第3話
第3話
息を潜めたまま、リィンは膝から腰までをゆっくりと地面に落とした。
膝裏の皮膚に、下草の先端が細かくあたって、くすぐるような、あるいは針先をそっと寄せるような、微かな刺激が走った。呼気を、鼻の奥で三拍に割って外へ逃がす。薬師塔の作法で言うところの「近づき息」——相手の気配の外側に、自分の輪郭を薄く溶かしていくための呼吸だ。
枯れ草が下で乾いた音を立て、青緑の光がびくり、と跳ねる。葉陰で明滅する光の粒は、昨夜見たときよりも明らかに弱っていた。胸の奥が細く絞られるような感覚があって、息を吐く間合いを、もう一段長く整え直す。
光の中心に透ける薄い膜——それが羽だと分かったとき、リィンの指先はひやりと冷えた。右側は形を保っているが、左の羽は付け根の近くで糸を引くように千切れている。傷口から、蜜よりも淡い雫がひとつ、葉の上に落ちた。夕陽を受けた雫が薄い橙色に染まって、そのまま草の繊維に吸い込まれていく。
その吸われ方を、リィンは見逃さなかった。葉の表を滑るのではなく、葉脈の溝に沿って素早く引き込まれていく。まるで草の側が、こぼれた命の痕跡を急いで隠してやろうとしているような、そういう吸い方だった。
「……動かないで」
声は、自分で思ったよりも柔らかく出た。届いたのか、光の粒が少しだけ、揺らぎを弱める。
腕の距離を保ったまま、掌を地に着けた。湿った土の冷たさが手首から肘へ上ってきて、袖口が重くなる。薬師塔で薬品を扱うときに叩き込まれた所作——近づく前に、まず空気の方を馴染ませる。自分の呼吸の匂いを、相手に先に届ける。それだけの時間を、今は惜しまず使えた。
塔にいた頃は、この「待つ時間」こそが最も削られていた。次の処方、次の患者、次の決裁印。時間は常に背後から押されるもので、自分の前に置いて眺めるものではなかった。いま、膝の下から伝わる土の冷えを、ただ冷えだと受け取っていられる。その事実が、奇妙なくらい静かに、肋骨の内側を照らしていた。
やがて光は、細かな明滅を止めて、一定の弱い燈に落ち着いた。気を張り詰めるだけの力が、もう残っていないのだと分かる。リィンは唇をひとつ噛んで、ゆっくりと立ち上がった。
小屋まで戻るあいだ、夕陽が細道の草の背を橙に染めていた。足裏に湿った土がふわりと沈む感触があって、歩みの一歩ずつが、薬研を抱えて追放された昨日とは、少しずつ違う重さで踏める気がした。
欠け椀に、朝摘んだスミレガヤの葉を二枚。さらに、井戸端で一枚だけ増やしてきた同じ種の葉——これで三枚。薬研の軸を握り直すと、掌に石の冷たさと、葉の微かな温みが同時に戻ってくる。
母の調合書の頁を、土間に膝をついて開いた。
『傷には蜜と葉を練って』
蜜が、ない。
代わりになるもの——喉の奥で、数種類の素材がすうっと並んで浮かんだ。どれも、この廃村には揃わない。リィンは暫し、指先を頁の文字の上に置いたまま動かさなかった。ランプの灯すらない部屋の中、囲炉裏の燠の赤だけが、頁の端を柔らかく照らしている。
頁の紙は、母の指が幾度もめくった箇所だけ、ほんのわずかに反り返っていた。その反りを指の腹でなぞると、まだ見ぬ母の手の癖が、薄い紙越しに重なってくるようだった。字の傾きも、インクの濃淡も、処方室で見た薬師たちのどれとも違う。実際に傷を負った誰かを前にして、急いて書き留めた字だ——そう、なぜか確信した。
蜜は、粘り気と糖分で、葉の汁を傷口に留める役をする。
粘り気、糖分——それ自体が薬効なのではない。繋ぎだ。
ならば、繋ぎになるものなら。
リィンは右の親指の、昨日竹柵で擦った引っ掻き傷を見下ろした。朝のうちにスミレガヤの朝露で塞がりかけていたその縁を、反対の爪の先で、そっと開き直した。鋭い痛みが一拍遅れて走り、小さな赤い玉が、ふつりと浮かぶ。
痛みそのものより、「自分のどこかを差し出している」という感覚の方が、ずっと強く胸に来た。塔で患者に処方するときには、決して生まれなかった重さだった。処方は、棚から取り出す行為であって、削り出す行為ではなかったのだ。
「……ごめんね」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
