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辺境薬草園と片羽の精霊

第2話 第2話

第2話

第2話

頬に触れる板の冷たさで、リィンは目を覚ました。

 夜のあいだに板の木目の凹凸が頬骨に刻み込まれていて、指で押すと僅かな痺れが散る。瞼の縁に、薄い膜のように涙が乾いていた。泣いた記憶はないのに、眠りながら目の端からこぼれていたらしい。袖口で軽く押さえると、布がざらりと塩を含んで硬くなっていた。

 窓枠の欄間から差し込むのは、昨日の橙ではなく、青みを帯びた朝の光だ。土間に斜めに降りて、倒れた椀の縁にまで届いている。塵が光の帯の中をゆっくり沈んでいく。塔の薬蔵では見たことのない、薄い水色の層のような明るさだった。

 身体を起こすと、あちこちの関節が低く軋んだ。肩甲骨と肋の間に、板の節の跡が残っているのが分かる。両腕で胸に抱き続けていた調合書が、膝の上で革の表紙を冷ましていた。指で触れると、夜のうちに人肌の温みを手放して、ひんやりと固い表紙に戻っている。

 ——昨夜、見たあの光。

 睡眠と夢のあわいで見たはずの青緑色の揺らぎが、朝になってもまだ、瞼の裏に微かな残像として残っている。裏の茂み、地面から掌ひとつ分の高さで、蛍よりも冷たく、鬼火よりも小さく揺れていた灯。

 リィンは立ち上がり、薬研を囲炉裏の縁から両腕で抱え直した。石の底に、昨日の灰が薄く付いている。指先で払い落としながら、まず、水だと思った。

 小屋の裏手に回ると、竹柵の倒れた向こうに、井戸の跡らしい石組みがあった。縁石は半分崩れて蔦に覆われ、釣瓶の縄は風化して粉になっている。中を覗き込むと、底の方で確かに水面がひかっていた。指を湿らせて舐めると、僅かに鉄と土の味がしたが、腐った匂いはしない。

「……使える」

 独り言は、自分で思ったより掠れていた。三日間ろくに喋っていない喉は、まだ本調子ではなかった。

 釣瓶の代わりに、井戸端の竹を拾い、先端を割いて布切れを縛った。スカートの裾を少し裂いて使った。裾はもうこれ以上汚れようがなく、足下の草の露に触れれば、布と脚の境目さえ分からなくなる。竹を井戸に降ろして引き上げ、ようやく掌一杯分の水が手に入ると、両手で囲って顔に運んだ。水は冷たく、目尻と頬の線を縫うように流れ落ちていく。目の奥の痺れが、すっと退いた。

 それから、囲炉裏の灰を熾すことを考えた。

 底を竹の先で掘り返すと、炭の欠片が二つ出てきた。黒く乾いていて、指先で軽く叩くと硬い音がする。まだ使える。前の住人が、最後に火を落としたとき、わざわざ埋め戻した炭だったのだろう。その仕草が、会ったこともない誰かのものとは思えない近さで、胸の内側に触れた。

 小屋の外で枯れ枝を拾い、ひとまとめに抱えて戻る。囲炉裏の石の縁に小枝を井桁に組み、乾いた苔を下に敷いた。火打ち石は持っていない。けれど、昨日の御者が荷台の隅に落としていった火種壺を拝借してきたのを、胸のあたりの記憶から引き上げる。蓋を開けると、赤い燠が灰の下でまだ細く息をしていた。

 苔に移すと、薄い煙がふわりと立ち上がる。リィンは膝をついて、小さく息を吹きかけた。頬の内側にまだ残っていた鉄の味が、煙の苦い香りに上書きされていく。

 炎は、思ったよりあっけなく立ち上がった。橙の舌が、小屋の壁の影を柔らかく揺らす。塔の薬蔵の、等間隔に並んだ硝子ランプの光とは、何ひとつ似ていない温度だった。

 火を見ながら、リィンはふと、昨日雑草の中で見送ったスミレガヤのことを思い出した。摘む道具は、いまもない。だが、陰干しの軒なら、小屋の庇がいちおう半分残っている。爪で葉を切り取るだけなら、今の自分の手でもできた。

「……一本、だけ」

 そう声に出してから、外へ出た。

 細道の入口まで戻ると、昨日の茂みはまだ朝露をまとっていた。葉先の水玉が光を散らして、小さく瞬いている。リィンは膝をついて、スミレガヤの株の中からいちばん健やかな茎を選び、爪の先で二枚だけ摘んだ。葉脈に沿って切り取ると、指に淡い草の汁が残る。鼻先に寄せると、甘く、どこか薄荷にも似た香りがふわりと立った。

