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異世界食堂・まかないや

第1話 第1話

第1話

第1話

頬を撫でる風が、やけに冷たかった。

 鳴海悠真は、重い瞼をゆっくりと押し上げる。目に飛び込んできたのは、真っ直ぐに伸びる針葉樹の幹と、遠くの梢で揺れる枝葉の隙間から差し込む、細く白い光の筋だった。苔の匂いがする。湿った土のにおいと、松脂の青くさい香りが混じり合った、深い森の匂い。

 しばらく、ただ空を見上げていた。

 厨房の蛍光灯の、あの青白い光ではなかった。冷蔵庫のモーター音も、換気扇の唸りも、食洗機の水音もしなかった。代わりに、遠くでかさりと葉擦れの音がして、名前も知らぬ鳥が一声だけ鋭く鳴いた。

 悠真は、のろりと身を起こした。

 体のあちこちが軋む。膝を曲げると、黒いコックパンツに苔の青い色が擦りついていた。白いコックコートの生地には、乾いた泥のしみ。左手首の腕時計を見ると、針が止まっていた。午前二時四十三分。終電がとうに出てしまった時刻のまま、秒針だけが震えもしない。

「……ここ、どこだ」

 声がかすれていた。喉の奥に、厨房の油煙のにおいがまだ薄く残っている気がして、悠真は軽く咳き込んだ。唾を飲み込むと、舌にうっすらと鉄の味がした。

 周りを見渡しても、見えるのは針葉樹ばかりだった。幹は人の背丈の何倍もあって、上を向けば首が痛くなるほど高い。足元には柔らかな苔と、褐色に変色した松葉が敷き詰められている。どちらが北か、どこから来たか、手がかりはなにひとつなかった。視線を巡らせれば巡らせるほど、どの方角も同じ顔をして、幹と幹の隙間は、ただ黒々とした奥行きを孕んで静まり返っているばかりだった。

 ただ、傍らに、愛用の業務用包丁のケースだけが、まるで置き忘れたかのように律儀に転がっていた。

 悠真は包丁ケースを引き寄せて、金具のファスナーをゆっくり開けた。

 牛刀、筋引き、出刃、菜切り、ペティ。十年以上使い込んだ、自分の手の一部のような五本。刃を親指の腹でそっと撫でると、見慣れた刃紋が朝の光をわずかに返す。冷たい金属の感触だけが、かろうじて現実と自分を繋ぎ留めていた。柄木に染み込んだ脂と研ぎ汁の微かな匂いを嗅ぐと、ようやく息の仕方を思い出した気がした。指先が柄の曲線をなぞるたびに、これまで何千回と刻んできた玉ねぎの涙と、鶏ガラを割った時の鈍い音が、耳の奥で薄く蘇る。

 記憶をたぐる。

 昨夜——と呼んでいいのかも分からないが——悠真は、駅前ビルの三階にある店の厨房に立っていた。仕込みを終え、明日の発注票を書き上げ、賄いを口に入れる気力すらなく、ステンレスの調理台に手をついてうなだれていた。店長になって五年。朝の八時から深夜二時までの営業、人手不足で自分がシフトの穴を埋め続け、本社会議用の資料を明け方に書く日々。

「鳴海店長、来月の売上、もうひと伸ばし頼みますよ」

 エリアマネージャーの薄い笑顔が浮かぶ。

 その時、胸のあたりがずしりと重くなった。体が傾いて、目の前の床タイルが迫ってきて——それから、今。

「……夢、じゃないよな」

 呟いて、頬を強くつねった。じんわりと、痛い。爪の形に残った赤みが、冷たい空気の中でちりちりと熱を持つ。夢ならば、この痛みも、この苔の匂いも、包丁の柄木の重さも、ここまで律儀に揃うはずがなかった。

 立ち上がり、数歩歩いてみる。足元の苔が柔らかく沈む。コックシューズの白いゴム底は、思ったよりも湿った地面を滑った。包丁ケースを背負い直し、頭上の梢をひとつ仰ぐ。梢の先で、色づきかけた葉が何枚か、はらりと解けて落ちていった。

 自分でも、妙だと思うほど、心が静かだった。

 普通なら、パニックになるべき場面だ。スマートフォンはない。財布も定期もない。日本語が通じる相手もいそうにない。なのに胸の奥にあるのは、恐怖ではなく、どこか——解放感に近いものだった。

 もう、シフト表に追われなくていい。

 思い浮かんだその一言に、悠真は自分で苦笑した。こんな状況で、真っ先に考えることがそれか、と。それでも、嘘ではなかった。深夜三時の厨房で、ぼろ雑巾のように絞られていた毎日に比べれば、この森の沈黙は、むしろ贅沢に思えた。肩の凝りが、長年の癖のようにじんわりと残っているのに、その上に被さっていた鉛の重石だけが、きれいに剝がれ落ちている。そんな感覚だった。

