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隠匿数値9999の鑑定使い

第2話 第2話

第2話

第2話

蓋が、砕けたままだった。

砕けた隙間から、俺ではない誰かの一日が、延々と染み出している。

通勤ラッシュの肩のぶつかり。駅ホームの黄色い線。缶コーヒーの底に残った苦い一口。指先で回したマウスの軽いクリック音。部屋の蛍光灯のわずかな唸り。モニターの向こうで積み上がっていく統計と、薬学の教科書と、誰かが書き散らした異世界ファンタジーの電子書籍の数々。

どれも、知らない。どれも、覚えている。

──これは、俺のだったのか。

意識は、まだ地面に伏せたままだった。右肩が熱い。左の肋骨が、呼吸のたびに軋む。指先で探ると、手の中に潰れた薬草の繊維が張り付いていた。七株。握っていた、はずの。繊維の一本が、爪の間に食い込んで、小さく血を滲ませていた。痛みより先に、青い匂いが鼻に抜けた。

霧は、止んでいなかった。下から湿った空気が這い上がってくる。瘴気の鉄の匂いは、前より薄い。鼻が慣れたのか、それとも、俺の鼻のほうが変わったのか。

頭の内側で、もう一人の自分が、整然と荷物をほどいていく。データベース。統計処理。前世の、恐らく二十年分の知識。薬草の成分表を読み込んだ夜の疲れ目。仕事帰りに立ち寄った本屋の、表紙の擦り切れた冒険者小説。そこに書かれていた、鑑定スキルの典型描写、隠しパラメータの概念、外れ判定の裏で眠る能力の定番テンプレート。

──テンプレかよ。

俺は、地面に伏せたまま、唇の端だけで笑った。笑った、気がした。頬の筋肉は、動いていないかもしれない。

記憶の雪崩の底に、ひとつ、はっきりと沈んでいる映像があった。

白い光が、自動ドアの向こうで膨らんだ瞬間。鞄の中の水筒が、肩に当たって鈍く鳴った瞬間。あれが、前世の俺の、最後だった。ブレーキが鳴る時間もなかった。舌の奥に残っていたのは、朝に飲み残した冷めたコーヒーの苦みだった気がする。

だとすれば、俺は、一度、死んでいる。

死んで、ここにいる。

おかしな話だった。

現代日本で二十数年ほど息をして、通勤路のどこかで撥ねられて死んだ男が、瘴気森の底で、十二歳の子供の骨格の中に詰まっている。そしてその子供は、三月前に選定の儀で外れを引き、家を追い出されて、いま崖下で肋を軋ませている。

──整理しよう。

俺、ということになっているレイの身体は、崖から転げ落ちた。岩の傾斜が緩い斜面へ流れたから、頭蓋骨は割れていない。左肩は砕けたかと思ったが、指は動く。胸の痛みは肋の罅だ。致命ではない。立てる。

問題は、そこではなかった。

脳の中心で何かが裂けた、あの音。あれは、ただの気絶の前兆ではなかった。前世の俺の記憶を封じていた、何かの封印が、衝撃で外れた。そういう理屈だ。そしてそれは、たぶん、偶然ではない。

前世の俺は、薬学系の大学を出て、製薬会社の品質管理の部署にいた。成分表と睨み合い、統計処理のソフトを叩き、夜は異世界ファンタジーの電子書籍を流し込むように読んで、眠る前に、よく、こう思っていた。

「鑑定Lv1で追放された主人公が、実は全権鑑定でした、ってやつ、いくらなんでも量産されすぎだろ」

──その量産テンプレが、いま、俺だ。

声を出さずに、腹の底で笑った。今度は確かに、頬が動いた。小さな筋が、こめかみの横で引きつるのを感じた。十二歳の顔の皮膚は薄く、笑みの形を作ろうとするだけで、瞼の裏まで熱が走る。

痛みが走った。胸の罅が悲鳴を上げる。俺は笑うのをやめ、湿った地面に頬を戻した。土の粒が、唇の端に張りついた。かすかに、苔の甘い匂いと、血の錆びた味が、同じ舌の上で混ざった。

冷静に、と自分に言い聞かせる。十二歳の身体に二十年分の頭が詰まっているなら、感情で動いてはいけない。それはテンプレの主人公が、序盤三話以内で必ずやらかす失敗だ。読んできて、知っている。

俺は、呼吸を数えた。一、二、三。肋が軋む。四、五、六。罅の位置を探る。左第七肋、斜めに一本。全治、三週間といったところか。前世の俺の知識が、冷たい数値で上書きしていく。

それから、視界の隅に、目を向けた。

あった。

半透明の、薄緑の文字列が、空中に固定されていた。

【鑑定 Lv1】

選定の儀の時と、同じ表示。六文字。それだけ。変わっていない。

──変わって、いない?

