第2話
第2話
少年の足裏から、石畳の冷たさを超えて、たしかに何かが這い上がってきた。
掌でなく、耳でもない。踝(くるぶし)の骨の、さらに奥――脛(すね)の髄のあたりを、低い振動が撫でていく。油灯の芯が、もう一度細く身を縮めた。地下に風の通る穴はない。あるとすれば、壁の裂け目の向こう、そこからだ。
カイルは息を詰めた。胸元の布包み――リナから渡された干しパンが、鼓動に合わせて上下する。鼓動。そう、まさにそれだった。壁の裂け目の奥で脈打つ何かは、彼自身の心拍より、半拍だけ遅れて応えている。
(……誰かが、呼吸をしている)
倉庫には、百年分の埃と、鉄錆と、蝋燭(ろうそく)の脂の匂いが沈殿していた。頭上では雨が屋根瓦を叩き、時折、雷鳴が石壁を通して骨の奥まで震わせる。少年は、割れた木剣の柄を腰帯に差し直し、灯を一歩だけ進めた。足が、知らぬ間に壁へ向かっていた。
積み上がった木箱の角に、黒ずんだ水滴が這っている。それは雨漏りの水ではなかった。どこからか滲み出て、裂け目に沿って垂れ、石の継ぎ目で乾いて、黒い筋を成している。その筋を油灯の光がなぞると、鉄錆めいた色の下に、ごく薄い、青を帯びた燐光(りんこう)が閃いた。
少年は膝を折り、灯を近づけた。
裂け目の奥で、ふたたび脈が一つ打った。
――ずん、と。
胸骨の内側を、見えない指で押されたような衝撃が走る。カイルは反射的に後ずさり、踵(きびす)が積み上げた空樽に当たって、からん、と乾いた音が響いた。その音に応じて、裂け目の奥の鼓動がわずかに速まった――ように感じられる。気のせいかもしれぬ。気のせいだと、思いたかった。
だが、指先はもう、裂け目の縁へ伸びていた。
漆喰は、思ったよりも脆かった。
少年が指を立てて力を込めると、古い塗りは粉のようにほろほろと崩れ、下から黒ずんだ石組みが現れた。石は人の頭ほどの大きさに切り出されていて、継ぎ目には苔の胞子が練り込まれたような緑青の筋が走っている。漆喰の下からはまた、あの薄青い燐光が、石と石のあわいに細く灯っていた。
「……嘘だろ」
呟きは、喉の途中で掠(かす)れて消えた。
漆喰を剥がし続けると、石組みの奥に、縦二尺、横一尺ほどの浅い窪(くぼ)みが現れた。その窪みの底――壁の向こうではなく、壁そのものの内側――に、扉があった。
いや、扉と呼ぶには、あまりに奇妙だった。
厚みのある黒御影(くろみかげ)の板が、石組みに埋め込まれている。その表面には、少年の目には読み取れぬ古語の文字が、浅く、等間隔に刻まれていた。文字の一つ一つの溝に、先の薄青い光が、まるで血管を走る血のように、ゆっくりと巡っている。
扉の中央には、円形の紋章が一つ。三つの剣が中心で交差し、周囲を十二の星が取り巻く意匠――この地方の紋章図譜には、一つも該当しない形だった。リナから借りて捲ったことがある王家発行の紋章本の、どの頁にもなかった。
ギルド長は、言わなかった。倉庫の奥に、こんなものがあるとは。
否――カイルは頭の芯で否定した。ギルド長は、知っている。知っていて、嵐の夜にわざわざ自分をここへ寄越した。偶然にしては、出来すぎている。
「……嵐、雨漏り、木箱の積み直し」
声に出してみる。老剣士の嗄(か)れた声で告げられた、罰の内容を。
あの時の、デュランの指の震え。眼鏡の弦をつまんだ、あの一瞬の躊躇(ちゅうちょ)。
――見ろ、と言われたのだ。あれは。
もう一度、扉の鼓動がずん、と胸を押した。先刻より、わずかに強い。
油灯を床に置き、カイルは両手で漆喰の残りを掻き落とした。爪の間に古い塗りが食い込み、親指の裂けた皮が剝(は)がれて、一筋の血が手首まで伝っていく。痛みはあった。あったが、遠かった。
漆喰の下から、石の扉の全貌が現れた。
高さは、少年の背丈より頭一つ分ほど高い。縦長の石板が三枚、鉄の帯で継がれ、帯は継ぎ目ごとに、黒い鎖で縫い止められている。鎖は指三本分の太さがあり、冷たいのではなく、触れると皮膚から熱を奪ってゆくような、死んだ冷気を放っていた。鎖の表面には、石板のそれと同じ古語の刻印が、点々と焼き付いている。