葉の青に、なのかもしれない。指から滲む赤に、なのかもしれない。あるいは、こんな調合を母の書に書き足してしまう自分の明日に、なのかもしれなかった。
欠け椀の中で、薬研の軸を三枚の葉に置く。押し潰すと、青い汁が縁に滲んで、その上に、指の血が一滴だけ、落ちた。赤と青が、椀の底でゆっくりと溶け合い、夕陽の残光の中で、薄い紫の艶を帯びる。
そこへ、取っておいた朝露を、竹の先に結んだ布から絞り入れた。三滴、ちょうど。葉の青みが水で薄まり、血の赤が淡く広がって、全体が不思議なほど澄んだ色になる。薬師塔の調合帳には、決して載らない分量。頁のどこにも、自分の血、の三文字は書かれていない。
それでも、手は止まらなかった。
攪拌の音は、石と石の底が擦れる、乾いた低音。その音に混じって、自分の耳の奥で、脈の音がやけに近く響いていた。傷を閉ざすために差し出した血が、まだ自分の身体の中でも同じリズムを打っている——その当たり前のことが、今夜はひどく新しく感じられた。
攪拌を終えた椀を両手で包み、もう一度、外へ出る。暮れかけの光の中、葉陰の光は、さっきよりも一段弱くなっていた。
指の腹で、糊のようになった調合物をごく少量すくい、羽の付け根の傷に、触れるか触れないかの距離で、そっと置いた。光の粒は、わずかに震え、それから、静かに調合物の雫を吸い込んだ——ように、見えた。
時間を、数えなかった。
風が一度、草の背を撫でて通り過ぎ、遠くで鳥が低く鳴いた。橙の空が、ゆっくりと紺に変わっていく。リィンの背中が、土と草の匂いで満たされていく。膝の下で、湿った土が冷えていくのが分かる。けれど、腰の奥のほうで灯る小さな熱は、塔の処方室の鉄椅子では一度も覚えたことのない、生きた熱だった。
光の縁が、少しずつ、硬さを取り戻していた。千切れていた羽の断面が、白く細い繊維を編むようにして、薄い膜の形を少しずつ補っていく。明滅の間隔が、安定した鼓動に近づいていく。
——呼吸を、合わせてしまっていた。
気づけば、自分の息と光の瞬きが、同じ拍子を刻んでいた。肺が深く膨らんで、縮む。その度に、光が淡く強まる。塔の薬蔵で、どの患者にもしなかったことを、いま、草の中でしていた。誰の決裁も、誰の処方印も、要らなかった。繋ぎが足りないなら、自分を繋いだ。それが正しいのかは、まだ分からない。分からないまま、手は動いた。
手の甲に、夜露がひとつ、音もなく降りてきた。冷たさに気づいたとき、自分がいつの間にか微笑んでいたことにも、同時に気づいた。頬の筋肉が、ずっと動かし方を忘れていた形を思い出すように、ぎこちなく持ち上がっている。塔の回廊では許されなかった表情だ。処方の成功を喜ぶことすら、傲慢と見做される場所だった。
光の粒がふわりと浮き上がった。
葉の陰を離れ、宵の空気の中へ。弱々しかった軌跡が、ほんの短い間、揺らぎながら、それでも確かに飛ぶ。リィンの前まで来て、一度ゆっくり旋回し、そしてそっと——肩の上にとまった。
肩口に、葉脈ほどの重さが乗る。体温、と呼んでいいのか分からない、春の陽だまりの芯のような、柔らかい熱。リィンの耳の後ろで、羽が細かく畳まれる気配がした。
息を吸うと、光はごくわずかに肩を押し返すように揺れ、息を吐くと、また元の位置に落ち着く。言葉ではない会話が、鎖骨のあたりで静かに行き来していた。怖がらせないように、と思って整えた呼吸が、そのまま、相手の眠りを守る揺りかごの拍子になっている。
視界の端が、一拍、光った。
それはランプではなかった。火でもなかった。庭の端に残っていたスミレガヤの株の輪郭が、薄い乳白の糸で縁取られて見える。隣のヨモギに似た葉の周りには、もう少し青みの強い光。井戸端の苔には、細く青白い脈が走り、それらが皆、ゆっくりと呼吸するように明るさを変えている。
——草木の、息。
そう呼ぶしかない、何かだった。
リィンは動けないまま、肩にとまった小さな光を、息で揺らさぬように、そっと見やった。折れていた左の羽は、まだ右より細く、頼りない。けれど、確かに、開いて、閉じていた。
見えるようになった光は、摘み頃を示す印なのか、残すべき命の印なのか。まだ、分からない。
ただ、明日の朝、この目で裏の茂みを歩けば、どの葉を、いつ、どれだけ摘めばいいのかが——たぶん、少しだけ、分かる気がした。
囲炉裏の燠が、土間の奥で、赤く小さく息をしていた。