第2話
第2話
右手の紋様が、まだうっすらと熱を持っている。 脈拍と同じリズムで、肌の下で何かが脈打っている気がした。
雨が上がった倉庫の窓から、灰色の朝が差し込んでいた。ランプの油はとうに尽きていて、床に散らばった木箱の破片が薄明かりの中に浮かんでいる。
どれだけ気を失っていたのか。時計はない。ただ、鐘楼が遠くで六つ鳴った。
立ち上がろうとして、膝が笑った。踏ん張って壁に手をつく。節々が軋んだ。昨夜、全身を貫いた灼熱の名残りが、関節の奥にまだ残っている。掌に触れた石壁の表面——苔、ひび、ネズミの糞の跡まで、全部に半透明の文字が重なっている。
『石灰岩 風化度37% 築造後推定82年』
消えない。瞬きしても、視線を外しても、見た瞬間に情報が滑り込んでくる。
「……止め方は、書いてないのか」
自分の喉まで『軽度脱水 声帯疲労』と注釈が入った。笑うしかなかった。
石板はどこにもない。砕けた木箱の奥を探しても、古い金具と虫食いの書類が出てくるだけだ。昨夜、確かに石板は砕けて俺の手の中に入ってきた。今朝は、その欠片ひとつ、残っていない。右手の甲の紋様だけが、刻印のように残っている。薄く、消えかけの古傷みたいに。
試しに、奥の棚に視線を向けてみる。
『小麦粉袋 在庫12袋 虫害率4%』 『干し肉 燻製6日 保存可能残14日』 『革鎧(中古) 部位修繕痕3 耐久残61%』
棚ひとつで三行。文字そのものが見えているのに、頭の中に声のない声で読み上げられていく感覚があった。
ひとまず倉庫を出る。バズに見つかる前に、散らかしたものは戻した。砕けた木箱の破片だけは、どうせ見咎められるから隠しておいた。
扉を押し開ける。外の光が顔を打った瞬間、世界が一気に広がった。
*
レグノアの朝は早い。
通りを行き交う人々。パン屋の開店準備、水売りの荷車、犬を連れた老婆、子供の遊び声。毎日見てきた景色——なのに、全部が違う。 視界そのものに、薄い膜がかかっているような違和感。瞬きをしても、膜は剥がれない。
すれ違う男の頭上に文字が浮かぶ。
『クラーク・ベイル 37歳 スキル〈革細工〉Lv4 装備:鉄製ナイフ 疲労度・中』
次の女。
『マリナ・ホルト 29歳 スキル〈水魔法〉Lv2 魔力残量78% 状態:妊娠初期(本人未自覚)』
足が止まった。
妊娠初期——本人未自覚。
見てはいけなかった。誰にも知られず、本人さえまだ気づいていない、彼女と赤子だけの秘密を——俺が、盗み見てしまった。盗み見るつもりなど、なかったのに。
知ってはいけない情報が、頭に流れ込んでくる。慌てて視線を外すと、別の通行人の情報が割り込む。年齢、スキル、病歴、所持金の概算、直近の食事——プライバシーという概念が根こそぎ剥がされた視界だった。 見たくないものまで見えてしまう。知りたくなかった他人の秘密が、勝手に俺の頭に棚卸しされていく。
視線を広げれば、通りの五十人分の文字列が一斉に流れる。
息が詰まった。
呼吸が浅くなる。視界の端に、透明な数字の霧が薄く立ち上っているのが見えた。
『大気中魔力濃度 0.27(標準値0.2〜0.3)』
空気にまで注釈がついている。世界のどこを見ても、文字から逃げられない。 目を閉じた。真っ暗なまぶたの裏にまで、通り過ぎた人々の情報が残像のように貼り付いて、消えない。
頭の奥で、鉛を詰められたような圧迫感が強くなった。押し込まれているのに、出口がない。
口の中に唾が溢れた。通りの端の路地裏に駆け込む。ゴミと下水の匂いが鼻を突いた——『腐敗アンモニア濃度1.2 嘔吐誘発閾値まで0.3』——そんな注釈までついてきて、耐えられなかった。
壁に手をついて、胃の中のものを吐いた。
昨日食べた硬いパンの残骸と、胆汁の苦みが舌を焼く。膝が震える。右手の紋様が脈打つように熱い。嘔吐の合間に、視界の端が『胃液pH1.8 脱水兆候』と無表情に報告してきた。自分の吐瀉物にまで注釈が入る世界。逃げ場が、どこにもない。
「は……はっ……」
荒い呼吸。涙が滲んで、視界がいっそう滲む。
絞れ。頭の中で誰かが言った——いや、自分で言った。全部を見ようとするから溢れる。一つに絞る。壁だけを見ろ。
