰りたい、とは、思わなかった。

 板敷きの隅に、封蝋の剥がれた書状が落ちていた。埃を吹き、畳まれた紙を開く。

『霞ヶ谷領領主館 厨房付き屋敷一棟、及び附属地を、異邦の料理人・佐伯蓮に譲る。異議を唱える者、なし。——前領主 ハルド・カス・ミガヤ 代筆 執事ヨウナ』

 文字は、読めた。インクの走りが、なぜか指先に馴染む。前世の日本語と同じ音で、違う形の文字。……転生、という単語が、ぼんやりと頭の隅に浮かんで、また沈んだ。

 蓮は、寝間着の裾を絡げて廊下に出た。板は一歩ごとに軋み、ところどころ抜け落ちていた。けれど、奥の突き当たりの引き戸の向こうに、確かにそれはあった。

 ——厨房。

 いや、厨房、と呼んでいいのか迷うほど、貧しかった。広さだけは、前世の店の倍ほどもある。黒く煤けた石造りのかまどが三口。壁際には、鋳物の鍋が二つ、縁の欠けた小鍋が五つ、錆びかけた鉈(なた)と、柄の折れた木べら。棚の奥には、塩の壺がひとつ。中をのぞくと、指の先ほどが底に残っているだけだった。

 それでも、蓮の口元は、ほんのわずかに緩んだ。

 かまどの石は、長いこと誰かに磨かれていた痕跡があった。石の角が丸く、油の染みが均等に広がり、薪をくべる位置まで決まっている。——かつてここを、大切に使っていた人間がいた。料理人の目には、それが手に取るようにわかった。

「……惜しいな」

 壁にもたれ、ゆっくりと息を吐く。自分の声が、板間の低いところにこもって、少し遅れて返ってきた。

 十五年。東京の、換気扇すら壊れかけた地下の厨房で、同じ寸胴(ずんどう)を、延べ何万回、かき混ぜたか。胼胝の形が、その回数を記憶している。オーナーの言った言葉——「お前の舌は味音痴だ、蓮。客に出す味は、俺が決める」。昨夜、段ボールを投げつけられた背中の痛みは、まだ肩甲骨の裏に残っていた。

 ここで、同じことはしなくていい。

 誰もいない。怒鳴る上司も、舌打ちするホール長も、笑って指を差す同僚も、ここにはいない。ただ、磨り減ったかまどと、煤けた壁と、外の畑で俯いている人たちがいるだけだった。

 蓮は、土間のかまどの前に膝をついた。

 灰の中に、薪の燃え残りが何本か転がっていた。指で押すと、まだ乾いている。脇にあった火打石を手に取る。前世なら、ガスの元栓をひねるだけだった作業だ。石を鳴らすと、小さな火花が散り、藁くずに落ち、ほそい煙が立った。

 煙は、真っすぐには立ち上らなかった。煙突が曲がっているのだろう。低く這い、かまどの縁をなでて、壁の方へ流れていった。蓮は、その煙の低さを、目で追った。

 薪は固く、節の多い、細い枝だった。火はすぐには育たず、息を吹きかけるたびに、赤い芯がいちど消えかけ、また、細く立ち直る。そのたびに、焦げた松脂(まつやに)のような、甘く苦い匂いが、手のひらに移った。ぱち、と、節の中にこもっていた水分がはぜる音がして、小さな火の粉が、灰の表面に短く落ちた。前世の、つまみをひとつひねるだけで青白い炎が立ち上がるガスの火とは、何もかもが違う。けれど、この、手間のかかる、思うようにはならない火のほうが——蓮の胼胝のついた指には、なぜか、しっくりと馴染む気がした。

 腹が鳴った。

 ——その時、戸口のほうで、ことん、と、何かが板に落ちる音がした。

 蓮は顔を上げた。

 朽ちかけた引き戸の隙間から、小さな影がこちらを覗いていた。年のころは四つか五つ。頬の骨が、子どもとは思えないほど浮いている。黒い瞳が、かまどの火を、じっと見ていた。

