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霞ヶ谷の厨房で、静かに火を入れる

第2話 第2話

第2話

第2話

鍋の湯は、ひとつ泡を立てたきり、また静かに戻った。

 蓮は、戸口のほうへ視線を動かさないまま、火の具合を見ていた。薪は節が多く、まだ乾ききっていない。湿った芯を、細い炎が遠慮がちに舐めている。湯気は、煙突の歪みを伝って屋根の下をひとしきり這い、土塀のほうへゆっくりと逃げていった。——その湯気の筋を、戸口の外の老婆が、じっと見ている。蓮の目には、振り向かなくても、視線の温度でそれがわかった。

 子どもの足音が、土を蹴って一度遠ざかり、すぐに、小さく戻ってきた。老婆の痩せた手に、しがみつく気配。ふたりの影が、土間の板敷きに長く伸びる。朝の光は、ひび割れた窓枠から、塵をまとってまっすぐに差し込んでいた。

 蓮は、木べらの柄を、ゆっくりと握り直した。

「……入ってくれていい」

 声は、思ったより低く、戸口の外まではたぶん届かなかった。それでもいい、と思った。湯気さえ見えていれば、腹の減った人間は、いずれ自分の足で近づいてくる。前世の深夜、換気扇の壊れた地下の店で、終電を逃した客が、震える指でドアを押し開ける瞬間を、蓮は何度も見てきた。——けれど、あの店で蓮が出していたのは、油と塩で厚く化粧をした、ひと切れの丼だった。腹を満たさせる、というより、胃をあわてて埋めさせる味。オーナーが決めた、蓮の舌の通っていない味。

 ここで、同じことはしなくていい。

 鍋に、井戸から汲み直した水を、もう半杓だけ足した。底に沈んでいた根菜の、淡い紫の筋が、ゆらりと持ち上がり、また沈む。蓮は、腰に下げた麻布で鍋の縁の湯気を拭いながら、かまどの脇に膝を落とした。灰の中に、小さな赤い芯が、まだ息をしている。そこへ細い枝の先を折って押し込むと、ぱち、と、節の水分がはぜる音が、低い天井に短く反響した。

 戸口の板が、きしんだ。

 老婆が、一歩、踏み出していた。

 蓮は立ち上がり、すり足で戸口のほうへ向かった。手ぶらで、ただ、湯気のほうへ老婆を招くためだけに。老婆は、杖の先で土を探るようにしながら、土間へ足を下ろした。子どもは、その袖を離さない。老婆のまなこは灰色に曇っていたが、かまどの火の揺らぎに、光をひと粒ずつ、遠慮がちに拾っていた。

「……においが」

 と、老婆がつぶやいた。

「においが、濃いのかね。それとも、わたしの鼻が、ひさしぶりに、目を覚ましたのかね」

 蓮は、返す言葉を選びかねた。代わりに、厨房の奥の、いちばん低い腰掛けを引き寄せて、老婆のそばに置いた。腰掛けは脚の一本が短くて、置くと小さく傾いだ。老婆はそれでも、ありがたそうに、ゆっくりと腰を下ろした。子どもが、自分のぼろの袖で、老婆の膝の埃を払おうとして、手を止め、こちらをちらと見た。

「……しばらく、湯気を嗅いでいていい。できるまで、時間がかかる」

 蓮がそう言うと、老婆は、こくり、とひとつ頷いた。

 ——川魚を、一尾だけ、獲ってくる。

 鍋を火からわずかにずらし、蓮は裏口から出た。昨夜、寝床に就く前に、屋敷の裏手に細い流れがあるのを見ていた。水音は、ゆるい丘を越えた向こうで、朝の薄い日差しを撥ね返している。草のあいだを歩くと、朝露が寝間着の裾をすぐに重くした。

 川は、思ったよりも浅く、澄んでいた。底の小石まで、ひとつひとつの影が見えた。石の陰に、指の長さほどの魚が数匹、流れに逆らって、ゆっくりと尾を振っている。鱗の端に、薄い紅い差し色があった。前世の知識に、ぴたりと重なる魚はなかった。けれど、脂の乗りのよさは、鰓の下の白さで、だいたい察しがついた。

 蓮は袖をまくり、石の陰に、手のひらを、音を立てずに沈めた。指先に、水の冷たさが一瞬走り、そのあと、魚の腹の、羽毛のような感触が触れる。指を閉じる。——逃げられた。もう一度。今度は、魚が石のほうへ身を隠そうとした、その躊躇を、掬い上げるように。

 二尾。

 蓮は、それで十分だと思った。老婆と、子どもと、自分の分。多く獲って、塩もないこの厨房で腐らせるのは、魚にも土にも失礼だった。戻る途中、畑の隅で、昨朝と同じ白い根菜を、もう二本だけ抜いた。葉の付け根を爪で潰して匂いを確かめる。青くささは、朝のほうが薄い。土から抜いたばかりの水気が、ほっ、と手のひらに染みた。

 厨房に戻ると、老婆は腰掛けに座ったまま、目を閉じていた。眠っているのではなく、湯気の温度を、顔の皮膚で測っているようだった。子どもは、土間の、蓮の影を踏まない場所に、小さく膝を抱えていた。

