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夜明け断ちの泥ランク

第1話 第1話

第1話

第1話

木剣が北の風を切る音が、まだ鉛色の空に吸い込まれていった。

 灰鉄(はいてつ)の砦(とりで)の裏手、樹齢数百年と伝わる白樫(しらかし)の根方で、少年カイルは三百度目の素振りを数えていた。夜明け前の街は凍りついている。石造りの家並みの屋根には霜が這い、煙突から上る朝炊きの煙さえ、空気に触れた端から凍てついて細かな粉となり散っていく。少年の息は白く、薄い外套の襟からのぞく喉仏は、振り下ろすたびに小刻みに震えた。握りの革帯は汗と血のしずくでねじれ、刃先は何度も石に打ち付けられて繊維が裂け、切先に近づくほど毛羽立っている。

(あと百)

 内で言い聞かせる。両の掌は、昨日の水仕事で割れた皮がまだ膿んでいた。柄を握るたびに焼け針を差し込まれたような痛みが肘まで駆けのぼる。だがその痛みは、眠ってしまえば夢の中でさえ遠ざかっていく父と母の輪郭を、かろうじて熱のうちに繋ぎ止めてくれた。母が麦粥を掬う木匙の音。父が馬具に油を塗るときの、低くかすれた鼻歌。どれもみな、記憶の縁でぼろぼろと崩れて、もう顔の細部は思い出せない。それでも掌の痛みだけは、あの日の麦畑の泥と熱を、少年の芯へと引き戻してくれる。

 八歳の春、故郷の麦畑は山から下りた魔物の群れに踏み荒らされた。母の腕から引き剥がされ、運良く通りかかった塩商いの荷車の蓆(むしろ)の下に紛れこんだ日から、八度の冬が過ぎている。流れ着いた先がこの北の辺境――石と泥炭の街ヴォルンハイム。灰鉄の砦は、その街の奥に蹲(うずくま)る古い冒険者ギルドの名である。

 最後の一振りを納めたとき、樹皮にカイルが小刀で刻んだ印は、もう幹の半周を越えていた。

「――また一番乗りかい」

 木戸のきしむ音と一緒に、鈴の糸をほどくような声が流れてきた。受付台のリナだった。肩で切りそろえた亜麻色の髪を毛織の襟巻きの中へ押し込み、息を吐くたび、襟巻きの縁が小さく揺れる。

「厩舎(きゅうしゃ)の桶、また氷が張ってる。厩番のじい様が怒鳴ってたよ、泥の坊主はまだかってね」

「――今、行く」

 少年の返事は、湯気のように短い。

 リナは唇の端だけで笑い、受付台に戻ろうとして、ふと足を止めた。なにか言いかけて、やめる。細い指が、革帳面(かわちょうめん)の頁を一枚繰る音だけが、朝の石畳に落ちた。

 厩舎では、老いた栗毛の駄馬が鼻面を寄せてきた。氷を砕いた水の冷たさを嫌がりもせず、湯気を吹きかけてくる馬の口の熱で、少年のひび割れた掌は少しだけ和らいだ。

 灰鉄の砦は、王都シェドンから馬で十日の辺境にある。北の山脈――「神々の岩」と古老が呼ぶ峻険(しゅんけん)な白嶺(はくれい)から吹き下ろしてくる魔物の波を、最初に受け止める砦の街である。ギルドの玄関扉の上には、擦り切れた銘板が掲げられている。

 ――「いにしえの約束、この地に於いて未だ解けず」

 銘の意味を問うても、答えられる古参はもう残っていない。数百年前の英雄が刻んだとも、封じた何かを見張り続けるための符牒(ふちょう)だとも囁かれるが、街の者は日々の糧(かて)の方が大事で、銘の下をくぐる足はいつも速い。

 カイルは納屋から粉石鹸を取り、玄関の石段を磨きにかかった。白い泡の下から夜の泥と酔漢(すいかん)の吐瀉(としゃ)が現れる。胃の腑の奥が、酸い匂いにゆっくりと縮む。

「おう、泥の坊や。そこ、もう一度だ」

 胴間声(どうまごえ)が背に落ちた。振り向かずとも分かる。下位冒険者のゴードだった。羊皮の外套からはみ出した腹は、朝から蒸留酒の匂いを放っている。ランクは銅――それでもここでは威張れる。

「昨日、お前が拭いた長椅子でな。俺の外套に棘が刺さった。糸代、俺の稼ぎから出せってのか、え?」

「……申し訳ありません」

「口で詫びるな、膝で詫びろ」

 仲間が二人、門柱にもたれて薄く笑っている。カイルは石段に両膝をついた。灰汁(あく)が膝頭に食い込み、そこから鈍い熱が広がって、目の縁までのぼってくる。石の冷たさは布越しに骨へ届き、歯の根が噛み合わなくなるほど震えた。見上げれば、ゴードの外套の裾から落ちた藁屑が、泡の上で黒く濡れていくのが見える。それだけの景色を、少年はひどくゆっくりと見た。頭の芯を冷やしておかなければ、この場で喉の奥が破けて、拾い上げられない言葉が飛び出してしまいそうだった。

