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夜明け断ちの泥ランク

第3話 第3話

第3話

第3話

「おい、聞こえてんのか、泥坊主!」

 階上の木戸が、どん、と荒っぽく叩かれた。ゴードの胴間声は地下の湿気を突き破り、少年の背骨を縦に走って踵まで落ちる。だが、カイルの指は柄頭から離れない。離せないのではなく、離す、という意志の形が、もはや少年の中に残っていなかった。

 指の腹から、青白い光の細流が、手首を伝って肘まで上ってきている。血管の上をなぞっているのではない。血管そのものを光が置き換えていく、そんな錯覚があった。光は熱くはなかった。ただ、少年の脈を一つずつ掴みあげ、剣の鼓動に結び直していく。

「――鎖が、解けてる」

 少年は、自分の声を遠くに聞いた。

 指先に最も近い鎖、その一番古い結び目が、すでに半ば解(ほつ)れていた。鉄の繊維が、何百年分かの錆を粉にして散らしながら、内側からねじれを戻していく。結び目の奥に焼き付いていた古語の刻印が、光に灼(や)かれて、文字の形のまま宙に浮き、弾けて消えた。

 隣の鎖が呼応する。そのまた隣が。石扉を縫い止めていた十二本の鎖が、端から順に、息を合わせてほどけていく。ぎし、ぎし、と、少年の脊椎の節ひとつひとつに対応するような音だった。

 天井から、積年の埃と、ごく細かな石の粉が、霰(あられ)のように降り落ちた。油灯の火は、もう少年の役に立っていない。倉庫そのものが、青白い一つの発光体になりかけていた。

【展開】

 ――ぱきん、と乾いた音が鳴った。

 最後の鎖が、剣の柄から剥がれ落ちた瞬間、それまで少年の中で同拍を打っていた剣の鼓動が、たった一拍、大きく跳ねた。胸の奥で、湖の底から気泡が立ち上がるような、低い音がする。気泡は一つではなかった。二つ、三つ、と連なって浮かび上がり、そのたびに少年の肺の底から、自分のものでない吐息が、かすかに押し出された。吐いた息は白くならず、青白い燐光の粒になって、唇の端からほどけていった。

 石扉が、砕けたのではない。崩れたのでもない。呼吸を終えた、というのが、少年の直感に一番近かった。三枚の石板は互いの縁を擦り合わせながら、音もなく内側へ倒れていき、床の石畳に触れる寸前で、粉雪のような粒子となって散った。粒子は、少年の睫毛や外套の肩先にも降りかかり、触れた瞬間に小さな冷たさを残して、すっと溶けた。冷たさは水ではなく、極めて薄く張った夜気の膜のようで、肌の上を一度だけ撫でて、消えた。

 光の奥から、剣が滑り出てきた。

 黒い、細身の、両刃。柄巻きはとうに朽ち、剥き出しの握りに古語の蔦模様が巻き付いている。鍔(つば)は三日月を二つ背中合わせに重ねた意匠で、その継ぎ目に、小さな星が一粒、嵌(は)め込まれていた。刃は、黒鉄(くろがね)とも違う、夜そのものを薄く削ぎ取ったような色で、光を吸いながら、吸った分だけの青を、刃筋に沿ってほそく返してくる。刃の稜線に沿って、見る角度を変えるたび、遠い天の川を一筋だけ刷いたような淡い粒が流れた。

 剣は、浮いていた。

 石床から指二本分ほどの高さで、柄を少年の方へ向けて、静かに漂っている。まるで、長い眠りの中で、ずっとこの瞬間に備えていた者が、今ようやく身を起こし、来客へ両手で差し出す刀礼の形を取ったかのように。浮かぶ剣の下、石畳の目地には一筋も影が落ちていなかった。影を持たぬ物体を、少年は生まれて初めて見た。喉の奥が、知らぬうちに一度、ごくりと鳴った。

「――夜明け、断ち」

 少年の唇が、勝手に動いた。

 誰にも教わったことのない言葉だった。呼び名を知っていたのではない。剣の方から、鼓動の一拍に乗せて、その名が脈の奥に刻まれた。そう、少年には分かった。舌の根が、その音を発したあと、ほんのわずかに痺れていた。名を呼ぶという行為が、こんなにも対価を伴うものだと、少年は初めて知った。

 指を伸ばした。今度は、自分の意志で。

 柄を握った瞬間、青白い光が、少年の全身を一度、外套の内側で爆ぜるように膨らみ、そして急速に、剣の刃へと吸い込まれていった。頭蓋の内側で、無数の鎖が一度に鳴る音が響く。膝から下の感覚が消え、踵の骨の奥で誰かが小さな鐘を打った。耳鳴りではない。鐘の音は、古い、はるかに古い、少年の生まれるずっと以前の鐘だった。鐘は一つではなく、間を置いて三つ鳴った。二つ目は遠く、三つ目は、すぐ耳のそばで、まるで誰かが少年の枕元に口を寄せ、目覚めの刻だ、と囁いたかのようだった。