俺は、もう一度、目を凝らした。

画面の左上に【鑑定 Lv1】の文字。その下に、余白。何もない、半透明の空白。三月間、俺が嫌というほど見続けてきた、あの虚ろな空白。

なのに、その余白に、うっすらと、何かが滲んでいた。

最初は、湿気か、涙か、血の膜のせいだと思った。俺は右腕を持ち上げ、指の背で目元を拭った。血はついた。涙は、出ていなかった。

滲みは、消えていなかった。

細い数字が、ゆっくりと浮かび上がってくる。桁数の見当もつかない。並びの中に、同じ形の記号が、四つ。ちらついて、消えて、また現れる。読めるのは、ほんの一瞬の残像だけ。瞬きを一つ挟むと、数字の位置がわずかにずれている気がした。焦点を合わせようとするほど、輪郭は遠ざかる。

──これは、隠されていたものだ。

前世の俺が読んだテンプレ、その中で、何十回と見た構造。スキルレベルの下に、別の値が眠っている。「表示用の値」と「本当の値」。神器の水晶玉は、前者しか読まなかった。そして村は、前者しか信じなかった。

試しに、俺は手の中の、潰れた薬草を、見た。

視線を合わせた瞬間、画面が、ぱちり、と切り替わった。

【薬草(マンドラ芋・瘴気種)】 【魔素含有 … 微量】 【毒性 … 調理で中和可】 【市場価格 … グレヴィル町相場 … …】

相場の値は、また、途切れた。

けれど、十分だった。

三月間、ギルドの前で「薬草」の二文字しか出せなかった鑑定が、いま、途切れ途切れに、別のことを囁き始めている。喉の奥で、ひとつ、小さな唾を飲んだ。その音が、やけに大きく、自分の頭蓋の内側で反響した。

俺は、肋の痛みを押し込めて、上体を起こした。

頭の芯が、妙に冴えていた。前世の二十年分の冷静さが、十二歳の骨格に、ぴたりと収まっていく。

崖上を見上げる。三頭の瘴気狼の気配は、もうなかった。俺が落ちてきた高さを、目で測る。垂直換算で、十五メートル前後。枝と苔のクッションがなければ、死んでいた。

──死ななかったのは、偶然か。

そう思いかけて、違う、と自分に言い直す。

落下の瞬間、視界の隅に、確かに走った文字があった。

【警告:臨界域 至近】

あれは、鑑定の結果ではない。あれは、俺自身を、俺自身の奥の値が、守ろうとした表示だ。

俺は、胸に視線を向けた。

画面が、ゆっくりと、切り替わる。

【名 … レイ】 【年齢 … 12】 【表示スキル … 鑑定 Lv1】 【真 … 】

最後の一行の、空白部分が、じわりと、滲み始めた。

文字は、まだ読めない。けれど、確かに、そこにある。

俺は、しばらく、その滲みを見つめた。見つめているうちに、指先の震えが止まっていくのが、自分でも分かった。恐怖でも、興奮でもない。ただ、答え合わせに似た何かが、胸の奥でゆっくりと沈殿していく。

それから、湿った地面に両手をついて、立ち上がった。左肩が軋む。肋が悲鳴を上げる。構うものか。

布袋は、崖の上だ。黒パンも、欠けた銅貨三枚も、そこに残してきた。薬草七株は、潰れながらも、手の中に握られている。

帰る、と俺は決めた。

ただし、来た道ではない。グレヴィル町のギルドに戻って、受付のおっさんに薬草を突き出して銅貨五枚を受け取り、また鼻と爪で土を嗅ぐ日々に戻る——その選択肢は、切る。

前世の俺が読んだテンプレの、序盤三話以内の失敗。それは、たいてい、覚醒した主人公が、喜びのままに村へ戻って、スキルを見せびらかすことだった。

俺は、視界の隅に滲む【真 … 】の一行を、奥歯の裏に閉じ込めた。読めるようになるまでは、誰にも見せない。読めたあとも、すぐには見せない。

瘴気の底から、一歩、踏み出す。右足、左足。湿った腐葉土が、靴底の下で鈍く鳴った。足裏から伝わる冷たさが、膝の裏を通って、胸の罅の際まで登ってくる。息を吐くと、白い湯気がひとつ、霧の中に溶けて消えた。

どこかで、獣の遠吠えが、一度だけ、響いた。近い。

──来るなら、来い。

呟きは、前世の俺の声にも、今の俺の声にも、似ていなかった。ただ、低く、冷えていた。

滲んだ文字の余白で、同じ形の記号が、もう一度、ちらついた。

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