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隠匿数値9999の鑑定使い

第1話 第1話

第1話

第1話

神官の指がこめかみに触れた瞬間、骨を撫でる冷気が走った。

「——『鑑定』。レベル一」

水晶玉に浮かんだ文字を、神官は二度読み直した。三度目はなかった。広間に集められた十二歳の子供たちが、いっせいに息を吸い込む音だけが響く。

「鑑定の……Lv1か」

神官の声に困惑が滲んだ。隣の助祭がそっと耳打ちする。

「これは、外れですな」

俺、レイは唇を噛んだ。爪が掌に食い込む。痛みは感じなかった。痛みを感じる前に、頭の中が真っ白に焼けていた。

「……ハズレだな」

最前列の村長が呟いた。続いて、誰かが小さく舌打ちをした。

選定の儀。十二歳になった子供が神器に触れ、生涯のスキルを授かる、神聖な通過儀礼。隣に立っていた幼馴染のユウキは、半刻前に『聖剣士・神聖魔法・ドラゴンスレイヤー』の三重判定を引き当てた。神官は腰を抜かし、王都へ早馬が走り、神託の四英雄、その最後の一席が埋まった——と村中が震えた。

そして俺は、鑑定Lv1。

家に戻ると、父はもう荷物をまとめていた。俺のではなく、俺を追い出すための袋を。

「ハズレを養う余裕は、うちにはない。今夜中に出ていけ」

「父さん」

「もう一度言わせるな」

声に温度はなかった。母は俯いていた。妹は、最後まで俺と目を合わせなかった。

──そうか。これが、俺の十二歳の春か。

布袋ひとつ。乾いた黒パンが二つ、欠けた銅貨が三枚、母が幼い俺のために縫ってくれた肩当ての残骸。それだけを抱えて村の外門をくぐる時、後方を白馬の隊列が通り過ぎた。鞍上のユウキは、確かに俺を見た。目が合った。だが、唇は動かなかった。馬蹄が砂を噛む音だけが、俺の喉の奥にざらりと残った。

「……達者でな、勇者様」

呟きは、誰にも届かなかった。

街道の脇に倒れた一本松の根方に腰を下ろし、俺は布袋から黒パンの一つを齧った。乾いた粉が舌の上で割れる。涙は、出なかった。出る分の水が、もう、なかったのかもしれない。

それから三月。

俺は辺境のグレヴィル町で「最底辺冒険者」と呼ばれていた。

理由は単純だった。鑑定Lv1は、何の役にも立たない。目の前の薬草に手をかざしても、表示されるのはたった一語。「薬草」。乾いているか湿っているかも、毒の有無も、相場の値段も、ブラックボックスのまま。畑の野菜にかけても「野菜」、井戸水にかけても「水」、狼にかけても「狼」。世界の解像度がそのまま下がっているような、無能スキル。

「鑑定持ちって聞いたから期待したのに、お前のは飾りかよ」

ギルド受付のおっさんが、俺の手の中の依頼書を取り上げて、半笑いで投げ返してきた。

「同じ台詞、何回聞きましたか」

「知らねえな。俺はお前の家計簿じゃねえ」

おっさんは、俺の鎖骨の浮いた肩を一瞥した。痩せ細ったハズレ持ちが瘴気森で死んでも、誰一人困らないという顔だった。

「Fランクの仕事、お前以外に取り手がいねえからやるんだ。瘴気森の三層、薬草マンドラ十株。報酬、銅貨五枚」

「……三層って、Cランク推奨でしょう」

「文句あるか? 嫌なら他所で稼げ」

他所はない。三月前、俺はそれを学んだ。隣町でも、その隣でも、外れスキル持ちには宿の一晩分の銅貨も貸してくれない。冒険者ギルドだけが、首輪のついていない仕事をくれる。

俺は依頼書を握り直した。羊皮紙の縁が指先を擦る。マンドラ十株で銅貨五枚。Cランク推奨の領域に踏み込んで、運良く生きて帰っても、宿に泊まれば二日で消える額だ。それでも、ない金よりはマシだった。

「行きます」

「お、根性あるじゃねえか。死体は引き取らねえからな」

裏路地を抜ける時、酒場の窓越しに歓声が漏れた。覗くと、王都から流れてきた吟遊詩人が竪琴をかき鳴らしていた。

「——四英雄、輝けるユウキ! 神剣を抜きし若き勇者の名を、いざ高らかに——!」

「ユウキ様!」「俺たちの村の勇者だ!」「ハズレ持ちなんざとは、格が違うんだよ!」

杯がぶつかる音。中で叫んでいる男のひとりは、三月前まで俺の家の隣に住んでいた肉屋の親父だった。彼の視線は、窓の前を通り過ぎる俺を、一度もかすめなかった。窓ガラスに映った自分の輪郭は、三月前より一回り細く、頬骨は影を落とし、眼窩は落ち窪んで、見知らぬ野良犬のようだった。それでも目の奥だけが、妙に乾いた熱を持っていた。泣く熱ではない。憎しみですらない。ただ、生きて明日を見るために必要な、わずかな火種のようなものだった。