路地の壁に視線を固定した。
『煉瓦 焼成温度推定900度 築30年 モルタル劣化部位あり』
一つ。もう一つを増やさない。視線を動かさない。
呼吸が、少しずつ整ってきた。額に浮いた冷や汗が、頬を伝って落ちた。心臓の拍動が、耳の奥でまだ早鐘を打っている。
*
視線を一点ずつ。それだけで、世界は少しだけ元の形に戻った。
顔を上げて、深く息を吸う。口の端に残った胃液を袖で拭う。
「……なんなんだよ、これ」
呟きは誰にも届かない。路地の奥で、野良猫が俺を見下ろしていた。『体重推定3.8kg 栄養状態・中 寄生虫感染中』——猫を見るのはやめる。
路地を出る。人通りの多い表通りは避けて、裏道を選んだ。視線を下に落として、自分の靴だけを見ていれば、ほとんどの情報は遮断できる。
『革靴 右踵摩耗率68% 修繕推奨』
靴にまで説教されている。
歩きながら、頭を整理する。昨日、倉庫で見た金色の表示——古代スキル〈万象解析(アナライズ・オール)〉。聞いたことのない名前だ。ギルドの資料にあるか。いや、下手にこれを報告したら研究対象扱いだ。石板が消えた以上、証拠もない。
とりあえず、宿に戻る。冷静になる。話はそれからだ。
宿の方角に曲がろうとしたとき——
ごうっ、と空気が震えた。
風じゃない。遠くから、地を這うような低い音が届いた。続けて、甲高い悲鳴。剣の打ち合う金属音。
街の外壁、東側。
足が勝手に動いた。周囲の人間も駆け出していく。「魔獣だ!」「新人がやられてる!」——通りに叫び声が広がる。
冒険者たちが武器を手に東門へ走る。俺もつられて走った。スキルなしの雑用係が行っても、何かできるわけじゃない。わかっている。わかっているのに、足が止まらない。
視線を下に落としていても、走れば周囲の情報が勝手に流れ込む。
『正面の冒険者 右肘古傷 スキル〈剣術強化〉Lv3』 『左の男 スキル〈俊足〉Lv2 現在加速中』
頭痛が戻ってくる。それでも、止まるより走っている方がマシだった。
外壁の東門前。すでに野次馬が群がっている。蒸れた人いきれと、誰かの汗の匂い。衛兵が制止する手前で、門の外——街道から少し外れた灌木の茂みの向こうで、何かが起きていた。
人混みの隙間から覗き込む。
そして、俺の視界が、勝手に起動した。
*
『オーク・コモン 個体数7 平均Lv6 群れ隊列:鶴翼陣形(未完成)』
灌木の向こう、新人冒険者パーティ——四人。そのうち一人は既に倒れていて、残り三人を、豚の顔をした緑肌の魔獣たちが半円に囲んでいる。
情報が止まらない。
『フィン・マルロー 17歳 スキル〈剣術〉Lv3 装備:鋼鉄剣 体力残42% 右肩軽度裂傷』 『セラ・イオン 16歳 スキル〈火魔法〉Lv2 魔力残31% 詠唱遅延:平均より0.4秒長い』 『ガルド・ハート 19歳 スキル〈盾術〉Lv2 盾耐久78% 左足筋腱疲労』
三人分のデータ。弱点。残り体力。
そして——
『オーク群れ 次の攻撃タイミング:3秒後 右翼個体Lv7(群れ長)から合図 前衛隊列・右側が薄い』
読める。
次の三秒で、何が起きるか、全部が見える。右翼のオークが咆哮した瞬間、群れが動く。薄い右側が狙われる。盾役のガルドは左足の疲労で反応が遅れる。火魔法のセラは詠唱が0.4秒間に合わない。剣士のフィンは一人目を捌けても、二人目で崩れる。一瞬の判断の遅れが、若い三人の命を地面に転がすことになる。
三秒後、全員が死ぬ。
頭の中で、そう計算が弾き出された。 計算という言葉が、こんなに冷たい響きを持つとは知らなかった。数字だけで誰かの死が出力される。まだ生きている人間が、既に数式の中で死んでいる。
俺は——剣を持っていない。スキルは昨夜覚醒したばかり。まともに戦える力なんて、何一つない。
でも、見えていた。
薄い右翼。詠唱の遅れ。群れ長の合図のタイミング。動かされるべき足の位置。あと三秒で失われる命のすべてが、目の前に図式化されている。見えてしまったものは、見なかったことにはできない。
考えるより先に、体が動いていた。
野次馬の人垣を、肩で押し分けていた。