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異世界食堂・まかないや

第2話 第2話

第2話

第2話

呻き声の方へ、足は勝手に踏み出していた。

 悠真は腹の底で一度、長く息を吐いた。吐いた息が白く残らないのが不思議なくらいに、空気は冷たく澄んでいた。包丁ケースの金具が、歩くたびに革紐にこすれて、ちりっ、ちりっ、と小さく鳴る。その金属の音だけが、静まりかえった森の中で、自分がここにちゃんと居るというしるしのように思えた。

 針葉樹の幹を縫って、ゆっくりと斜面を登る。落ち葉の上に踏み出す足は、意識して音を殺した。忙しい店内で客の背中を驚かせないように、食洗機の前で皿の尻を濡らさないように、そういう小さな足運びを、身体はまだちゃんと覚えていた。十年、この足で通路を歩き回ってきた。忘れようにも、忘れられない癖だった。

 あの呻き声は、斜面を少し登ったあたりから、ふたたび短く、細く、続いていた。途切れては戻り、戻っては細くなる。喉のどこかを詰まらせたような、濁った息の音が混じる。悠真の胸の内側で、厨房で鶏の腱を引き抜く前の、皮膚がひくりと動くあの感じに似た、かすかなざわめきが走った。

 やがて、梢の向こうに、開けた場所の白い光がのぞいた。

 悠真は幹のひとつに身を寄せて、そっと顔だけを覗かせた。樹皮の凸凹が頬に食い込み、苔のにおいが鼻の奥でじわりと立つ。心臓が肋骨の内側で、仕込みに追われる夜よりも数段早い拍子を打っていた。

 落葉のたまった窪地の真ん中に、罠があった。

 太い枝を鈍く曲げた弓のようなものと、鉄の歯。粗末な造りだが、とらえられたものが暴れれば暴れるほど、足首に食い込む仕掛けだ。厨房で鹿の腿を縛るときの、あの容赦のない締め方によく似ている。誰が仕掛けたのかも知れぬその冷ややかな意志が、ひたひたと土の上に残っていて、悠真は思わず下唇の内側を噛んだ。

 その鉄の歯の中で、銀色の毛並みが、荒く上下していた。

 最初は仔犬かと思った。それにしては、大きかった。いや、犬ではない。毛並みの下で、華奢な腕と、細い指が、落葉を掻きむしっていた。短いスカートのような布に、革の胸当て。頭の両脇に、三角の耳がぴんと立ち、背中のほうから、もう少し長い尻尾が一本、土の上で苦しそうに震えていた。

 狼の、娘だった。

 悠真は、ひゅっと、喉の奥で息を飲み込む音を立ててしまった。頬の内側が、急に乾いた。現実の厚みが一枚ずれたみたいに、視界の端がわずかに歪む。それでも、目だけは、彼女の震える指先から外せなかった。

 その音に、銀色の耳が一度、びくりと動く。顔がこちらを向いた。大きな瞳の奥で、金色の光が、ぎらりと尖る。ひくりと鼻先を震わせ、血の気の失せた唇が吊り上がって、真っ白い犬歯が剥き出しになる。喉の奥から、言葉ではない、低く絞るような唸りが湧き上がった。

「……違う」

 悠真は反射的に両手を挙げていた。指の節が強張り、手のひらが、冷えた空気にさらされてじんと痺れる。

「違う、武器は、持ってないから」

 日本語が通じるはずもない。それでも、声を荒げないように、ゆっくり、ゆっくりと、言葉の尾を伸ばした。店じまいの最終テーブルで、酔った客が食後のコーヒーを最後まで飲み終えるのを待っていた時の声音に、自然と似ていた。

 娘は、牙を剥いたまま、血の滴る足首を必死に揺すっている。鉄の歯は、細い足首の肉に深く食い込み、傷口から、筋の繊維に沿って赤黒い血が絡みついていた。動くたびに、歯はいっそう深く食い込む。悠真にも、それくらいのことは見て分かった。砥ぎたての刃物が、鶏の軟骨を通り抜けるときの、あの手応えのなさが、ふいに指の記憶にぶり返してきて、悠真は奥歯を噛み直した。

 近づけば、牙が飛んでくる。

 その距離を、悠真の身体は、厨房で何百回と詰めた鍋との距離のように、正直に読んだ。およそ五歩分の手前。そこが、いまの境界線だった。踏み越えれば、たぶん傷つくのは自分ではなく、先にこの娘のほうだ。暴れて深く肉を裂き、痩せた体力を最後まで使い切ってしまう。悠真の頭の中で、その想像だけが、やたらに鮮明だった。

 その場で、悠真はゆっくりと、膝を折った。

 包丁ケースを地面におろし、コックコートの内ポケットに手を入れる。指先に、固い金属の感触があった。

「……あった」

 小さな、折りたたみの携帯コンロだった。夜のデセール仕上げに、客の前で炙りを入れるとき用に、この数日、たまたま内ポケットに差したままにしていたものだ。五徳を起こし、手のひらに収まる小型ボンベを回す。かちり、と小さな歯車の音がして、青い炎が一本、細く立ち上がった。

