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理を視る眼は、静かに覚醒する

第3話 第3話

第3話

第3話

視界が、塗り替えられた。

金色の、薄い膜のようなものが、俺と敵との間に張られている。ゴブリンの頭目。皮の下の筋繊維。錆びた刃の歪んだ刃筋。その全部に、淡い線が走っていた。

赤い線は、動きの軌跡。青い点は、弱点。

頭目の顎の下、気管が皮膚の薄い場所で脈打っている、その一点。 錆刃の根元、刃と柄を繋ぐ鋲が、腐食で半分剥がれかけている、その継ぎ目。 肩甲骨の下、古い傷痕に沿って筋が裂けかけている、うっすらと青く滲んだ帯。歩幅のくせ、左足がほんの少し内側に入る、その癖まで、赤い線が連なって見えた。視えるものが、多すぎる。脳の裏側が、針で引っ掻かれるように、じりじりと熱い。息をひとつ吸うたびに、世界の解像度が、一段ずつ、荒く、深く、降りていく感覚だった。

——視えている。

理屈はない。ただ、身体の外側で、世界がひとつ、皮を剥いだ。

「あ——」

誰の声か、分からなかった。少女の短い驚愕か、俺自身の息が漏れただけか。判断する間もなく、足が、もう前に出ていた。

地面が固い。土の粒のひとつひとつまで、妙に近い。虫の這った跡、枯葉の葉脈、血の染み込んだ黒い点、その全部が、距離を失って、眼の奥に貼りついてくる。草の茎を踏み折るときの、軽い、乾いた音まで、耳の奥で、やたらに大きく響いていた。 目の前で、頭目の錆刃が、少女の頭上から、俺の視界へ弧を描く。その軌道の赤い線が、糸のようにくっきり視えた。

——線を外すだけで、いい。

身体を、半歩、右にずらす。

風圧が、左耳のすぐ横をかすめた。髪が数本、刃と一緒に削がれる感触。刃が、空を斬った瞬間、頭目の顎下の青い点が、一段、明るくなった。呼応するように、青い点の周りに、細い赤い糸が、くるりと巻き上がる。まるで、そこを通れ、と、世界そのものが、道筋を引き直したようだった。

「——ッ!」

枝を、両手で、下から撥ね上げた。

痩せた腕の力は、枝に乗らなかった。代わりに、線の上を滑るように、枝先が、顎の薄い皮膚へ吸い寄せられる。

鈍い感触は、ほとんど、なかった。骨にぶつかる重みも、皮を裂く抵抗も。粗末な木の節が、青い点の座標を、正確になぞっていく。枝の先は、そこから奥へ、吸い込まれるように進んだ。

頭目の喉から、ひゅっ、と、空気が抜ける音がした。 それだけ、だった。

緑の頭が、紙人形の首が折れるように、斜めに、ずれる。 ずれたまま、ずり、と、落ちた。

頭目の身体が、膝から崩れる。錆刃が、土の上で、二度、跳ねた。

ゴブリンたちの、甲高い笑い声が、止んでいた。

風の音。遠くの馬の死骸にたかる、蠅の羽音。 少女の、細い息。 俺自身の、ひゅうひゅうと鳴る肺。

その四つだけが、世界に、残っていた。

——一匹。

視界の金色は、まだ消えていない。 残り、五匹。

動きの線が、視える。

右の一匹、棍棒。振り上げ、の初動。胸の青い点、肋骨の浮いた場所。 左の二匹、刃物。振りかぶりの予備動作、まだ遅い。手前の一匹の、膝の裏に、細い線。奥の一匹の、握った指の関節、腱の走り方まで、赤く震えていた。 後方の二匹、棍棒と、弓。弓の矢筈に、まだ矢は番えられていない。

金色の膜の中では、敵の数は、数ではなかった。線の束、点の集合。それが、位置と時間を変えながら、少しずつ、俺へ向かって絞られていく。膜がほどけるより先に、絞り切らせない、それだけが、唯一の正解だった。

「——囲むな」

声が、喉から、出ていた。 相手に言ったのか、自分に言い聞かせたのか、分からない。ただ、囲まれた瞬間に線が増えすぎて、脳が焼き切れる、という確信だけが、肋骨の奥で、鋭く鳴っていた。

身体が、一歩、踏み込む。 枝を、振る。

右の一匹、肋骨の間。線をなぞる。枝先が沈んだ手応えを、掌が、ようやく、思い出した。ゴブリンの喉が、ぐぷ、と鳴って、膝から折れる。倒れ込む重みが、土の上に、どすん、と鈍く伝わった。噴き上がる血の粒が、金色の膜に遮られて、赤い霧のまま、視界の端で、細かく散った。 左の二匹、膝裏、喉。線。線。 線をなぞるだけで、枝は、勝手に、正しい場所へ落ちていった。踏み出した足の裏に、皮のサンダルの底越しに、濡れた土の冷たさが、じわりと、しみる。

