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スキルなしの万象解析者

第3話 第3話

第3話

第3話

野次馬の肩と肩の隙間を、無理やりこじ開けていた。

誰かの肘が頬骨をかすめた。革鎧のバックルが腕に擦れて、小さく血が滲む——『表皮裂傷0.8ミリ 治癒見込み三日』——痛みの自己申告までついてくる。うるさい。今はいらない。奥歯を噛んで、視界の端の注釈を無視する。

門の内側まで押し出された。衛兵が俺の襟首を掴もうとした。

「おい、スキルなしの雑用! 下がってろ!」

俺の顔を知っている衛兵だ。振り払う気力もないまま、腕の中で固まった。目の前、灌木を挟んで十五メートル——そこが戦場だった。

倒れ伏した一人。剣を構える前衛の少年。詠唱途中の魔法使いの少女。盾を前に出した大柄な男。その向こうで、七頭のオークが半円を狭めていく。

風向きが変わった瞬間、鉄臭い血の匂いと、獣の脂臭が同時に鼻を突いた。喉の奥に酸っぱいものがせり上がる。野次馬の誰かが短い悲鳴をあげて、別の誰かが舌打ちした。耳の奥で心臓が跳ねている。自分の鼓動だけが、戦場の音から切り離されて、妙に近い場所で鳴っていた。

視界の右上で、金色の数字が弾けるように減っていく。

『次の攻撃タイミング:2秒後』

喉が干上がっていた。舌が上顎に貼り付いて、言葉が出てこない。スキルなし。三年間、掲示板の前でただ立っていた男。声を上げる資格なんて、俺にはない。

——でも、見えている。

フィンの踏み込みが半歩浅い。セラの詠唱が左手の印を結び損ねかけている。ガルドの左足の腱が、あと一度踏ん張ったら切れる。

見えているのに黙っていたら、三秒後、三人分の死が俺のせいになる。

息を、吸った。肺に流れ込んだ空気は、血と土と、焦げた下草の匂いがした。

  *

「右だッ!」

自分でも驚くほど大きな声が出た。

「ガルド! 盾、右ッ! 左足かばって右に半歩!」

大柄な盾役の肩が、びくりと跳ねた。その直後、群れの右翼のオークが咆哮した——俺の見立て通り、0.3秒早い合図。他の六頭が一斉に飛びかかる。

「フィン、右の一頭だけ受けろ! 二頭目はセラの後ろに誘導!」

「は——?」

剣士の少年が困惑した声を上げながら、それでも体が反応した。訓練された反射。俺の声質は知らないはずだ。なのに、声の中の情報量だけで、指示が通った。

鋼鉄剣がオークの棍棒を受ける。火花が散った。衝撃が地面を伝って、俺の足裏まで届く。フィンは俺の言葉通り、二頭目を流すように躱して、セラの背後へ回り込ませる。

「セラ、いま! 詠唱中断しろ! 火球じゃない、発火ッ! オークの足元、湿った落ち葉に着火!」

「えっ、でも——」

「いいから! 詠唱の二節目を切って一節目で止めろ! できる!」

セラの左手が途中で止まった。一瞬だけ迷って、それから、印を組み替える。小さな炎の粒が、オークの足元の落ち葉に弾けた。

湿った葉が燻って、白い煙が上がる。群れの嗅覚が、一瞬混乱した。

『オーク群れ 統率低下 指示系統2秒間断絶』

そこまで見えていた。見えているから、口が勝手に動く。

「ガルド、今ッ! 群れ長、右翼の一番でかい個体ッ! 盾で弾いて後ろのフィンに繋げ! お前の盾、耐久七割八分ある、一撃だけなら絶対保つ!」

盾役の男が、叫びながら踏み込んだ。左足が軋む音が、ここまで届きそうだった。盾が群れ長の突進を受け止める。金属同士がぶつかった重い音が、腹の底を殴りつけてくる。数値は嘘じゃなかった——耐久は減ったが、割れなかった。

はじき返されたオークの背中に、フィンの鋼鉄剣が食い込む。

群れ長が地に崩れた瞬間、残り六頭の動きが目に見えて鈍った。

  *

残り三分、俺は叫び続けた。

「セラ、魔力あと二割! 大技は撃つな! 発火だけでいい、足元だけ狙え!」 「フィン、左のやつ肩に古傷ある! 左腕上げ切れない、そこ突けッ!」 「ガルド、前出るな! 一歩引いて、フィンとセラの射線だけ守れ!」

言葉は勝手に出た。頭の中で、七頭分の残HP、魔力残量、疲労蓄積、攻撃タイミングが、目盛り付きのメーターみたいに並んで動いている。そのメーターの隙間を指差すだけで、指示になった。不思議と怖くはなかった。ただ、メーターの針が一本でも見落とせば誰かが死ぬ、その一点だけが、腹の底を焼いていた。

