第1話
第1話
三年前の声が、まだ耳に残っている。
「スキル:なし——前例がありません」
十二歳の鑑定の儀。祭壇の水晶に手を置いたとき、光は灯らなかった。三度試して三度とも同じ。周囲のざわめきが潮のように引いた後、神官が困惑した顔で羊皮紙に記した一行が、俺の人生を決めた。
冒険者の街レグノアでは、スキルが全てだ。剣術強化、炎魔法、鑑定、治癒——十二歳で刻まれた固有スキルがそのまま将来の道になる。スキルなしは、道なしと同義だった。
あれから三年。
俺——カイル、十五歳。今日もギルドの裏口から入って、朝一番の雑用に取りかかる。床の掃除、依頼票の仕分け、届いた薬草の検品。冒険者が表口から堂々と入ってくる横で、俺は裏方として日銭を稼いでいる。
表口が開くたびに朝日が差し込み、革鎧と鉄の匂いをまとった冒険者たちが大股で入ってくる。すれ違いざまに風が起きて、俺の手元の書類が一枚めくれた。誰も俺を見ない。ここでは透明でいることが、雑用係の正しい在り方だった。
毎朝、掃除のついでに掲示板の前を通る。
ゴブリン討伐、薬草採取、護衛依頼——冒険者たちが次々と依頼票を剥がしていく。あの列に混ざりたい。三年間、その気持ちだけは消えなかった。
*
雑用を片付けて、受付窓口に向かった。十七回目の冒険者登録申請だ。
「カイルさん、また来たんですね」
受付嬢のマーナが、申請書を受け取りながら小さくため息をつく。二十代半ば、栗色の髪をきっちり結んだ真面目そうな女性だ。嫌味で言っているわけじゃないのはわかる。この人はいつも事務的で、それが逆にありがたかった。
「規則ですので、スキル欄が空白の方の登録は受理できません。申し訳ありません」
知ってる。わかってる。それでも出し続ける理由を、うまく言葉にできたことはない。ただ、出さなくなった日が本当の終わりだと思った。出し続けている限り、まだ終わっていない。そう信じなければ、明日の雑用に手をつける気力すら湧かなかった。
返された申請書を丸めもせずに鞄に戻し、窓口を離れる。掲示板の前に戻ると、聞き慣れた声が飛んできた。
「おい、まだ来てんのかよ」
リオン。俺と同い年で、鑑定の儀で剣術強化を授かった少年だ。すでにF級冒険者として依頼をこなしている。取り巻きを二人連れて、にやにやしながらこっちを見ていた。
「スキルなしが何回申請しても同じだろ。受付のマーナさんに迷惑かけんなよ」
「……別に、お前に関係ないだろ」
「関係あるっつの。お前がウロウロしてるとギルドの格が下がるんだわ」
取り巻きが笑う。慣れた。三年も浴び続ければ、この手の言葉は肌の上を滑っていく——はずなんだが。
今日は少し引っかかった。リオンの腰に、昨日まで無かった短剣が下がっている。柄の装飾からして安物じゃない。依頼報酬で買ったんだろう。前に進んでいる証拠だ。
俺は立ち止まったまま、三年が過ぎた。
拳を握りしめた。爪が掌に食い込んで、鈍い痛みが走る。悔しいのとは少し違う。置いていかれる感覚だ。同じ日に同じ祭壇に立った人間が、もう別の場所にいる。その距離が、新品の短剣一本分だけ具体的になった。
リオンたちが去った後、掲示板に目を戻す。新着のD級依頼——森林地帯の魔獣調査。報酬は銀貨十五枚。冒険者なら一日で稼げる額を、俺は雑用三日分でようやく届く。
夕方、宿に戻ると主人のバズが廊下で待ち構えていた。腕を組み、壁にもたれて、明らかに俺を狙っている。
「カイル、家賃。二日遅れてるぞ」
「明後日には——」
「毎回それだ。次遅れたら部屋空けてもらう。わかってんな?」
返す言葉がない。小さく頭を下げて自室に入った。
硬いパンを齧りながら、窓の外を眺めた。レグノアの街並みの向こうに、冒険者たちが向かう東の森が霞んで見える。夕日に照らされた樹冠が赤く燃えていた。
あそこに行きたい。
