第3話
第3話
玉座の間の扉が背後で閉じた。
騎士二人に挟まれて、回廊を歩く。両手首の枷が、一歩ごとに鎖の音を立てる。カチャ、カチャ。十二年聞き慣れた石畳の反響に、今朝から別の音が一つ混じった。
「早く歩け」
前の騎士が言った。若い声だった。
「歩いています」
アルスは答えた。
「口を開くな」
「はい」
騎士は一瞬、振り返った。罪人からの敬語が想定外だったらしい。鼻で息を吐き、前を向き直した。
回廊の窓から射す朝日が、アルスの影を刻む。影の両手首に、はっきりと太い輪が見えた。その輪は、アルスが歩くたび、一拍遅れて影の腕を追いかける。枷の重みが、光の中にまで染みていた。
通りすがりの女官が、手で口を覆った。
「あの方、空間魔法で王女殿下を——」
「しっ」
「でも、信じられなくて」
「しっ、と言ったでしょう。下がって」
女官の囁きは潜められていたが、耳には届いていた。二人は絹の衣擦れを立てて、反対方向へ走り去った。
前庭へ出る直前、角を曲がった。誰かとすれ違いそうになり、相手が慌てて壁に身を寄せる。顔を上げた。昨日まで夕餉の給仕をしてくれていた下働きの老人だった。
盆の上の銀杯が、震えて小さく音を立てた。
「——ご迷惑を、おかけしました」
アルスは言った。自分でも驚くほど、淡々とした声が出た。
老人は、長い間、何も返さなかった。やがて、蚊の鳴くような声で、
「……魔導士様、本当に、あなたが」
「言わなくて、いいですよ」
「昨日の夕餉のとき、あなたは、パンの礼まで仰ってくださったじゃないか」
「もう、宮廷の話は、しないでください。あなたが困ります」
アルスは言い切った。
老人の目が、赤くなった。
後ろの騎士が、袖を引いた。布が肘の皮膚を擦る。アルスは歩き出した。老人の方を、振り返らなかった。
前庭に出ると、冬の光が目を打った。
王城の大扉が正面に開いている。その先、馬車道を一直線に降りれば、王都の正門まで半里。扉の手前に、ガレスが立っていた。横にレナード。
「アルス・ヴェルストラーテ」
ガレスが名を呼んだ。フルネームで呼ばれるのは、叙任式以来、十二年ぶりだった。
「陛下の御命により、貴様を王都より追放する。魔力封印の枷は、王国の外で解くことを許されぬ。王都への再入市を試みた場合、その場で処断する」
「承知いたしました」
「それだけか」
「それだけです」
「——弁明の機会は、玉座の間で与えられていた」
「弁明は、しておりません」
「なぜだ」
ガレスが言った。抑揚を抑えた声だったが、問いの形をしていた。
「意味が、ないからです」
アルスは答えた。
「意味がない、だと」
「この場で何を申し上げても、結論は変わりません。変わらないなら、口は閉じておくのが、礼儀かと」
ガレスの眉が、一瞬だけ寄った。叫び、崩れ落ち、慈悲を乞う——そういう弁明の型を、ガレスはいくつも見てきている。だがアルスは、型に収まらなかった。
ガレスは懐から一枚の羊皮紙を取り出した。
「追放令状だ。街道の要所で提示を求められる。紛失した場合、近隣領主に拘束される。以降の身柄については、王国は関知しない」
「承知いたしました」
差し出された羊皮紙を、アルスは枷のはまった両手で受け取った。金属の輪が、羊皮紙の縁に触れて、カリ、と乾いた音を立てた。封蠟が冷たい。親指の腹で印を確かめた。本物の王璽だった。
「貴様のような危険分子に、王国の慈悲を与えてやるのだ」
ガレスが低く言った。
「——感謝しろ」
アルスは顔を上げた。
「感謝は、国王陛下に」
ガレスの顎が、一瞬、動いた。言い返す言葉を探す動きだった。見つからなかったらしい。ガレスは鼻で一つ息を吐き、顎を戻した。
横でレナードが、笑みを作った。
「アルス卿。いえ、もう卿ではございませんね。失礼」
