Novelis
← 目次

霞ヶ谷の厨房で、静かに火を入れる

第3話 第3話

第3話

第3話

土を踏む音は、三つ、ではなかった。足音のひとつは、別の方角から、ゆっくりと、しかし迷いなく近づいてくる。蓮は、木べらを握り直した手のひらに、前世の胼胝(たこ)の硬さを、もう一度、確かめた。

 かまどの上で、鍋の湯気が、ひと息、太くなって戻った。レナが、さじを鉢の縁に寝かせたまま、顔だけを戸口のほうへ向ける。その痩せた肩の動きが、蓮に、振り返るべきタイミングを、静かに教えた。

 戸口の板のむこうに、三人の子どもが、並んでいた。

 先頭は、昨朝、芋を置いて逃げていった、あの子だった。背の後ろに、姉らしい、もう少し背の高い少女。その脇に、土のついた顎のちいさな男の子。三人とも、裸足だった。三人とも、両の手のひらに、自分の顔より少しだけ小さい芋を、ふたつずつ、うつむいて抱えていた。

 芋は、昨日蓮が戸口で拾ったものと、同じ種類に見えた。皮はひび割れ、端に何かをかじった跡のあるものも混じっていた。けれど、子どもたちの指は、その芋の土を、ここに来るまでのあいだに、丁寧に、何度も拭った跡があった。指の腹の、白い筋が、その手間を、無言で語っていた。

 先頭の子が、何も言わず、ひとつ、芋を、戸口の板敷きに置いた。次の子が、つづけた。最後の子も、少し震える指で、そっと並べた。六つの芋は、戸口の板の上で、小さな、ふぞろいな列になった。

 誰も、中には、入ってこなかった。

 蓮は、戸口まで、ゆっくりと歩いた。膝を落として、芋のひとつを、手のひらに載せる。まだ、あの子どもの手の温度が、すこし、残っているような気がした。

「……ありがとう」

 蓮は、そう、子どもたちの目線に合わせて言った。

 先頭の子は、こくり、と頷いた。姉らしい少女が、思い切ったように、口を開いた。

「……粥の、におい」

 声は細く、喉の奥に引っかかるように、かすれていた。

「……少し、でも、いいから」

 蓮は、うなずいた。

 かまどの鍋には、もう、粒が、底に張りついているだけだった。けれど、雑穀はまだ、棚の奥の袋の底に、握りひとつ分ほど、残っている。魚の骨の出汁は、鍋肌にじゅうぶん染みついていた。もう一度、水を足せばいい。三人ぶんの、小さな椀なら、足りる。

「……上がってくれ。板の上は、冷たい」

 子どもたちは、互いの顔を見合わせてから、先頭の子を先に立てて、土間のふちに、ちいさく腰を下ろした。レナが、自分の腰掛けの横を、さじの柄で、ぽん、と叩いた。子どもたちの肩が、ほんの少しだけ、低く落ち着いたように見えた。

 蓮は、かまどに戻り、残りの雑穀を、袋から出した。鍋に水を足す。薪をもう一本。灰の中の赤い芯が、細く、しかしはっきりと、立ち上がった。

 粥が、ほどけはじめた頃だった。

 戸口の外、土塀の角のほうから、別の足音が、ひとつ。重く、踵の落ち方に癖のある、おとなの足音だった。子どもたちの足音とは、土の鳴り方が、まるで違った。

 その足音は、戸口の少し手前で、止まった。

 蓮は、木べらを鍋の縁に寝かせ、戸口へ向かった。

 戸口の板敷きに、また、何かが置かれていた。

 一羽の、兎だった。

 まだ、温かい。毛並みの内側に、わずかに、熱が残っていた。首のところを、短い紐で、ひとしばりに縛ってある。血抜きは、すでに済ませてあった。腹のあたりの毛が、流水に短く濡らされた跡があり、解体前の、最低限の下処理が、手慣れた様子で、施されていた。

 戸口の外を見ると、土塀のむこう、朝の薄い日差しのなかを、大きな背の男が、こちらに背を向けて、ゆっくりと歩き去ろうとしていた。革の胴着、腰に下げた矢筒、長い弓。——猟師だ、と、蓮は、思った。

「……あの」

 声をかけると、男は、足を止めた。振り返りは、しなかった。

「ガルドだ」

 と、背後で、レナの、しわがれた声がした。

「ガルド。お館の、先代のころからの、森の猟師でな」

 男は、蓮に背中を向けたまま、首だけを、わずかに傾けた。横顔が、土塀の陰に半分、隠れていた。口数の少ない、疲れた肩のかたちをしていた。そのまま、男は、何も言わず、また、森のほうへ、土を踏んで、去っていった。

 蓮は、戸口にしゃがんで、兎を、両の手のひらで、受け止めた。

 指のあいだに、まだ、獣のからだの温度が、わずかに残っていた。毛並みの下の、細い肋(あばら)の、もう動かない感触を、蓮の手は、久しぶりに思い出した。前世で、早朝の仕込み場、生きのよい鶏の首を落としたあとの、あの、ほどけていく熱の抜け方に、少しだけ、似ていた。

