第2話
第2話
夜明け前、王城の鐘が乱打された。
三打、四打、五打——回数が定まらない。緊急招集の合図だが、予め定められた打ち方ではない。打ち手が狼狽している。アルスはそれだけで事態の異常を察した。
寝台から跳ね起きる。寝間着の上にローブだけを羽織り、廊下に出た。石畳がまだ冷たい。素足に鋼のような冷気が這い上がる。
回廊を走る。すれ違う女官が泣いていた。騎士の一団が剣を抜いたまま王女の寝所方向へ駆けていく。
「何があった」
アルスが近くの衛兵に問う。衛兵は一瞬、誰に話しかけられたか分からない顔をした。宮廷魔導士の声を聞いたことがないのだろう。
「お、王女殿下が——寝所で、襲われて」
「ご無事か」
「お命は。ですが首に傷が」
アルスは走り出した。ローブの裾が踝を打つ。息が白く曇る。
王女シャルロット、十七歳。国王の一人娘。次代の女王候補。
——結界の中で、暗殺未遂。
ありえない話ではなかった。結界は外部からの魔力侵入を遮断するが、内部の人間が内部で起こす事件までは防げない。襲撃の手口によっては、結界を通過した痕跡が残る可能性もある。もしそうなら、調査の一端を宮廷魔導士が担うことになる。
十二年間、初めて求められる仕事かもしれなかった。
そう思った自分を、アルスは一瞬で嘲った。
——呼ばれるとしたら、仕事を頼むためではない。
そういう予感があった。喉の奥に、鉄錆に似た味が滲んだ。十二年の冷遇で磨かれた嗅覚が、これから自分に向けられるであろう悪意の形を、輪郭だけ先に教えてくる。
王女の寝所前の広間に、主要な顔が既に揃っていた。
ガレス騎士団長。鎧も着ず、急ぎ駆けつけたらしい。銀髪が乱れている。
副魔導士レナード。彼だけは身なりが整っていた。金髪に櫛が通り、ローブの襟も正しく折り返されている。まるで呼ばれることを予期していたような清潔さだった。寝起きに駆けつけた者の汗の匂いも、乱れた息も、レナードからは一切感じ取れなかった。
国王は別室。王女の容態を直接確認している最中だという。
アルスが広間に入った瞬間、空気が止まった。
三十人はいる。騎士、女官、文官。全員の視線が一斉にアルスへ向く。呼吸を止める者もいた。壁際の若い女官が、思わず一歩後ずさった。その踵が絨毯を擦る微かな音だけが、凍りついた広間に小さく落ちた。
「——アルス宮廷魔導士」
レナードが口火を切った。片手に小さな硝子瓶を掲げている。瓶の中で、淡い紫色の煙が揺れていた。
「現場に残留していた魔力痕跡を採取しました。鑑定の結果、属性が特定されております」
硝子瓶を卓上に置く。コトリと小さな音が、広間に妙に大きく響いた。
「空間系統、もしくはその近接属性。極めて希少な痕跡です」
アルスは卓上の瓶を見た。
紫色の煙。空間属性の残滓。
——空間。
自分の属性だった。封印されているはずの。
十二年間、一度も外で使っていない属性。そもそも空間属性の魔力痕跡を、この宮廷で検出できる術者はいない。レナードにもそれは不可能なはずだった。
ではこれは何だ。
アルスは瓶を凝視した。色の揺れ方。煙の粒子の回転速度。確かに空間属性の残滓に似ている。似ているが、本物ではない。粒子の螺旋がわずかに逆向きに巻いている。空間属性特有の「内側に畳み込む」運動がない。熟練した術者が、別属性の魔力を加工して「空間属性に見えるよう偽装」したものだった。おそらく土属性を基底に、風属性を巻きつけて色合いだけを模倣している。丁寧な仕事だった。丁寧すぎる仕事だった。
見分けられる人間は、この部屋には一人しかいない。
それは、この偽装を作った当人だった。
「——アルス卿。見覚えが、ございますか」
レナードが言った。声音は丁寧だった。裁判官が被告に問うような、形式的な丁寧さだ。
アルスは答えなかった。答える前に、レナードの目を見た。
レナードもアルスを見返した。
その瞬間——金髪の副魔導士の視線が、ほんの一瞬、アルスの肩の向こうへ流れた。
〇・一秒にも満たない逸脱。誰も気づかない。気づくはずがない。ただアルスだけが、十二年の孤独で人間の目ばかり観察してきたアルスだけが、それを捉えた。言葉をかけられない日々、唯一の情報源は他人の視線の微細な揺らぎだった。誰が自分を嫌っているか、誰が恐れているか、誰が哀れんでいるか——それを読む技術だけは、この宮廷の誰よりも磨かれていた。
——偽証だ。
確信した。