 これで、朝露と合わせれば、簡単な傷薬の下地ができる。

 自分の右手を見下ろした。昨日、倒れた竹柵を跨ぐときに擦った親指の付け根に、薄い引っ掻き傷がある。すぐ脇の葉から朝露を掌に移し、葉を軽く指先で揉んで、傷にそっと押し付けた。ひんやりと、僅かな青い匂い。傷の縁が、刺すような痛みから、しみるような存在感に変わる。

 こんな小さなことで、と思った。

 リィンの口元がほんの僅かに緩んだ。

 小屋に戻ると、火は安定して燃えていた。

 鍋はなかった。代わりに、土間の隅で拾った欠け椀を火の傍に置いて、煤を焼き払うことにした。縁がひび割れていたが、底は意外と無事だった。陶器の表面が熱を吸うと、昨夜の鼠の爪痕らしい溝から、薄い埃の匂いが立ち上り、やがて消える。

 それから、リィンは板の床に調合書を広げた。

 母の筆跡。幼い自分の書き足し。頁を捲る音だけが、小屋の中に静かに響いた。塔の執務室で、十人あまりの部下を前に承認印を押していたときの、紙の束を叩く乾いた音とは似ても似つかない。頁の中ほどで、指が自然に止まった。

 『傷には蜜と葉を練って』

 蜜は、ない。葉は、先ほど摘んできた。

 欠け椀の底に、スミレガヤの葉二枚を置き、薬研の軸で押し潰す。葉の繊維が軋み、青い汁が縁に滲んだ。塔で扱っていた乾燥済みの素材とは、手応えそのものが違う。生きたものを潰している、という重みが、手首にじわりと伝わってくる。

 汁の匂いを嗅ぐ。嗅ぎながら、リィンは自分の呼吸がずっと浅かったことに気づいた。薬研の底を抑える手が、少しずつ穏やかになっていく。呼吸が鼻の奥まで届くようになって、ようやく、匂いの層の細かい違いを嗅ぎ分けられるようになった。表層に甘み、中程にわずかな青み、奥で土の匂い。塔では絶対に感じ取れなかった、三層の薄い膜。

 ——これは。

 筆頭の肩書きを失って、初めて、自分の嗅覚が戻ってきた気がした。

 思わず、薬研の縁を両手で握りしめる。手の内側に、石の冷たさと、押し潰した葉の温みが同居していた。

 リィンは、小さく、短く、息を吐いた。

 それは、決意というほど尖ったものではなかった。ただ、明日もこの石を握って、もう一枚、葉を潰そう。明後日も、井戸の水を汲み、火を熾し、拾った小枝で煤を払い、傷の縁に青い汁を塗る。それだけを、この暮らしの芯に据える。薬師である前に、自分の呼吸を取り戻す時間を、しばらく自分に許す。

 窓枠の欄間から差していた青い光が、いつの間にか薄い金色に変わっていた。

 陽は、もう昼を跨ごうとしていた。

 午後は、小屋の片付けに費やした。鼠の糞を掃き出し、壊れた棚の板を一枚外して、囲炉裏の傍に立てかけた。明日、竈の煉瓦を積み直すときの踏み台にするつもりだった。働いている間、時折、腰の奥でぽつんと痛みが灯ったが、それも、塔の机に向かい続けていたときの背中の張りとは、違う質感の痛みだった。

 日が傾き、再び土間に橙の帯が差し込む頃、リィンは汲み残した水で手を洗い、小屋の裏手へともう一度回った。

 昨夜、青緑の光が揺れていたあたり。

 茂みの奥は、夕陽の差す角度のせいで、影が幾重にも折り重なっていた。膝をついて、ゆっくりと草を掻き分ける。葉の擦れる音に、自分の鼓動が重なって聞こえた。

 ——ひとつ、淡く揺れた。

 蛍ではなかった。鬼火でもなかった。掌よりも少し小さい光の玉が、葉の陰で弱々しく、息をするように明滅している。目を凝らすと、光の中心に、薄い膜のようなものがうっすらと透けて見えた。羽——片方の羽が、付け根の近くで、折れるように千切れている。

 リィンは動きを止めた。光の粒が、ゆっくりと、こちらを向く。

 触れるべきか、そっとしておくべきか——判断は、まだ、つかなかった。

 ただ、調合書の『傷には蜜と葉を練って』の一行が、頭の奥で静かに灯った。指先にはまだ、午前に摘んだスミレガヤの、薄荷に似た甘い青さが、かすかに残っている。

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