 蓮は、黙って手を動かした。

 根菜の皮を、薄く、薄くこそげ取る。鉈は重く、本来そうした細工向きではなかったが、刃の先の二寸ほどを指で支えるようにして使えば、剥きは十分できた。薄切りにした根菜を、いちど水にさらし、小鍋に移す。湯気の立っていた大鍋のほうには、前夜から水に浸しておいた少量の雑穀——棚の奥、塩壺の陰で見つけた、黒い粒と白い粒のまじった袋——を、そっと入れた。

 魚は、頭を落とさず、腹だけを裂いた。内臓を、川で洗った指で抜き取り、骨ごと、雑穀のほうの鍋に静かに沈める。頭の骨から、いい出汁が出る。前世の高い店でも、安い店でも、それは変わらない。

 火を、すこし強めた。湯が内側からほどけるように揺れはじめる。白い泡がひとつ、ふたつ、雑穀の粒のあいだから浮いてきて、蓮は灰汁すくいの代わりに、木べらの背で、静かに掬い取った。

 老婆の膝の上で、子どもの指が、きゅ、と袖をつかんだ。

 粥の香りが、厨房の低い天井に、ゆっくりと満ちてきた。

 魚の骨から、透きとおった出汁が、雑穀の粒の内側まで染みているのが、湯気の色でわかった。雑穀の一粒が、花びらのように開きはじめる。蓮は、火をぐっと落とした。石のかまどは、火を落としてもしばらく余熱を残す。それを知ってから、蓮は前世の最後の何年か、むやみに炎を煽らなくなっていた。

 根菜は別鍋で下ゆでし、水にさらして、もう一度、出汁のほうへ戻した。紫の筋は、茹でるうちに、静かに、澄んだ色に変わっていた。蓮の舌の奥で、下ゆでの判断は正しかった、と小さな確信になった。

 塩は、棚の壺に、指の先ひとつまみ分しか残っていなかった。蓮は、そのひとつまみを、二つに割った。半分を、今、鍋に。残る半分は、棚の奥に戻した。——一度に使い切らない、というのは、この土地にまだ味覚がある、という、自分への約束のつもりだった。

「……できた」

 縁の欠けた小鉢を、二つ、かまどのそばに並べた。ひとつは老婆に、ひとつは子どもに。自分の分は、鍋の縁に残ればいいと思っていた。

 木べらで、粥を、ゆっくり持ち上げる。湯気の筋が、ひと筋、まっすぐに立ち上がった。屋根の下の空気が、昨日より、ほんのわずかに温い。

 老婆は、差し出された鉢を、両の手で受けた。指は枯れ枝のように細かったが、鉢の熱を逃がすまいとするように、しっかりと包んだ。——そのまま、しばらく、動かなかった。蓮は、声をかけなかった。老婆の指が、湯気の温度にほどけていくのを、ただ見ていた。

 やがて老婆は、震える木のさじ——蓮が棚の下から掘り出して、湯で洗ったものだった——を、鉢のふちにそっと寝かせた。一掬い、すくう。湯気が、老婆のくぼんだ頬を、下からやわらかく撫でた。

 さじが、唇に触れた。

 老婆の喉が、一度、ゆっくり上下した。——もう一度、下りる。

 蓮は、自分の喉が乾いているのに気づいた。

 老婆の、閉じていた目のふちから、涙がひとつ落ちた。次の一滴が頬を伝う前に、鉢のふちで受け止められた。老婆はさじを置き、両手で鉢の縁を支えた。泣いている、というほど強い声は出ていなかった。ただ、顎の線が、湯気のほうへゆっくりと傾いた。

「……ああ」

 と、老婆は長く息を吐いた。

「……亡き、奥方さま以来の、味だ」

 蓮の、かまどに伸ばしかけていた手が、止まった。

 奥方、という音が、厨房の低い天井に、ふと宙づりになった。老婆は、涙を拭こうとしなかった。ただ鉢を両手で包んだまま、ゆっくりと、もう一度、さじを動かした。子どもは、老婆の膝の横で、自分の鉢にまだ手をつけずに、老婆の顔を、じっと見上げていた。

「……お名前を、伺っても」

 蓮は、ようやく、そう口にした。

「レナ、と」

 老婆は、鉢のふちからさじを離さないまま、答えた。

「レナ、でございます。……先代の、館の者で、ございました」

 鉢の底が、ゆっくりと見えはじめていた。

 レナは、最後の一掬いを口にせず、しばらく、さじの先で粥の縁をなぞっていた。子どもは、そのあいだに、自分の鉢のものを半分ほど食べて、残り半分を、老婆の膝の横に、そっと寄せていた。老婆のぶんとして、置いたつもりらしかった。

「……足りるかい、お前のは」

 と、レナがしわがれた声で訊いた。子どもは、こくり、と頷き、それから、頭を、小さく横に振った。——足りない、という正直さを、言葉にはせず、首の動きだけで老婆に返した。

 蓮は、黙って、鍋の底に残った粥を、子どもの鉢にもう一杯、足した。鍋の縁に張りついた粒まで、木べらで、ていねいに掬った。自分の分は、湯気のほうで、もう受け取った気がした。

 戸口の外で、土を踏む、別の足音がした。

 一人ではない。二人、いや、三人。ゆっくりと、けれど、迷いなく、湯気のほうへ近づいてくる気配。畑の井戸のあたりから、低い、短い、誰かの声がした。

 レナが、顔を上げた。

 蓮は、かまどに、もう一本だけ、細い薪を足した。

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