同時に、悟った。
この場で何を言っても意味がない。レナードは既に全ての証拠を整えている。この瓶の中の偽装も、他の状況証拠も、全部。
ここは弁明の場ではない。
ここは、通告の場だ。
扉が開いた。
玉座の間へ移ることになった、と近侍が告げる。
——やはり通告か。
アルスは騎士二人に挟まれ、回廊を歩いた。縄は打たれていない。まだ、正式な拘束ではない。だがもう宮廷魔導士としての扱いではなかった。騎士の一人が、ローブの袖をつかんでいる。布地が引き攣れる音が、一歩ごとに耳障りだった。革手袋の指が、肘の少し上の肉ごと布を握り込んでいる。痛みはないが、骨の輪郭に他人の力が触れている感触が、奇妙に生々しかった。
玉座の間。
国王アルフォンス三世が玉座に着いている。五十代半ば、白髪の混じった髭。王女の父親としての疲労が、面に滲んでいた。その脇にガレス。さらに離れてレナード。
そして玉座の前の床に、アルスは立たされた。
「アルス宮廷魔導士」
国王の声。抑揚がない。
「貴殿の属性と一致する魔力痕跡が、王女の寝所から検出された。副魔導士レナードが鑑定した」
「……」
「貴殿に動機があるかと問えば、ない。だが痕跡がある。王女は命を取り留めたが、首に傷を負った。この件を、王国として見逃すわけにはいかぬ」
国王は一度、息を吐いた。
「弁明があるか」
アルスは口を開いた。
「弁明は、ございません」
広間がざわついた。ガレスの片眉が上がった。レナードの表情が、一瞬固まった。
——予想と違う反応だったな。
アルスは内心で呟いた。彼らはアルスが弁明を叫び、醜く抵抗し、取り乱すことを期待していた。その様子を記録し、「有罪の証左」として処理するつもりだった。
だが、アルスは抵抗しなかった。
抵抗する意味がない。この場で何を言っても、結論は変わらない。言葉を尽くせば尽くすほど、それが醜悪な言い訳として記録に残る。
先代グラナドが最後の病床で遺した言葉を、アルスは覚えていた。
『濡れ衣を着せられた時、抗うな。抗えば糸はもつれる。黙って着て、次の一手を考えろ』
先代の声が、今、鼓膜の内側で聞こえた。痰の絡んだ、しかし最後まで澄んでいた声。窓の外で雀が鳴いていた春の午後。師の指が、アルスの手の甲に置かれた時の、乾いた軽さ。すべてが一瞬で蘇り、そして消えた。
「弁明なし、と記録せよ」
国王が書記官に命じた。
ガレスが一歩前に出た。
「陛下。即時の処分を進言いたします。王都における危険分子の滞在は、これ以上許されるべきではない」
「処分とは」
「追放。魔力封印の枷をはめ、王都の門の外へ放逐。以降、王国への立ち入り禁止」
国王が目を閉じた。数秒の沈黙。玉座の間の高い天井の方で、松明の火が一度大きく揺れた。油の爆ぜる音が、やけに近く聞こえた。
「——認める」
それだけだった。
レナードの口元が、ほんの僅かに弛んだ。
アルスはそれを視界の端で捉えながら、動かなかった。膝の裏に汗が滲んでいる。だが顔には何も出さない。奥歯の噛み合わせだけを、ゆっくりと確かめた。舌先を上顎につけて、呼吸の経路を整える。先代に教わった、感情を体の奥に沈める所作だった。
——七十二時間。
心の中で呟いた。
結界が本格的に崩れ始めるまで、およそ三日。今この瞬間から、カウントダウンが始まる。
騎士が枷を持ってきた。
鈍色の金属。表面に封印術式が刻まれている。両手首に嵌められた瞬間、体内の魔力が内側から圧し潰された。血管を束ねて縛られるような感覚。息が浅くなる。指先の感覚が鈍る。金属の縁が手首の骨に当たって、冷たさが骨髄まで沁みた。
だがアルスは立っていた。
——この枷、三日保たない。
指先で封印の強度を測る。想定より弱い。術式の結び目が三箇所、甘い。アルスの真の魔力量を、彼らは最後まで過小評価していた。
騎士に背を押された。掌の熱が、背中の薄いローブ越しに伝わる。押し方には、かつての同僚に対する気まずさと、罪人に対する軽侮とが混じっていた。アルスは一歩、前に踏み出した。玉座の間を出た。
振り返らなかった。
背後でレナードが何か言った。祝いとも労いともつかぬ、意味のない音。アルスには届かない。
回廊を歩く。朝日が昇り始めていた。王都の空は澄んでいる。頭上の結界は、今朝未明に、最後の補修を受けたばかりだった。
あと七十二時間。
枷の内側で、封印された空間属性が、静かに呼吸を整え始めた。