 ふと、梢の間を風が通り抜けていった。

 秋の風だ、とどこかで分かった。乾いていて、少しだけ針葉樹の青い香りを含んでいる。日本の、十月の終わり頃の山道によく似た匂い。故郷の祖母の家の裏山に、こんな日があった気がする。落ち葉を踏みながら、祖母の背中を追いかけて栗を拾った、あの乾いた日の記憶。胸の奥で、何かが一瞬だけ温かくなって、すぐにまた遠ざかっていった。

 歩き始めると、すぐに小さな谷間に出た。

 斜面の下に、細い沢が流れていた。透き通った水が、苔むした丸石の上を気持ちよさそうに走っていく。悠真は腰を落として手を浸した。凍るように冷たい水だ。指先から手首、肘の内側まで、一気に芯が引き締まっていく。両手で掬い、少しだけ舐めてみる。金臭くもなく、苦くもない。上流を目で追っても、動物の死骸や赤い濁りは見えない。大丈夫そうだと判断して、喉を鳴らして飲んだ。

 水が、胃の底までゆっくり落ちていった。

 その冷たさが、肋骨の裏側を順になぞって下りていく。長年、鍋の湯気と揚げ油の熱気に蒸され続けていた身体の内側へ、初めてまっすぐ外の空気が通ったような感覚だった。喉仏が上下するたびに、耳の奥で小さな鐘を鳴らすように、こくり、こくり、と音がする。

 その瞬間、ふっと笑いが漏れた。

「うまい」

 ただの水なのに、やけに甘く感じた。塩素の匂いも、ペットボトルのプラスチック臭もない、土と石と苔が濾しただけの、本当の水。舌先にほんのりと、遠い雪の匂いのようなものまで残る気がした。いつか脱サラして南の島で釣りをして暮らしたい、などと冗談半分で同僚にこぼしていた自分の顔が、急に遠くなる。

 日本には、たぶん、戻れない。

 口に出してみると、思ったほど胸は痛まなかった。

 悠真には、待つ家族はいなかった。両親はすでに他界し、妹は地方の家庭に収まって、もう何年も互いに顔を見ていない。恋人と呼べる相手も、この三年ほど作る余力がなかった。失うと痛むほどのものは、結局、店のシフト表と、社員証と、名刺の肩書きくらいしか、残っていなかったのだ。

 沢辺の丸石に腰を下ろし、悠真はしばらく水の流れを聴いていた。石と石のあいだで弾ける水の音が、耳の奥にずっと残っていたタイマーの電子音や、釣り銭機の金属音を、ひとつずつ洗い流していくようだった。膝に落ちた水滴が、コックパンツの生地にゆっくりと滲み広がっていく。その黒い染みの大きさを目で追いながら、悠真は、自分の息が以前よりほんの少しだけ深くなっていることに気づいた。

 やがて、ゆっくりと決めた。

 生きよう、と。

 胸の奥で、その二文字が小さく、けれど確かに鳴った。声には出さなかったが、舌の上で一度だけ、形をなぞるように転がしてみる。不思議と、照れも気負いもなかった。

 急がず、無理をせず、今日の飯と、明日の寝床のことだけを考えて、生きていこう。誰のシフトも埋めなくていい、誰にも怒鳴られない時間の中で、この手の中にある五本の包丁で、まだ見ぬ誰かに一皿の飯を作れたら、それでいい。

 それが、今の自分に残された、たった一つの欲だった。

 悠真は沢の水で顔を洗い、濡れた手で前髪を後ろへ梳きつけた。頬を刺す冷たさが、長く眠っていた頭の芯をゆっくりと覚ましていく。水滴が顎から落ちて、コックコートの胸元にひとつ、ふたつと濃い染みを作った。コックコートの裾を整え、包丁ケースのストラップをもう一度締め直した。

 さあ、歩こう。

 立ち上がって、沢の下流の方角へ一歩踏み出した、その時だった。

 ——ウゥ……ッ。

 風に乗って、低く、絞り出すような獣の呻き声が、森の向こうから届いた。

 悠真は、反射的に足を止めた。

 背筋にぴりっと冷たいものが走り、無意識のうちに握った拳の中で、爪が手のひらに薄く食い込む。息を詰めたまま、視線だけを声のした方角へと滑らせた。

 遠い。だが、たしかに生き物の声だ。それも、尋常ではない苦しみを含んだ声だった。犬とも狼とも違う、もっと高く澄んで、けれどどこか人の嗚咽にも似た、不思議な響き。耳を澄ますと、呻きは一度途切れ、また細く引き伸ばされて、最後にかすれて消えた。喉のどこかが潰れかけているような、息の混じった声だった。

 悠真は、沢の下流と、声の響いた森の奥を、交互に見比べた。

 関わらない方が、いい。

 頭では、そう分かっていた。ここがどこかも知れないまま、傷ついた獣に近づくのは無謀だ。牙のある生き物が、苦痛のなかで見知らぬ二足の影を友と判じてくれる保証は、どこにもない。

 それでも、悠真の手は、ゆっくりと、包丁ケースのストラップを握り直していた。

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