喉は叫びすぎて焼けるようだった。声帯の奥から鉄くさい痺れがせり上がってくる。それでも止められなかった。止めた瞬間、見えている数字の一つが、誰かの最期に書き換わる——その確信だけが、口を動かし続ける燃料だった。

指示を挟むたびに、右手の甲の紋様が熱くなる。こめかみに鈍痛が走って、鼻の奥で何かが切れる感覚。生温かいものが唇の上を伝った。

血の味。

鼻血だ。手の甲で拭う。袖口が赤く染まった。視界の端に『血圧上昇 脳内圧軽度異常』と出た。殴り消したい。

最後のオークが倒れたのは、俺が叫び始めてから二分十四秒後だった。

『戦闘終了 生存者三名 重傷者一名(蘇生可能圏内)』

音が、一気に戻ってきた。

野次馬のざわめき、衛兵の怒声、遠くの鐘の音。現実が膜を破って戻ってくる。

灌木の向こうで、三人が立ち尽くしていた。剣を握ったままのフィン。詠唱の姿勢で固まったセラ。盾を構えたまま肩で息をするガルド。三組の視線が、倒れたオークではなく——俺を見ていた。

群衆が、ゆっくり割れた。

俺と三人の間に、誰もいない一本の道ができる。膝が震えていた。足の裏が石畳に貼り付いているみたいに重い。それでも、右足が一歩前に出た。自分の意思なのか、誰かに押し出されたのか、もう区別がつかない。野次馬の間から歩き出した俺を、誰も止めなかった。衛兵でさえ、口を半開きにしたまま動かなかった。

倒れた仲間を抱き起こしていたフィンが、俺を見上げた。汗と返り血で汚れた顔で、息を切らしながら、掠れた声で聞いた。

「あんた……誰だ? どうして、全部、わかった?」

セラが詠唱杖を取り落とした。地面に転がる音が、妙に大きく響いた。木の棒が石畳を打つだけの、ただそれだけの音が、群衆のざわめきを一瞬押しのけた。

ガルドは盾を下ろせずにいる。警戒しているんじゃない。腕が強張って、ほどけないだけだ。指の関節が白くなっていた。

三人の視線は、俺の顔と、血に濡れた右手の紋様の間を何度も往復していた。問いたい言葉が喉で渋滞しているのが、空気の震え方で伝わってくる。それなのに、俺の舌は口の奥で死んだみたいに動かない。

俺は、鼻血を手の甲で拭った。赤が、右手の紋様の上に重なって、よけいに派手になる。

何を言えばいい。この力の名前を答えればいい。古代スキル〈万象解析〉です、と。

——言えるわけがなかった。

昨夜覚醒したばかりの力。検証もしていない。証拠の石板は消えた。その上、俺はスキル欄が空白のまま三年間、冒険者登録を拒否され続けている人間だ。今さら古代スキルなんて名乗ったら、頭がおかしくなったと思われて終わりだ。

喉が干上がっていた。口を開く。舌が動かない。もう一度、息を吸い直す。出てきたのは、一番短くて、一番嘘じゃない言葉だった。

「……見えただけだ」

フィンが、瞬きをした。

セラの唇が、「見えた?」と形だけ動いた。

それ以上、何も言えなかった。背を向ける。逃げるみたいに歩き出す。右手の紋様はまだ熱い。こめかみの鈍痛はまだ残っている。足音が自分のものとは思えないほど大きく、石畳に跳ね返ってくる。

歩きながら、何度も自分に言い聞かせた。見えただけだ。見えただけだ。他に何か言えることはなかった。

  *

人垣が割れ、割れたまま、閉じない。

俺の背中を、数十の視線が追いかけてくる。

そのうちのひとつが——ふい、と動いた。

野次馬の一番後ろ。ギルドの事務服を着た男がひとり。見覚えがある。受付の奥で書類仕事をしている中年の職員だ。名前までは知らない。その男が、俺ではなく、踵を返して街の中心へ走り出した。

走り方に、迷いがなかった。報告先が決まっている人間の走り方だ。

向かう方角は、ギルド本館の三階——ギルドマスター・ヴァルドの執務室がある階だった。

男の背中が角を曲がって消える。俺はその背中を一瞬だけ見送って、自分の足元に視線を落とした。

『革靴 右踵摩耗率68%』

昨日と同じ注釈。同じ靴。同じ俺。

なのに、明日の俺はもう、今日までと同じ場所には立っていない。

鼻血がもう一滴、顎から落ちて、石畳に小さな赤い点を打った。

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