 娘の唸り声が、ほんの一瞬だけ、途切れた。

 火を見る目の色が、怯えと警戒と、もうひとつ、どこか奥まった、幼い驚きの色とに、変わっていく。爪の先で落葉を掻いていた指も、いつのまにか土を握ったまま止まっていた。

 悠真は、もう一方のポケットから、油紙に包まれた小さな塊を取り出した。賄いの余りの、鹿の干し肉。今日、最後の客に出すはずだった煮込みの種だった。指先で裂くと、塩と燻しの、落ち着いた香りが立った。そのなじみ深い匂いに、自分の鼓動のほうが先に少しだけ落ち着くのが、可笑しいくらいだった。

 包丁ケースから、出刃を一本抜く。

 娘の瞳が、また鋭くなる。悠真は、刃をわざとゆっくりと、地面に平置きした。刃の腹に映った空の色が、いまはずいぶん遠く見えた。

「……刻むだけだ」

 ぽつりと言って、腰のポケットから紙包みをもうひとつ取り出した。コックコートの右腰には、営業中にハーブを常備する小袋がある。摘まれることなく終わったタイムの折れ枝と、ほんの少しの塩。それに、ここへ来る途中、沢のほとりで見覚えのある葉を、指で一枚だけ摘んで折り畳んでおいた、セリによく似た若い葉。

 まな板はなかった。折り畳んだ油紙を、そのかわりに敷いた。

 出刃の刃が、油紙の上で、こつん、こつん、と一定の律で鳴りはじめる。厨房で夜な夜な繰り返した、あの軽やかで退屈な拍子。それが、この見知らぬ森の中で、耳をすます娘の震えに、ほんの少しずつ、寄り添っていくのが分かった。

 干し肉の塊を、薄く、薄く、唇の厚みほどに削いでいく。セリに似た葉は、軸ごと細かく刻む。タイムは一本だけ、指で扱いて葉を落とす。音の間に、娘の荒い息が、だんだんと、ふつうの呼吸の形に近づいていくのが分かった。

 携帯コンロの五徳に、ステンレスの小さなシエラカップを据える。これも、内ポケットに忍ばせていた道具だ。沢で汲んでおいた革の小瓶の水を、注ぐ。水が冷えた金属を叩く、澄んだ音が、森の静けさにひとしずく落ちた。

 炎のすぐ上で、水は、ほどなく細かな泡を立てはじめた。

 干し肉を、まず入れる。脂の粒が、水の中で、ほうっと広がっていく。少し遅らせて、刻んだセリの葉。最後のほうで、タイムを一本。塩はほんのひとつまみだけ。

 湯気が、立ち上がった。

 森の針葉樹の青い匂いに、塩と、炙られた肉と、青い草の、それぞれ奥行きの違う香りが混ざり合って、ゆっくりと、ゆっくりと、窪地の空気を温めていく。冷えきっていた指の股の、いちばん奥のほうにまで、湯気のあたたかさがじわりと届く。

 娘の、銀色の鼻先が、ひくり、ひくり、と、ふたつ震えた。

 牙の見えていた口元から、唾がひとすじ、顎のほうへ、細く光を引いた。金色の瞳が、まばたきのたびに、少しずつ輪郭の鋭さを失っていくのが見えた。

 やがて、土の上で、娘の尻尾が、一度だけ、ぱたり、と小さな音を立てた。

 悠真は、シエラカップの取っ手を、コックコートの裾越しに包むようにして持ち上げた。熱い。掌の皮の下で、長く忘れていた種類の熱さが、じんわりと広がっていく。客にコーヒーを出すときにはもう生まれなかった、どこか少年めいたまぶしさが、胸の奥でちりっと鳴った。

 ゆっくりと、立ち上がる。

 娘の耳が、ぴんと立った。牙は、もう、ほんの少ししか見えない。唸り声の代わりに、細い喉の奥で、息を詰めたような小さな音が、ひとつだけ鳴った。

 境界線の、手前まで。悠真はそこまで進んで、また膝を折り、そっと地面に、湯気の立つシエラカップを置いた。カップの底が落葉を押しつぶす、かさりという音だけが、やけに大きく響いた。

「……食うかい」

 自分でも気づかぬうちに、差し出した手が、小さく震えていた。刃を握るときには、震えない手だった。それが、なぜかこの森の中で、初めて名も知らぬ誰かに一杯を差し出すときに、こんなにも小さく、けれど確かに、震えている。

 娘の瞳が、湯気と、悠真の顔と、もう一度湯気を、順に行き来した。

 喉の奥から、唸りでも、威嚇でもない、子どもが泣くのをこらえるときのような、低い音が、ひとつ、こぼれ落ちた。

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