第1話
第1話
──「お前は、我が家の恥だ」 父の最後の声が、鼓膜の奥で、まだ反響している。 十五年生きて、俺が辿り着いた結論はひとつだった。家族という言葉は、俺を定義しない。 目の前にトラックが膨らんだ瞬間、妙に冷静にそう思った。それで、終わったはずだった。 ——はずだった。 「……寒い」 頬に触れるのは、土の匂いだ。腐葉土。湿った木の根。口の中に砂の味が残っている。 焦点が合った視界には、知らない色の空があった。暗い紫を薄めた薄明。梢の隙間に太陽が二つ並び、赤いほうが森の端に沈みかけている。 「……は?」 上体を起こす。骨と皮ばかりの腕が視界に入った。自分の腕ではない。けれど、動かせば動く。指の一本一本に、俺の意志が繋がっている。 襤褸を纏った胸が、浅く早く上下していた。 腹が、鳴った。 涙は出なかった。そんな余裕が、この身体にはない。 ——生きている。 まず、その事実に頭がついていかない。 事故。葬儀の見積もり。兄の舌打ち。「お前は我が家の恥だ」と吐き捨てた父の顔。 あれが前世なら、ここはどこだ。 水たまりが、目の端に映った。 這って近づき、覗き込む。 知らない少年の顔が、そこにあった。頬骨が浮き、唇がひび割れ、眼窩ばかりが大きい。十二、三歳。栄養失調、と前世の知識がラベルを貼る。 けれど、前世の俺と、目だけが、少しだけ似ていた。 「……なるほど」 呟いた声は、思っていたより低く、わずかに震えていた。 生まれ変わり、というやつか。 それが俺の、この世界で最初に出した答えだった。
立ち上がろうとして、膝が折れた。力が入らない。空腹が、思考の底に膜を張っている。 胃が、ぎゅっと絞られるように痛む。水分を失った舌が、上顎に貼りついて離れない。耳鳴りが、風の音と重なって、世界の輪郭を滲ませていた。 それでも歩かねば死ぬ。 魔物、という概念が、なぜか当然のものとして頭にあった。この身体の、前の持ち主の残響か。薄く、消えかけた記憶のように、森の危険を教えてくれる。 ——日が落ちる前に、水と、できれば人里を。 論理ではない。ただ、そうしなければ明日はない、という単純な事実が、痩せた骨に刻まれている。 一歩。木の根に足を取られ、転ぶ。 「っ……」 掌に小枝が刺さり、血の玉が滲んだ。反射で舐める。鉄の味。生きている証拠だ。 血は、すぐに止まらなかった。掌の皮は薄く、少し擦れただけで赤い筋が伸びる。この身体が、どれだけ長く、まともに食わずにここまで来たのか——想像するだけで、胸の奥が小さく痛んだ。 不思議と、頭は冷えていた。 前世で、俺は感情を出すことを覚えなかった。泣けば父は怒った。笑えば兄は嗤った。黙っていれば、透明人間として扱われた。だから、ここでも泣かない。叫ばない。 ただ、祈りのような何かが、胸の底に残っている。 ——誰かに、生きていていい、と言われたい。 たったそれだけ。 たったそれだけの言葉を、前世の俺は、一度も貰えなかった。誕生日にも、成績表を見せた夜にも、病院のベッドの上でも、一度も。 声に出せなかった願いが、痩せた胸の中で音もなく膨らんだ。 二歩、三歩。木々の間を抜ける。下草が足首を撫でる。湿っていて、冷たい。 遠くで、何かが吠えた。犬より太く、獣というより、もっと原始的な—— 低く、長く、地面を這うような声。空気そのものが、その咆哮の振動を伝えて、俺の肋骨を内側から叩いた。 背筋が凍った。 足を速める。前世の体力なんてものは、この身体には継承されていない。息が、すぐに上がる。 喉の奥に、鉄の味ではなく、鉛のような重さが溜まる。肺が小さい。心臓が、薄い胸板の下で、逃げたがる獣のように暴れていた。 不意に、視界がひらけた。 小さな窪地だった。倒木と苔の緑の中心に、何かが淡く光っている。 拳ほどの、白い石。 磨かれたわけではない、自然石のままの歪な形。表面に、薄く、蜘蛛の巣のような筋が走っている。その筋の内側から、光は呼吸するように、強く、弱く、明滅していた。 近づくと、光は石の内側から漏れていた。水中の月のように、静かに、規則的に脈打っている。 ——綺麗だ、と思った。前世で、俺は、綺麗なものを綺麗だと言う権利すら、なかった気がする。 ——警戒より、引き寄せられる感覚のほうが先だった。 指先が、石に触れた。