俺は壁に背を預け、目を閉じた。

腹は鳴っていなかった。鳴る分の中身が、もう、なかった。

森に入ったのは、正午を過ぎた頃だった。

瘴気森の二層までは、苔むした倒木と灰色の蛇しか出ない。問題は三層だ。空気が変わる。喉の奥に鉄の味がへばりつき、視界の端に黒い霧が滲み始める。深く吸えば肺が痺れ、浅く吸えば足元がふらつく。Fランク冒険者が踏み入れていい領域ではない。

「マンドラ、マンドラ……」

俺は腰を屈め、地面を這うように進んだ。鑑定をかける。──「薬草」。ただ、それだけ。Lv1は種類の判別すらできない。鼻を地面に近づけ、葉裏の毛の生え方と、根元の土の盛り上がりで見分ける。三月の独学が、ここで効いた。一株、二株、三株。

葉の裏に銀色の細毛が走り、茎の根元が拳ひとつ分だけ盛り上がっていれば、それがマンドラだ。最初の一月は十株掘って九株が外れだった。次の一月で半分に減った。今は、三株に一株は当たる。鑑定の一語だけでは足りない部分を、爪と鼻と指先の皮膚感覚で埋めた、泥臭い技術だった。

四株目の根を抜く時、指先が痺れた。瘴気が皮膚から染みている。俺は舌を噛んで、奥歯の裏に鉄の味を呼び戻す。眠気は、瘴気で死ぬ前兆だった。五株。六株。額の汗が顎先から落ちて、腐葉土に黒い点を作った。

七株目を引き抜いた時、後方の藪が、ざり、と揺れた。

振り返るな、と本能が叫んだ。だが俺は振り返ってしまった。

灰色の毛皮が、こちらを見ていた。瘴気狼。Cランク。三層の中位種。

──走れ。

考えるより先に脚が動いた。腐葉土が滑る。俺は西側の斜面を駆け下りた。狼は追ってこなかった。代わりに、別の三頭が前方の岩陰から音もなく現れた。

「……囲まれた、のか」

退路は、北の崖縁しかない。

俺は走った。布袋を投げ捨て、薬草七株だけを胸に抱えて走った。木の根に爪先を引っ掛け、肩で枝を折り、頬に細い切り傷を作りながら走った。崖縁が見えた。霧が下から這い上がってくる。瘴気溜まりの底だ。落ちれば終わり。それは、町を出る前に酒場の老人から聞いていた。

「あの霧の底に落ちて、戻ってきた奴はいねえ」——皺の寄った口元から漏れた老人の声が、走りながら頭の中で再生された。

知っていて、俺は止まれなかった。止まれば、後ろから喉を裂かれるだけだった。

背後の唸り声が一段近づいた瞬間、俺は反射的に右へ跳んだ。脚の下から、地面が消えた。

「あ」

身体が、空に投げ出される。

落下の瞬間、視界の隅に半透明の文字列が、一瞬だけ走った。

【警告:臨界域 至近】

──なんだ、それ。

そう問う前に、横倒しになった俺の左肩が、岩の角に叩きつけられた。骨の砕ける鈍い音と、湿った布の擦れる音が、同時に耳元で爆ぜた。

転がる。回る。世界が反転して、暗い樹冠の隙間から灰色の空が覗き、また消える。岩、苔、根、また岩。背中、腰、膝、また背中。胸の中の薬草七株が、握りしめた指の間で潰れていく感覚だけが、奇妙に鮮明だった。

最後に背中を打った時、肺の空気が、一息で吐き出された。

意識が、薄い紙のように剥がれていく。

霧の臭い。鉄の味。指先の感覚は、もうなかった。

「……死ぬ、のか」

呟きは、唇を動かしただけだった。

その時——

頭の奥で、何かが、砕けた。

ガラスでも、薄氷でも、卵の殻でもない。もっと固くて、もっと長く封をされていた、見えない蓋のようなもの。砕ける音が脳の中心を裂いて、覚えのないはずの光景が、雪崩のように流れ込んでくる。

蛍光灯。アスファルト。スマートフォンの画面。手すりにもたれた誰かの背中。「次の電車が——」というアナウンス。改札を抜ける時の軽い金属音。鞄の中の水筒が肩に当たる重み。誰かのため息。湿ったコートの襟。自動ドアの向こうで、白い光が一瞬膨らんで——それから、何も。

俺ではない誰かの一日が、俺の記憶だったかのように、骨の内側に並んでいく。画面越しに積み上げた膨大な知識。データベース、統計、薬草の成分表、毒物学、冒険者という概念を外から眺めて楽しんだ小説の数々。どれも、今の俺のものではない。なのに、確かに、俺のものだった。

──ああ、俺は。

掠れる視界の中、俺はもう一度、半透明の文字列を見た。今度は、消えなかった。

【鑑定Lv1】──のすぐ隣に、薄い数字が、じわりと滲み始めていた。

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