視えさえすれば、当たる。 当てるのは、俺じゃない。視える線が、勝手に、枝を引っ張っていく。

四匹目。

緑の皮膚に、汗とも脂ともつかないものが、薄く浮いていた。怯えの匂い。それさえも、金色の膜の中では、細かい粒として視えた。牙の隙間から、ひ、ひ、と、短い息が漏れている。殺される順番を、一匹ずつ、理解し始めている目だった。 胸の線をなぞった瞬間、膝の内側で、何かが、ぶつりと切れる音がした。

筋か、腱か。

前のめりに、地面に手をつく。湿った土が、掌に、ぐしゃりと潰れた。指の間から、冷たい泥が、つう、と滴る。

残りの二匹が、逃げた。 弓と、棍棒を、そこに置いて。森の奥へ、甲高い声を上げながら、転がるように。

静寂が、落ちた。

視界の金色が、潮の引くように、遠のいていく。 目の奥に、熱い針を差し込まれたような痛み。こめかみの血管が、ひとつ、内側で張り裂けかけている。手の先から、感覚が、一枚ずつ、剥がれていくのが分かった。指の関節が、他人のものみたいに、硬い。心臓が、痩せた肋骨を、内側から、ばらばらに叩いていた。

喉の奥から、鉄の味が、上がってきた。

咳き込む。 手で、口を塞ぐ暇も、なかった。

赤いものが、痩せた掌を、汚した。

土の上に、ぽた、ぽた、と落ちる。黒く湿った地面に、一粒ずつ、丸い跡を残して、ゆっくりと吸い込まれていった。自分の身体から出たものとは思えないくらい、その赤は、鮮やかだった。

「——あ、」

少女の声、だった。

「——あなた、」

這うように、近づいてくる気配。裾の布が、土を擦る音。小さな膝が、枯葉を割る、ぱき、という音まで、近い。

俺は、顔を上げようとして、目眩で、上げられなかった。

【覚醒待機】の五文字は、もう、視界の端にない。 代わりに、別の文字が、薄く、滲んでいた。

【——理を視る眼(ことわりをみるまなこ)——覚醒】

光は、強くなかった。 疲れ切った灯のような、細い輝き。

——なるほど。

唇が、勝手に、そう動いた。声には、ならなかった。

これが、俺の、最初の、武器。

胸の底で、何かが、小さく、熱くなった。達成感でも、高揚でも、ない。家族以外の誰かを、結果として、守れた、という、薄く、温い、事実だけが、肋骨の裏に、ひとつ、残った。

視界が、暗くなっていく。意識が、縁から、黒く、溶けていく。

鉄の味が、舌の上で、強くなった。掌の血が、もう、乾き始める冷たさ。

膝の力が、抜ける。

地面に、肩から、倒れた。湿った土の匂いが、鼻の奥に、深く沈む。 頬に、枯葉の縁が、ちくりと、刺さった。その痛みさえ、遠かった。

——ああ、また、眠るのか。

前世の、病院のベッドを、思い出した。 白い天井。消毒液。父の革靴の、遠ざかる音。呼び止められなかった、四文字。

違う、と、思った。 今度は、違う。

目を、閉じる前に、横で、小さな影が、動いた。

亜麻色の髪が、揺れる。

少女が、膝をついていた。血と土で汚れた白い袖口を、一度、ぎゅっと握り、口元へ運ぶ。 震える、指先だった。その震えは、恐怖のものでも、寒さのものでも、なかった。もっと、押し殺された、泣き出す直前の、細かな震えだった。

その指先が、おずおずと、俺の唇の端へ、伸びてくる。

——血を、拭ってくれている。

布の感触は、冷たい。けれど、指先そのものは、熱かった。生きている人間の、まだ子どもの体温が、俺の口の端に、ふ、と、触れた。薄い皮膚越しに、その子の脈が、一度、とくん、と伝わってくる。

指の腹が、そっと、俺の口の端を、押さえる。 丁寧に。祈るように。何度か、袖口の布を、土の上で確かめ直しながら。汚れた布を、また押し当てる、という失礼を、それでも止められない、という躊躇いが、その小さな手の動きに、残っていた。涙を、見せないように、何度も、まばたきを繰り返しているのが、気配で、分かった。

少女の唇が、何か、言っていた。

「——生きて、」 「——お願い、生きて、」

それは、俺が前世で、誰かに、一度、言って欲しかった言葉と、ほとんど同じ形を、していた。

閉じかけた瞼の裏で、【理を視る眼】の五文字が、もう一度、薄く、脈打った。

——ああ。

眠る前に、思った。

俺は、まだ、ここに、いていい、のかもしれない。

意識の底で、遠く、街道を駆けてくる、重い足音が——この森のゴブリンでも、少女の護衛のものでもない、もっと大きな、鎧を鳴らす響きが、複数、聞こえ始めていた。

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