 倉庫の床に、カイルは崩れた。

 片膝を立てて支えようとしたが、支えた筈の脚に力が入らない。倒れこむ間際、握りを離すまいと指だけが強く固まり、少年は剣を抱えたまま、石畳の上に横向きに転がった。頬に当たる石は、先刻までの氷のような冷たさを失い、どこか――微かな体温のようなものを返してくる。

 視界の端で、剣の刃が、少年の頬のすぐ前に横たわっていた。青白い光は次第に収まり、夜を削いだような黒が、もとの落ち着きへと戻っていく。代わりに、刃の中ほどに、はじめは見えなかった細い銘が一条、浮かび上がっていた。

 『主(あるじ)を、得たり』

 古語だった筈の文字が、なぜか、すでに読めた。

【転機】

 どれほど倒れていたのか、分からない。

 階上の木戸が再び叩かれる音で、少年の意識は無理やりに水面へ引き戻された。

「おい、返事ぐらいしやがれ! ギルド長が呼んでんだよ、このぐず!」

 ゴードの怒声は、最初に聞いた時より、遥かに遠かった。地下の、石の厚みの奥で、少年の鼓膜が別の音律に慣らされたのだ。それでも、声は声として届く。届いて、少年の背筋に、現実の冷たさを一筋だけ差し戻した。

 カイルは、震える肘で身を起こした。

 倉庫は、元に戻っていた。――いや、ほとんど元に戻っていた。漆喰の裂け目は、まるで初めから何もなかったかのように、一枚の白い壁に塞がっている。石扉の痕跡は、床に残る、うっすらと焦げたような円環一つだけ。その中心に、少年の抱えた一振りの剣だけが、動かぬ証拠として残されていた。

 油灯は、驚くべきことに、まだ灯っていた。芯の油が、半分ほど減っている。時間は、確かに流れていた。

(……誰にも、見せられない)

 考えるより先に、胸の底で結論が立ち上がっていた。

 これを、ギルド長に差し出す。デュランは穏やかな顔で受け取り、少年の背を二度叩き、倉庫の鍵を奪い返すだろう。剣はその日のうちに、別の錠の向こうへ仕舞われ、少年の名は二度とこの剣に結ばれない。――それが、辺境の規範だった。泥ランクが、英雄の遺物を握ったまま階段を上ることを、この街は許さない。

 だが、剣の柄は、少年の掌の中で、もう鼓動を合わせてしまっている。

(――渡せない)

 少年は、倉庫の奥から、古い油布を一枚、引き抜いた。本来は雨漏りを受けるために畳んであった、厚手の亜麻布である。手早く刃を包む。光はもう完全に収まり、黒鉄の肌は、ただの黒に戻っていた。鍔の星だけが、布越しにも、少年の肋骨に向けて、ごく微かな脈を送り続けている。

 布の上からもう一度、麻縄で十字に縛った。

 帯に差したのでは、長すぎて歩けない。少年は外套の裏地を短剣で切り裂き、内側に細長い差し入れを縫うように縄の結び目へ通し、剣身を背中に沿って垂直に隠した。父の名が押された木剣の握り――それだけは、今も胸元にある。少年は、その小さな焼き印に、震える指で触れた。

(父さん。母さん。俺は、いま、触るべきでないものに、触ってしまった)

 だが不思議と、悔悟の味はしなかった。代わりに、八年間ずっと喉の奥でつかえていた、名のない小骨が、一つだけ、音もなく下りていった気がした。

 階段を上る足取りは、行きより軽くはなかった。背に負った剣は、布越しにも、重くはなく、ただ、明確な重心として少年の芯を貫いていた。

【引き】

「遅えんだよ、泥坊主。ギルド長が、昇格希望者の挨拶を受けるとよ。お前は土間の掃除だ、土間の」

 地上へ出ると、嵐はすでに抜けていた。ゴードの悪態は、もう少年の耳の上を滑っていくだけだった。カイルは深く頭を下げ、外套の下で背筋が熱を持たぬよう、息をひとつ、細く整えた。

 受付台のリナが、こちらを見た。

 少年の顔の、何かが違う、と気づいた目だった。リナは何も言わず、ただ帳面を一枚、ゆっくりと繰った。

 カイルは、誰にも告げなかった。

 その夜、屋根裏の寝床で、少年は油布のままの剣を抱いて眠った。壁の向こう、北の山脈の方角で、遠雷が一つ、低く尾を引いた。胸に抱いた黒鉄が、その雷鳴に応えるように、ほんの一度、ずしん、と脈を打った。

 ――まだ、誰も知らない。いにしえの約束が、今夜、泥に咲いた事を。

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