 その時だった。ゴードの厚い革靴の爪先が、石段の端に立てかけてあった木剣を無造作に蹴った。

 ――から、と乾いた音。

 木剣は、柄を残して真ん中から二つに折れた。

「あっ――」

 思わず、少年は手を伸ばした。握りの革帯には、父の名が焼き印で薄く押してある。祭日に父が、はにかみながら刻んだ一字。少年の、世界にただ一つの形見であった。

「おや、折れたか。軟(やわ)い木だ。辺境の薪と変わらんな」 「それを振り回して冒険者になる気か、泥坊主」

 仲間の嘲りが、凍った朝の空気に雫のように落ちた。

 カイルは、折れた半分を拾った。木目の繊維が割れて、親指の腹がめり込む。胸の奥底で、熱い何かがゆっくりと凝る。――けれど、それを顔に出せば、今日の夕餉の硬パンまで取り上げられることを、この八年で骨身に沁みて知っている。折れ口から滲む樹液の匂いは、遠い麦畑の、父の作業小屋の板壁と同じ匂いだった。少年はそれを胸の底へ押し込んだ。焼き印の一字が、親指の腹を通じて、鼓動と同じ速さで脈打っている気がした。

「……はい、もう一度、磨きます」

 血の味のする唾を飲み込み、少年は布を取り直した。ゴードは満足げに鼻を鳴らし、仲間を伴って扉の奥へ消えていった。

 昼過ぎ、カイルは受付台へ呼ばれた。

 ギルド長――筋骨の削げ落ちた老剣士デュランが、鉄縁の眼鏡越しに少年を見下ろしている。その左手には、ゴードの破れた外套が捩(ね)じれて握られていた。

「聞いたぞ。玄関石段の仕上げが雑だったそうだな」

「――はい」

 嘘だと分かっている。カイルも、おそらくデュラン自身も。だが抗弁すれば、ここでの居場所は一夜で消える。少年は目を伏せた。

「罰だ。今夜、地下倉庫の整理。嵐が来る。雨漏りを確かめて、奥に木箱を積み直せ」

 地下倉庫。  湿り切った石の墓場。廃棄された武具と、名もなき冒険者の遺品が積み上がる、ランプ油の染みた闇。新入りの雑用係が初めに下ろされ、翌朝しばしば熱を出して運び上げられる場所。

「……承知しました」

「夕餉の後、鍵を取りに来い」

 デュランの瞳の奥で、小さな火影が揺れた。憐(あわ)れみか、見慣れた諦めか、少年には判じかねる。老剣士は何事かを言いかけ、喉の奥で小さく咳払いをして、結局は眼鏡を押し上げるだけに留めた。長年の剣胼胝(けんだこ)の残る指先が、眼鏡の弦をつまむとき、ほんのわずかに震えていた――そう見えたのは、少年の気のせいだったかもしれない。

 受付台の端で、リナが唇を噛んでいた。帳面を閉じる音が、いつもより強い。

 通り抜けざま、彼女は早口で囁いた。

「……わたしが、ゴードさんに言う」

 あかぎれの目立つ細い指が、カイルの袖口をほんの少しだけ引く。

「言わなくていい、リナさん」

「でも――」

「リナさんにまで絡まれたら、今度こそ俺、我慢できなくなる」

 笑おうとしたが、うまく笑えなかった。鏡など見ずとも、それが泣き出す寸前の顔だと、自分で分かる。

 リナは何か言いかけて、代わりに懐から布包みを滑らせた。堅焼きの干しパンと、蜂蜜漬けの木の実。受付嬢の昼餉の、おそらくは半分だった。

「……倉庫、冷えるから」

 カイルは受け取った。紙包みは掌の熱を吸って、わずかに湿った。

 日が落ちると、ヴォルンハイムの空は墨を流したように垂れ込めた。北の山脈の彼方で稲光が走り、石畳を叩く雨粒の密度が刻一刻と増していく。軒先の銅鈴が不規則に鳴り、遠くで犬が一度だけ吠えて、あとは雨の帷(とばり)に呑まれた。

 少年は油灯を掲げ、折れた木剣の半分を帯に差し、父の名の残る握りの方は胸元深くに仕舞って、地下倉庫の階段を下りた。石段は一段ごとに湿り、冷気は踝(くるぶし)から膝へ、膝から腰へと登ってくる。壁の苔が灯火に青黒く浮かび、どこかで雫の落ちる音が、遠い鐘のように響いた。空気には鉄錆と、古い油と、土中で眠り続ける布の匂いが混ざり、喉の奥に薄い膜を張った。階段の中程で、灯芯が一度ふっと細くなった。風などないはずの地下で、それは不自然な揺れ方だった。

 積み上げられた古木箱の奥――ランプの輪がようやく届いた、その先で、少年の足は止まった。

 壁の漆喰が、縦に一本、細く裂けている。その裂け目の奥から、風でも水でもない微かな振動が伝わってきた。

 それは、確かに、鼓動のように脈打っていた。

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