理由なんて大層なものじゃない。孤児院で育ち、手に職もなく、スキルもない。でも冒険者の背中だけはずっと見てきた。掲示板に貼られる依頼票の文面は大半を暗記している。どの地域にどんな魔獣が出るか、報酬相場はいくらか、パーティ編成の傾向まで。
三年分の知識が、頭の中で埃を被ったまま積み上がっている。使い道がない。
パンの最後の一欠片を飲み込んだ。味なんかとっくにわからなくなっている。窓の外では、東の森に向かう冒険者の一団が街道を歩いていた。松明の灯りが点々と揺れて、やがて夕闇に溶けて消えた。
*
その夜、雨が降った。
ギルドの倉庫整理——閉館後の追加雑用だ。銅貨数枚の割増報酬のために、俺は薄暗い倉庫で木箱を積み直していた。
屋根を叩く雨音が絶え間なく響く。ランプの灯りが揺れるたび、積み上げられた木箱の影が壁で大きく踊った。黴と埃と古い革の匂いが鼻をつく。
奥の棚に積まれた木箱の一つが、妙に傾いている。直そうと手を伸ばした瞬間、上段の箱がバランスを崩した。
「——っ!」
咄嗟に身を引く。木箱が床に叩きつけられて砕け、中身が飛び散った。古い装備品、錆びた金具、虫食いだらけの書類——そして、砕けた板の奥から一つの石板が転がり出てきた。
手のひらほどの大きさ。灰色がかった表面に、消えかけた文字のようなものが刻まれている。長い間ここにあったのか、埃が何層にも積もっていた。
俺はそれを拾い上げた。
別に、何か予感があったわけじゃない。散らかしたものを片付けなきゃいけなかっただけだ。
——だが。
石板に触れた右手に、灼熱が走った。
「ぐっ——!」
熱い。いや、熱いのとは違う。手のひらから腕へ、腕から肩へ、肩から頭へ——何かが一気に流れ込んでくる感覚。視界が明滅し、倉庫の景色がぐにゃりと歪んだ。見たことのない文字の羅列が目の前を高速で走り抜けていく。
歯を食いしばった。奥歯が軋み、口の中に鉄の味が広がる。石板を握る右手の骨が軋むような圧迫感がある。熱ではなく、膨大な何かが血管を通って全身に押し込まれていく痛みだった。
石板を手放そうとした。指が動かない。皮膚に張り付いたように、石板が右手から離れなかった。
意識が遠くなる。
最後に見えたのは、石板の表面に浮かび上がった一行の文字だった。読めるはずのない古代文字が、なぜか意味ごと頭に流れ込んでくる。
——適格者、確認。接続を開始します。
膝が折れた。冷たい倉庫の床に倒れ込みながら、視界が暗転した。
*
どのくらい経ったのか。
目を開けると、天井が見えた。倉庫の天井だ。雨音はまだ続いている。ランプの油は半分ほど減っていた。一時間か、二時間か。
体の感覚が妙に鮮明だった。床の冷たさ、埃っぽい空気の一粒一粒、自分の心臓の拍動——すべてが輪郭を持って知覚される。さっきまでと同じ倉庫にいるはずなのに、世界の解像度だけが変わっていた。
何も変わっていない——そう思った次の瞬間。
視界の端に、淡い光の文字列が浮かんでいた。
『木材——オーク材 経年推定47年 含水率18.3% 強度低下率22%』
天井の梁に重なるように、半透明の文字が流れている。
瞬きした。消えない。視線を動かした。文字が追従する。
体を起こす。自分の手のひらを見た。石板はもうなかった。代わりに、右手の甲にうっすらと紋様のような痕が浮かんでいる。
立ち上がって視線を巡らせた瞬間、息が詰まった。
見えるもの全てに文字が重なっている。壁の材質、床板の劣化度、ランプの油の残量、木箱の中身の概要——世界そのものに注釈がびっしりと書き込まれたような光景。情報が止まらない。
そして視界の中央に、ひとつだけ——他とは違う金色の表示が浮かんでいた。
『古代スキル〈万象解析(アナライズ・オール)〉が覚醒しました』
右手の震えが止まらなかった。
三年間、空白だったものが——埋まった。
倉庫の外で、雨脚が強まる。文字列は消えない。目を閉じても、瞼の裏にうっすらと情報の残像が走っている。これが何なのか、まだわからない。ただ一つだけ確かなことがある。
俺の世界は、たった今、書き換わった。