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理を視る眼は、静かに覚醒する

第2話 第2話

第2話

第2話

足が、重い。 一歩ごとに、膝が笑う。空腹で視界の端が白んで、耳鳴りが風の音に混ざる。それでも、止まらなかった。 胃の底が、からからに乾いていた。唾を飲もうとしても、喉の奥が擦れて、薄い血の味だけが舌に残る。足裏の皮はとうに破れて、下生えの枯れ枝を踏むたびに、鋭い痛みが脛まで駆け上がった。 悲鳴が、もう一度、した。 今度は、さっきより近い。女の声——いや、少女だ。まだ声変わりもしていない、高くて細い悲鳴。二度、三度、短く途切れながら、何かを呼んでいる。 「……ちっ」 舌打ちが、口から勝手にこぼれた。前世でも、こういうときに舌打ちをするのは、父の癖だったと思い出す。似たくなかったものに、身体だけが先に似ていく。 懐の石が、鼓動のように、胸の内側で熱を持っている。視界の端の【覚醒待機】は、足を動かすたびに、一度ずつ脈打った。 街道らしい土の道が、梢の切れ間に見えてきた。森の匂いに、焦げた油と、獣の体臭が混ざる。 鉄の、擦れる音。 木を削るような、低い唸り声。 ——魔物だ。 この身体の、前の持ち主の残響が、また囁いた。ゴブリン。低級種。身長は一メートル前後、棍棒と粗末な短刀、錆の浮いた刃物。視力は良くないが、嗅覚が鋭く、群れると厄介。 知識だけは、ある。 問題は、それを使える腕がないことだ。

木の幹に身体を預け、街道を覗く。幹の樹皮が、湿った頬に冷たく張りついた。苔の青い匂いが、鼻の奥で、湿った石の味に変わる。 馬車が、二台。そのうち一台が、側面に槍のような傷を受けて傾いでいる。車輪が半ばめり込み、積荷が土の上に転がっていた。麻袋、木箱、そして——血の跡。 馬は、二頭とも倒れている。喉を切り裂かれ、まだ湯気の立つ血が、土に黒く染みを広げていた。蠅が、もう集まり始めている。小さな羽音の群れが、静寂の隙間を、じいじいと埋めていく。鉄錆と、内臓の甘ったるい匂いが、風に乗って、喉の奥に粘りついた。吐き気が込み上げて、歯を食いしばる。ここで嘔吐すれば、音で気取られる。 ゴブリンは、五——いや、六匹。 皮のような暗緑色の肌。黄ばんだ牙。腰布一枚に、錆びた刃物。馬車の荷を漁りながら、甲高い笑い声のようなものを立てている。笑っているのか、威嚇しているのか、この耳には区別がつかない。濡れた布を引き裂くような、耳の奥を直接ひっかく音だった。 隊商の男たちは、三人。 一人は馬車の陰で倒れ、動かない。背中から、折れた矢が突き出していた。 一人は、剣を杖にして、辛うじて立っている。左腕が、肘から先、ほとんど垂れ下がっていた。袖口から、ぽたり、ぽたり、と、一定の間隔で血が落ちている。時計の針のような音だ、と、場違いに思った。 もう一人——筋張った大きな男が、残った短剣で、少女を背にかばっている。 少女は、馬車の前輪の陰にうずくまっていた。 年の頃は、俺と同じか、少し下。亜麻色の髪が、血と土で汚れている。白い神官服のようなものを着ていた。裾が裂け、膝から血が滲んでいる。頸に下げた、銀色らしき小さな徽章が、斜めに傾いで光を弾いた。 彼女は、泣いていなかった。 叫んでいたのだ。さっきの悲鳴は、恐怖の叫びじゃない。 「——右! 後ろからもう一匹、来ます!」 その声は、震えながらも、正確だった。 護衛の男が振り向き、短剣を薙ぐ。遅れて近づいていたゴブリンが、甲高い悲鳴を上げてのけぞる。けれど、男の脇腹に、別の一撃が入った。 鈍い音。男が膝を折る。 少女が、護衛の前に出た。 手をかざし、小さく何かを唱える。祈るように、胸の前で小さな印を結び、唇が、速く、静かに動く。 指先に、淡い白光が灯った。灯っただけだ。光は、二度、三度、明滅して、すぐに消えた。蝋燭の芯が、溶けた蝋の海に沈むように、頼りなく。 「……駄目」 少女が、呟いた。声が震えていた。 「もう、魔力が——」 その語尾が、しゃくり上げそうになるのを、歯で食い止めたのが見えた。それでも、逃げない。膝が折れそうになるのを、前輪の縁に爪を立てて、こらえている。指先の爪が、白くなるほどに。 ゴブリンの頭目らしき、一回り大きい個体が、口の端を吊り上げた。笑ったのだと、ようやく気づく。錆びた刃を、少女の頭の上へ、ゆっくりと振りかぶる。 俺は、息を止めていた。 視界の端で、【覚醒待機】が、強く、強く、脈打っていた。

