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隠匿数値9999の鑑定使い

第3話 第3話

第3話

第3話

遠吠えが、二度目に響いた。

一度目より、確実に近い。

霧の中の獣の気配を、俺は背骨で拾った。十二歳の骨の薄さが、そのまま地面の振動を伝えてくる。前世の俺の頭が、冷静に距離を換算する——二十メートル、いや、十五。

左の肋が軋んだ。俺はそれを奥歯で噛み潰した。

視界の隅、【真 …   】の一行の余白が、さっきより濃く滲んでいる。指先の血と、薬草の繊維の青が、同じ爪の間で乾きかけていた。俺は湿った腐葉土に片膝を落とし、息を整えた。鼻腔の奥に、昨日の雨の残り香と、どこか遠くで腐りかけた獣の死骸の匂いが、薄く混じっている。

——読みたい。

そう思った瞬間、画面が、ぱちり、と反転した。

【表示スキル … 鑑定 Lv1】 【真スキル … 全権鑑定】 【隠匿数値 … 9999】 【魔力総量 … 上限解放済】 【成長補正 … ×100】

瞳孔の奥が、冷たく鳴った。

——テンプレだ。

前世の俺が、通勤電車で何度も読み飛ばした、あの量産テンプレ。鑑定Lv1の下に眠っていた本当の値。上限解放済み。成長補正、百倍。文字列そのものは、見慣れすぎて鼻で笑えるほどだった。行間に、どこかで読んだ別の小説の、別の主人公の顔が、一瞬だけ重なって消えた。

笑えなかった。

指先が、震えているのが分かった。恐怖ではない。十二歳の身体の、骨格より細い神経が、その数値の重さにまだ追いついていないだけだった。俺は右手を握り、開き、また握った。掌に食い込んだ爪の跡が、三月前より深く残る。痛みは、ある。鈍く、確かに、ある。その痛みだけが、いま、俺と、この滑稽な数値列を、同じ地平に繋ぎ止めていた。

息を吐いた。白い湯気が霧に溶けた。

遠吠えが、三度目。

今度は、もう、姿が見えた。

灰色の毛皮の狼が、崖下の斜面を、音もなく降りてくる。さっき俺を囲もうとした三頭より、ひと回り大きい。肩の位置が、俺の胸の高さだ。右耳の付け根に、赤黒い傷痕が走っている。古傷だ。幾人もの冒険者を、この牙が葬ってきた証だった。毛皮の下で、筋繊維が、波のように交互に浮いては沈む。一歩ごとに、斜面の小石が、ほとんど音を立てずに転がった。殺しに慣れた足取りだった。

俺は、まだ膝を落としたまま、視線だけ上げた。

【鑑定】——指先で、空中を一度、軽く叩いた。

画面が、流れ落ちる滝のように、切り替わった。

【魔狼・瘴霧種(Stygian Wolf)】 【等級 … A】 【体格 … 体長 2.4m/体重 180kg】 【HP … 3,210/3,210】 【攻撃特性 … 瘴気纏いの牙・咬合圧 1.2t】 【防御特性 … 鉄糸毛皮(物理耐性 中)/瘴気自己修復】 【弱点部位 … 頸動脈直上の魔核結節/鉄糸毛皮の継ぎ目(右脇腹下)】 【魔素構造式 … 瘴気-20 ⇄ 血液循環 ⇄ 魔核】 【推奨攻撃 … 魔核を直接破砕/瘴気循環を一撃で断つ】

——構造式、までかよ。

前世の俺が、品質管理の部署で睨み続けた、成分の相互作用図。あれと同じ形式で、獣の命の回し方が、綺麗に文字列に落ちている。瘴気が血液に溶け、血液が魔核に戻り、魔核がまた瘴気を吐く。止めたい場所は、右脇腹下の、鉄糸毛皮の継ぎ目。そこに、一撃。

頭の中で、あの白い蛍光灯の会議室の匂いが、一瞬だけ蘇った。原料の反応経路を矢印で追って、どこを断てば連鎖が止まるかを、延々と議論していた頃。いまここで見ている矢印は、紙の上じゃない。二・四メートルの肉と、骨と、牙の中で、現に回っている。

——出来るのか。

試したことが、あるか。

ない。三月間、俺の身体が振るえたのは、鎌と土いじりの鍬だけだった。掌の豆の位置すら、戦うための配置じゃない。耕す者の、それだった。

それでも、俺は、膝を伸ばした。

左の肋が、鋭く刺した。無視した。呼吸を、腹の底に一度だけ沈めて、また引き上げる。

魔狼が、口角を裂いた。黄ばんだ牙の奥で、瘴気が薄く滲む。獲物を値踏みする目。三月前の俺なら、ここで終わっていた。いまの俺の、どこに、牙を当てるか、だけを計っている。喉か、腿か、利き腕か。獣の瞳の奥で、その選別が、ゆっくり回っているのが、はっきりと見えた。