——冷たい。 いや、冷たさを通り越して、熱い。 指の骨まで届く熱が、手首を上り、肘を越え、肩を抜けて、胸の奥の、硬く閉じたままだった何かを、内側から軽く叩いた。
次の瞬間、視界の端に、半透明の窓が浮かび上がった。
【ユウキ・アマノ】 年齢:13 種族:ヒト スキル:—— 状態:【覚醒待機】
文字が、ゆっくりと明滅していた。 色のない、白い光。けれど、ただの光ではない。見つめていると、網膜の奥で、文字そのものが、俺を見返している気がした。 「……ステータス、窓」 口に出して、自分で笑いそうになった。ゲームか、これは。 前世の名前がそのまま刻まれているのが、奇妙だった。ユウキ・アマノ——天野悠希。恥と呼ばれた男の名前。 けれど、不思議と、嫌悪はなかった。 恥、と呼ばれた名前。俺自身が、最も口にしたくなかった名前。それが、今、この世界で、俺の存在証明として、静かにそこに在る。 【覚醒待機】の五文字が、胸の奥で、妙に、温かい。
手を離すと、窓は消えた。もう一度触れると、また現れた。 指で窓の縁をなぞる。指先は空気を掻いただけだったが、窓そのものは、意志のあるもののように、俺の視線を追う。 ——理解したわけじゃない。 ただ、これは俺のものだ、と、なぜか分かった。 家族が誰も与えなかったもの。名前を呼ばれること、存在を肯定されること。 この光る石と、この窓が、代わりに、俺にそれを差し出そうとしている——そんな気がした。 「……覚醒待機、ね」 指先で、【覚醒待機】の文字に触れる。文字は、触れた瞬間、微かに震えた。 ピリ、と、指先の神経を何かが走る。 情報ではない。予感だ。 条件が足りていない、と、窓そのものが言っている気がした。 何が足りない? 考えるより先に、答えのかけらが頭をかすめた。 ——覚悟。何かを、守りたい、と願う感情。 根拠はない。直感だけだ。 けれど、直感のほうが、正しいときが、前世にもあった。父の拳が飛ぶタイミング。兄の嗤いが始まる気配。信じるべきものを、俺はずっと、言葉ではなく、背中の毛で選んできた。 そのとき、だった。 背筋を、冷たいものが撫でた。 視られている。 森のどこかから、確実に、こちらを視ている視線がある。 獣の視線では、ない。 もっと静かで、もっと知性のある、何か。 まばたきひとつ、呼吸ひとつ、俺の動きを数えているような、冷たい観察。獲物を値踏みする視線に近い。けれど、殺気は、薄い。 身体が、こわばった。 俺は、石から手を離さなかった。 離したら、この窓も、この可能性も、消えてしまう気がした。 「……誰だ」 森の闇に向かって、囁くように言った。 返事はない。 ただ、視線の重さだけが、一段、増した気がした。 風が、梢を揺らす。二つの太陽のうち、赤いほうが、完全に稜線の向こうへ沈んだ。 窓の【覚醒待機】が、呼応するように、一度だけ強く点滅した。
——悲鳴が、した。
遠く、街道の方角から。 女の声だった。若い。高い。 糸が切れるように、一度、途切れた。そしてまた、叫んだ。 何かを必死に呼んでいる。助けを。 身体が、勝手に、そちらを向いた。 足が、震えていた。前世の臆病が、まだ俺の中に居座っている。 関わるな。逃げろ。お前には、関わる資格も、力もない。 その声は、前世の父と兄のものであると同時に、俺自身の声でもあった。十五年かけて、俺が俺自身に言い聞かせてきた呪文。 耳の奥で、父の声と、兄の嗤いが、反響する。 俺は、ゆっくり、目を閉じた。 ——生きていていい、と、言われたい。 だったら、まず、俺が、誰かにそう言うしかないのか。 「……行くか」 呟いた声は、もう震えていなかった。 白い石を、襤褸の懐にしまう。窓は消えない。俺の視界の端で、静かに、【覚醒待機】の五文字を明滅させている。
歩き出した。 一歩、二歩。痩せた脚は、さっきまでより、ほんの少しだけ、軽かった。 悲鳴のほうへ。視線の気配は、俺の背中に、まだ張り付いている。 敵か、味方か、それすら分からない。 ただ、ひとつだけ、今の俺には分かっていた。 前世で得られなかった何かを、この窓は、この身体は、まだ俺に差し出している。 受け取るか、背を向けるか。 それを決めるのは、次の一瞬だ。 街道の向こうで、金属のぶつかる音がした。土を蹴る、いくつもの足音。呻き声。女の悲鳴が、もう一度。 俺は、足を止めなかった。 視界の端で、【覚醒待機】が、最後に、もう一度だけ、脈打つように光った。