——逃げろ。 頭の中で、前世の父の声がした。 お前に何ができる。痩せた腕と、痩せた脚。握れる武器もない。近づいた瞬間、お前の首も、あの少女の隣に転がる。論理的に、正しい。 ——関わるな。 兄の嗤いが、続く。お前は我が家の恥だ。恥は、誰も助けられない。恥が出しゃばれば、助かる命まで道連れにする。 足が、震えた。 前世の臆病が、膝の裏をがっちり掴んで離さない。十五年かけて叩き込まれた沈黙の作法が、舌の上で重たい鉛になる。俯いて、息を殺して、やり過ごす。それだけで、生き延びてきた。廊下の足音が通り過ぎるまで、布団の中で、何度、同じ呼吸を繰り返したか。枕の内側を噛んで、嗚咽を殺した夜の回数を、もう俺は数えられない。 ——違う。 もう一つの声が、肋骨の裏で、小さく言った。 それは、さっきまでの父でも、兄でもなかった。 もっと、薄い。掠れた、少年の声。 ——俺は、生きていていい、と言われたかった。 だったら、あの少女は、どうだ。 あの少女も、今、まさに、同じことを願っているんじゃないのか。 誰か、と。 誰でもいい、誰か、と。 少女の唇が、声にならない形で、何かを結んだ。 懇願でも、祈りでもない。諦めでもない。 ——「おかあさん」 口の形だけで、そう言った、ように見えた。 喉の奥が、詰まった。 前世で、俺が病院のベッドから、父の背中に言えなかった言葉と、同じ形だった。消毒液の匂いと、白い天井と、遠ざかっていく革靴の音。呼び止められなかった、あの四文字。舌の根が、あのときと同じ場所で、同じ温度に、痺れて固まる。 「——ああ、くそ」 声が、勝手に漏れた。 懐の石を、掴む。窓の【覚醒待機】が、燃えるように脈打った。 条件が足りない、とさっき直感が言った。覚悟、と。 覚悟が、どういう温度のものか、今、初めて、分かった気がした。それは熱ではなく、むしろ、冷たかった。恐怖を通り越した先にある、凪のような冷たさ。手も足も震えているのに、胸の芯だけが、やけに静かだ。雪の降り積もった夜の、音の消えた庭先を、素足で歩くような——そんな冷たさ。 足元に、太い枝が落ちていた。腕ほどの長さ。湿って、重い。握る。掌の皮が、また裂けた。血の匂いが鼻をつく。構うものか。 頭目のゴブリンが、刃を振り下ろそうとしている。 少女の、亜麻色の髪が、風に揺れた。 俺は、木陰から、一歩、踏み出した。 土を、蹴る。 「——おいッ」 痩せた喉から出た声は、思ったよりずっと低かった。自分の声じゃないみたいに、森の空気を切り裂いた。 ゴブリンどもの視線が、一斉にこちらを向いた。六対、十二個の、黄色く濁った眼球。 少女が、顔を上げた。 土と血で汚れた頬に、涙ではなく、驚きが、一瞬、走った。 俺は、枝を、両手で握り直した。 間に合うか、間に合わないか。 分からない。 分からないけれど、止まれなかった。

視界の端で、【覚醒待機】の五文字が、今までと違う色——薄い、金色の光に、滲み始めていた。 胸の奥、閉じたままだった硬い扉の向こうで、何かが、ごとり、と動く音がした。 長いあいだ錆びついていた蝶番が、ゆっくりと、外側へ押し開かれていく——そんな、実感のある重さだった。 頭目のゴブリンが、少女への刃を途中で止め、こちらに向き直る。錆びた刃の先から、血の雫が、土に落ちた。ぽと、と、一滴。 足の裏が、土を噛む。枝を握る手に、血と汗が滲む。 間合いは、あと、五歩。 四歩。 少女が、俺に向かって、何かを叫ぼうとしていた。 「——逃げて」か、「——助けて」か、それとも、別の言葉か。 聞き取る前に、頭目の錆刃が、眉間めがけて、落ちてきた。 窓の【覚醒待機】が、最後の一度、光った。 ——視えた。

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