——魔素を、指先に。

前世の俺が何十と読んだテンプレの、基本動作。けれど、身体は、覚えていない。

俺は、右手を、前へ出した。

掌ではなく、人差し指だけ。

胸の奥で、濁った熱が、ゆらりと動いた気がした。錯覚、ではなかった。空気の粒子が、俺の指先に向かって、じわりと寄ってくる感覚。肌の表面の産毛が、一本ずつ、逆立っていく。呼吸を一つ、深く。肋が軋む。構うものか。指先の、第一関節の腹のあたりが、皮膚の下で小さく脈打ち始めた。心臓とは別の拍動だった。

画面が、勝手に、一行だけ表示した。

【補助:魔素収束 … 自動整形中】

——至れり尽くせりか。

俺は、奥歯の裏で、短く笑った。笑いの端で、口の中の鉄の味が、もう一段濃くなった。

魔狼が、地を蹴った。

百八十キロの塊が、灰色の残像を引いて、空気ごと押し寄せてくる。咬合圧一・二トン。首筋一つで人間の頭蓋を噛み砕く数値。前世の俺なら、悲鳴を上げる余裕すら、なかった。霧の粒が、獣の肩口で渦を巻き、斜めに裂かれる。風圧が、俺の前髪を一度だけ、後ろへ撫でた。

いまの俺は、ただ、右脇腹下、鉄糸毛皮の継ぎ目だけを、見た。

指先の熱が、限界を越えた。

「——散れ」

呟きと、ほぼ同時だった。

人差し指の先から、薄い光が、一筋だけ、抜けた。火花でも、雷でもない。光ですらなかったかもしれない。ただ、空気の粒子が、一直線に圧縮されて、魔狼の右脇腹の、鉄糸毛皮の一点に、吸い込まれて、抜けた。

音は、なかった。

毛皮の一点に、小さな穴が空いた。穴の縁が、白く燃え始めた。次の瞬間、魔狼の胴体が、内側から爆ぜた。

黒い霧と、赤黒い肉片と、焦げた毛の匂いが、同時に俺の頬を叩いた。熱が、頬骨の下で一度だけ跳ねて、すぐに冷たい霧に吸い取られた。舌の上に、鉄と、硫黄に似た何かの粒子が、ざらりと残った。

二歩、後ろへ、吹き飛ばされた個体の残骸が、地面に落ちる前に、灰になった。

枯れ葉の上に、ひと握りの、黒い粉が、散った。

霧が、さっと引いた。

俺は、右手の、人差し指の先を、見た。

火傷は、していなかった。爪の縁に、細い煤が一筋、残っているだけだった。指紋の溝に、ほとんど感じられないほど微かな、温い残熱が、まだ居た。

——一撃。

肋が、呼吸のたびに軋む。口の中が、鉄の味で満ちている。手が、震えていた。怯えではなかった。頭の芯の冴えが、身体の感覚を、ようやく追い越していった、その反動だった。膝の裏の腱が、遅れて、かくんと一度だけ落ちた。俺は踵で踏ん張って、それを殺した。

画面が、静かに、切り替わった。

【撃破 … 魔狼・瘴霧種(A級) ×1】 【経験値 … 12,480 → 補正適用 → 1,248,000】 【レベル … 1 → 48】 【新規取得 … 魔素整流/瘴気耐性(小)/戦闘時思考加速(初級)】 【真スキル … 全権鑑定(常時開放)】

俺は、黒い粉の残骸の脇を、ゆっくりと回り込んだ。

布袋は、崖上に残してきた。黒パン二つと、欠けた銅貨三枚。今更、惜しくはなかった。灰になった魔狼の、右前脚の爪だけが、焼け残っていた。指の先で拾い上げる。硬い。鉄の釘より重い。A級の証として、充分すぎる。爪の湾曲の内側に、まだ、微かに瘴気の残り香が澱んでいた。これひとつで、村の年貢三年分は、固い。

俺は、それを、胸元の布の切れ端に包んだ。布越しにも、熱とも冷ともつかない硬さが、肋の上に、ずしりと座った。

遠吠えは、もう、聞こえなかった。代わりに、北の崖上、枯れ枝の折れる音が、一つ。続いて、複数。獣のそれではない、革靴の、踏み方だった。足の裏で枝を選んで踏む、慣れた重さの、歩幅だった。

画面の右上に、新しい一行が、滲んだ。

【接近中 … 人間 ×3/奴隷商隊(推定)/反応:警戒】

——早速か。

俺は、煤のついた指先を、舌で舐めた。鉄の味の奥に、薄く、甘い何かが残っていた。魔素の、残り香かもしれなかった。舐めた場所の皮膚だけが、一瞬、痺れるように冷えて、すぐに戻った。

左足を、前へ。右足を、続けて。

十二歳の骨格が、一歩ごとに、僅かに沈んで、戻った。

崖下の霧を背に、俺は、歩き出した。

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