 子どもの足元に、土のついた芋がひとつ、転がっていた。

 芋は、大人の拳の半分もない。皮はひび割れ、端の方は、何かにかじられた跡のように、小さく欠けていた。子どもの指が、その芋をどれほど強く握っていたのか、関節が当たっていたあたりだけ、土の黒さが薄く落ちて、白く筋になっていた。そのちいさな手のひらの温度が、まだ芋に残っているのが、見ているだけでわかった。

「……それ」

 声をかけようとすると、子どもはびくりと肩を震わせて、裸足のまま駆け去っていった。遠ざかる足音は、畑のほうへ、乾いた土を蹴って消えていった。

 芋だけが、戸口に、置かれていた。

 蓮は立ち上がって、それを拾った。指の腹で、土を払う。泥のついた、ふぞろいな、小さな芋。ひとつ。自分の夕食の分だったはずのものを、あの子どもは置いていったのだ。

 喉の奥が、一度、熱くなった。

 畑のほうを見た。井戸の縁の老婆が、さっきよりもうつむいている。肩が、小刻みに上下していた。泣いているのか、咳き込んでいるのか、ここからではわからない。

 ——腹を、満たさせろ。

 前世で、オーナーがことあるごとに言っていた言葉が、頭の奥で、逆さまに響いた。腹を、満たさせろ。客じゃない。この、ひとりの老婆に。この、逃げていった子どもに。ここに、いる人間に。

 蓮は芋を、かまどの傍の石に置いた。

 それから、棚の奥の小鍋を取り、錆を布でこすり、戸口を出た。畑の隅に、蓮が見たことのない形の根菜が、雑草にまぎれて、いくつか生えている。細い手で引き抜くと、白い肌に淡い紫の筋が入っていた。鼻を近づけると、青い、かすかに甘い匂いがした。

 根の先端を、爪の先で、すこしだけ割ってみた。断面から、透きとおった水が、わずかに滲む。舌の先を、そっと当てる。ほんの一瞬、青草のような苦みが走り、そのすぐあとに、意外なほどやさしい甘みが、舌の奥にしずかに広がった。——アクは強い。けれど、それはたぶん、長く煮出せば澄む種類のアクだ。料理人の舌が、勝手に、下ゆでと、水にさらす時間と、火の入れ方の工程を組み立てはじめていた。

 ここの土のものだ、と、蓮は思った。前世の知識には、ない。けれど、料理人の手は、匂いで判断する。毒ではない。長く煮れば、たぶん、澄んだ出汁が出る。

 川の音が、屋敷の裏から聞こえた。

 蓮は鍋と、拾った芋と、見知らぬ根菜を抱えて、水音のほうへ歩き出した。朝の空気が、頬に、少しずつ温度を持ち始めていた。薪の煙が、低く、畑のほうへ流れていく。

「……今日、あのばあさんに、一杯だけ、出すか」

 呟いたとき、肩の、段ボールの当たった痣のあたりが、ほんの少しだけ、遠ざかる気がした。

 厨房に戻り、かまどに薪を足す。煙は相変わらず低く這ったが、構わなかった。水に浸した根菜が、鍋の中で、静かに揺れている。前世で何万回と聞いた、湯気の立ちはじめる、あの、ほそい、澄んだ音がした。

 戸口のむこうに、人の気配があった。

 振り返ると、さっきの子どもが、今度は土塀の陰から、こちらをうかがっていた。その、もう少し後ろに、知らない老婆が、杖にすがって立っていた。髪は灰色で、目はくぼんでいる。けれど、かまどから立ちのぼる湯気の、細い筋を、老婆は、まっすぐに見ていた。

 蓮は、無言で、小鍋を覗き込んだ。

 鍋の湯が、ほどけるように、ひとつ、小さく、泡を立てた。

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