そして、扉の下――床に近い位置、鎖が一番密に絡まる場所に、何かが覗いていた。
黒い、細長い、一振りの剣だった。
カイルは、知らぬ間に息を止めていた。
石扉の下部に開いた、拳二つ分ほどの隙間。そこから、剣の柄頭(つかがしら)と、握りの一部、そして刃の根元が、わずかに顔を覗かせている。黒は、黒でも、ただの黒ではなかった。油灯の光を吸って、代わりに、内側から微かな青を滲ませている。柄巻きの革は朽ちてほとんど剥がれ落ち、剥き出しになった金属の握りには、鎖と同じ古語が、蔦(つた)のように巻き付いていた。
少年の唇が、乾いていく。
(――触るな)
胸の中の、冷静な声が言う。父の声にも、母の声にも、似ていない声。自分自身の、まだ名前のつかない声だった。
(――触ってはいけない。これは、触っていいものじゃない)
分かっていた。八歳で焼け出された日から、迂闊(うかつ)に手を伸ばしたもので、少年が手にできたものは一つもない。差し出される食事、譲られる寝床、よしとされる場所――そういうものを、息を殺して貰い受けて、ここまで生きてきた。
だが、先刻からずっと。
剣の鼓動が、少年の脈に、ぴたりと合わせて打ち続けている。
最初は、半拍遅れていた。次に、同拍になった。今は――先んじている。脈が、少年を呼び寄せるように、ほんの一瞬だけ早く打ち、遅れて少年の心臓がそれに追いついていく。血が熱いというのではない。血の流れ方が、変えられていくような感覚だった。
少年の膝が、自然に石床へ落ちた。
鎖の一本――剣の柄に最も近い一本に、そっと指を触れる。予想した冷気は、そこになかった。鎖はむしろ、皮膚の温度より、わずかに高かった。生き物の死骸ではなく、生き物そのものの肌だった。
「……なんだ、これは」
声が、雨音の中へ沈んだ。
少年は、剣の柄頭に、人差し指の腹を置いた。
その瞬間。
扉の中央の紋章――三つの剣と十二の星――が、息を吹き返すように、一斉に青白く灯った。光は紋章の輪郭から、石扉全面へ、そして鎖の一筋ごとへと、水の波紋のように広がった。古語の刻印が次々と熱を帯び、溝の底で、音にならぬ囁きが一斉に起こった気がした。耳ではなく、骨が聞いた。
石扉が、ぎし、と軋んだ。
鎖と鎖の継ぎ目が、ほんの数ミリ、擦れ合う音を立てる。地下倉庫の天井から、長年積もった埃が、雪のようにはらはらと降り落ちてくる。油灯の火が、一度、ぶわっと背を伸ばし、次の瞬間にはほとんど消えかけるほどに縮んだ。
少年は指を引こうとした。
――引けなかった。
引けないのではなく、剣の柄頭が、指の腹を、優しく、しかし確実に、吸い寄せていた。磁石が鉄片を引くのに似ていたが、鉄を吸うのはこちら側だった。自分の中の、まだ名付けられていない何かが、扉の向こうで同じ形をして、いま手を伸ばしている。そう感じた。
「……誰、だ」
カイルは、呼びかけた。誰に、と問われたら答えられない。それでも、問わずにはいられなかった。
答えの代わりに、石扉の最奥で、ずしん、と重たい音が響いた。
鎖の一本が、緩んだのではない。音の位置は、もっと深い。扉の、そのまた奥――壁の向こう側の、さらに先。そこに、もう一つ、何かがある。そして、それが今、長い眠りから半分だけ顔を上げた。そう、少年には分かった。分かってしまった。
指先は、まだ柄頭に触れている。
青白い光は、紋章から鎖を伝い、鎖から扉の継ぎ目を伝い、ついに少年の指へと流れ込んできた。痛みはなかった。あったのは、懐かしさに似た、けれど、決して懐かしくはない感覚――かつて一度も自分が持たなかったはずの記憶が、遠くから、静かに戻ってきつつあるような。
階段の上で、誰かが扉を叩く音がした。
「――おい、まだか、泥坊主。ギルド長が呼んでる」
ゴードの声だった。
少年は、指を離さなかった。離せなかった。
鎖の、一番古い結び目の一つが、みし、と音を立てて、いま、ほどけ始めていた。