 兎の、ほんのりと湿った毛を、指の腹で撫でながら、蓮は、背中のほうに、レナの視線を感じた。

「……これは、受け取れない」

 蓮は、自分の声が、戸口の土のほうへ、低く落ちるのを聞いた。

「芋も、兎も、……対価を、取るためのものじゃない。まだ、一杯の粥しか、出していない。こっちが、あの子どもに、返すほうなんだ」

 戸口の板に、六つの芋が、並んでいる。その脇に、血の抜かれた兎が、そっと置かれている。子どもたちは、土間のふちから、蓮の背中を、じっと見ていた。姉らしい少女の、指の関節が、自分の膝の上で、きゅ、と白くなった。

 腰掛けの上で、レナが、さじを、鉢の底に立てかけた。

「佐伯どの」

 と、レナは、蓮を、初めて、その名で呼んだ。譲渡書の、インクの走りを、どこかで、覚えていたのだろう。

「……受け取らねば、この土地の、誇りが、死にまする」

 声は、しわがれてはいたが、震えては、いなかった。蓮は、戸口のほうを向いたまま、動かなかった。レナは、続けた。

「この三年、この土地のもので、人に差し出せるものは、何もござりませんでした。井戸の水を汲むだけで、腰が折れる。畑は、虫に食われる。森の獣は、街道のほうへ流れて、戻ってこない。……子らは、自分の分の芋を、親に隠して、自分の袖のなかで、毎晩、食べておりました。隠さねば、親が、取り上げたからではありませぬ。……親の分が、足りぬ、と、子らが、知っておったからでございます」

 子どもたちは、うつむいた。姉らしい少女の目のふちに、小さな光が、一度、揺れた。

「その子らが、今朝、自分の袖から、芋を、出してきた」

 レナは、痩せた指で、鉢のふちを、そっと撫でた。

「ガルドは、この三年、森で獲った獣を、ひとりで食ろうておりました。家族が、おらぬゆえに、人に分ける習慣を、忘れておった。……その男が、一羽の兎の血を抜いて、戸口に、置きに来た。……佐伯どの。これは、対価では、ござりませぬ」

 蓮は、兎の毛に、もう一度、手のひらを、そっと当てた。

「……では、何ですか」

 声が、少し、かすれた。

「誇りでございます」

 レナは、そう、静かに言った。

「与えてもらうだけの人間には、人は、なれませぬ。自分の手のなかに、まだ、差し出せるものが、ある。……その一点だけが、この三年、この土地の者の、背筋を、ぎりぎり、立たせてきたのでございます。……受け取ってくださいまし。そして、炊いてくださいまし。あの子らと、ガルドの、差し出したものを、みなの、鉢のなかへ」

 蓮は、長いあいだ、戸口の板の上の、六つの芋と、一羽の兎を、見ていた。

 胼胝のついた右手の中指が、兎の、もう冷えはじめた首のあたりを、ゆっくりとなぞった。——返すほう、ではない。一緒に、炊くほう、だ。前世の厨房では、一度も、許されなかった言葉の並びが、土間のかまどの、低い煙のほうへ、静かに、落ちていった。

 やがて、ゆっくりと、蓮は、うなずいた。

「……わかりました」

 兎を、両の手のひらで、持ち上げた。毛並みの温度が、指の胼胝に、やわらかく移った。六つの芋を、子どもたちのほうへ、いちど、目で示す。子どもたちが、戸惑いがちに、それぞれの芋を、自分たちで、厨房のいちばん清い板の上まで、運んでくれた。姉らしい少女の頬に、ほんの少しだけ、赤みが差していた。

 かまどに、もう一本、薪を足した。煙は、今朝はじめて、まっすぐに、天井のほうへ、細く、伸びた。煙突の歪みを、湯気の勢いが、そっと押し返したのかもしれなかった。

「……今日は、兎の汁と、芋と、粥」

 蓮は、鍋の縁を、木べらで、一度、やさしく叩いた。

「レナさん。兎の解体の、昔の作法、覚えていますか。この、土地の」

 レナは、くぼんだ目を、かまどの火のほうへ、わずかに向けた。

「……奥方さまが、お作りになった、煮こごりが、ございました」

「それ、教えてください。——今日は、ここで、煮ます」

 戸口のむこうの土塀の上を、風が、細く渡った。芋の土の匂いと、兎の毛の、ほんのりと獣めいた匂いが、粥の湯気に、ゆっくりと、重なりはじめていた。レナの唇が、奥方、という音のかたちに、もう一度、小さく動いた。——その音の奥に、この土地が、まだ、何を忘れているのか。蓮の手は、まだ、知らなかった。

この話はいかがでしたか?

最新話です

次の更新をお楽しみに!