「どうぞ、お呼びください」
「では、アルスさん。道中、お気をつけて。空間属性の魔導士でしたら、枷の外で何をなさろうと、王国は関知いたしません」
「ご忠告、ありがとうございます」
「ただ、一つだけ」
レナードが、声を半音落とした。
「結界のことは、ご心配なく。副魔導士の私が、責任をもって維持いたします。あなたの儀式的な習慣がなくとも、結界石は自律いたしますので」
嫌味だった。公衆の面前で「空間属性」と繰り返し、罪状を民衆の記憶に刻み込む。同時に、結界維持の功績を横取りする宣言でもあった。
アルスはレナードを、見なかった。
見てしまえば、視線で偽証の確信を相手に伝えてしまう。まだ伝える時ではなかった。伝える時は、三日後に来る。
「——では、失礼いたします」
アルスは軽く頭を下げ、歩き出した。
大扉が完全に開かれる。蝶番の軋む音。王都の街並みが正面に広がった。煉瓦の家々。荷車を引く商人。井戸の前で水を汲む女。朝餉の煙。広場から響く子供の笑い声。十二年、頭上の結界越しに守り続けてきた景色だった。
石段を降りる。馬車道に出る。
馬車は用意されていなかった。騎士一人が騎馬で先導し、もう一人が徒歩で後ろについた。罪人を徒歩で引き回し、民衆の目に晒す。これもまた、罰のうちだった。
道の両脇に、人が集まり始めた。
「あれが、王女殿下を——」
「宮廷魔導士だったらしいぜ」
「地味な顔だな。もっと恐ろしげな男かと思った」
「枷をはめられた魔導士なんて、初めて見た」
「空間魔法って、何だい、それは」
「知らねえよ。難しい魔法なんだろ」
ざわめきが波になる。だが罵声までは飛ばなかった。アルスの顔を覚えている者は、この街に、一人もいなかった。十二年、地下祭壇と自室を往復するだけの生活で、民衆と顔を合わせる機会がなかった。守られている側は、守っている者の顔を知らない。それは、当然のことだった。
背後で、子供の声が聞こえた。
「お母さん、あの人、悪いひと?」
母親は、少しの間、答えなかった。
「……悪いひとだから、お城の偉い人たちが、追い出したんでしょう」
「でも、悲しそうな顔してる」
「見てはいけません」
アルスは歩調を変えなかった。奥歯の噛み合わせを、ゆっくり確かめる。舌先を上顎に押し当て、息の経路を整えた。先代に教わった、感情を体の奥に沈める所作。十二年で、この所作だけは完璧になった。
正門が見えてきた。
石造りの巨大な門。左右に衛兵が並び、頭上には王国の紋章。門の向こうは、舗装の切れた街道。その先に、雪化粧をした森の輪郭が浮かんでいた。
門番長が前に出た。年嵩の男だった。
「追放令状を」
「こちらに」
アルスは枷のはまった両手で、羊皮紙を差し出した。
門番長は封蠟を調べ、羊皮紙を開き、内容を一瞥した。ガレスの署名。王璽。偽造の疑いはない。視線が数秒、羊皮紙の上を往復する。
「——空間属性、と」
門番長が小声で確認した。
「そう、記されています」
「本当に、あなたが」
「王璽の通りです」
門番長は、それ以上、問わなかった。王都守備の老兵は、結界の異常を先月から感じ取っていた。自身は術者ではないが、門の石畳に伝わる微振動で、結界の状態を経験的に読んでいた。その勘が、今朝の事件と目の前の罪人との間に、何かの齟齬を感じている。
だが、口には出さなかった。王璽の前に、老兵の勘は沈黙する。
「——お通り、願います」
「ありがとうございました」
アルスは軽く頭を下げ、門の敷居を跨いだ。
枷が重い。一歩ごとに、手首の骨が軋む。だがそれより、足元の感触の方が、強く意識に残った。石畳ではなく、砂利と泥と雪。柔らかく、頼りない。この感触を、アルスは知らなかった。十二年間、王都の外に一歩も出ていなかった。
頬に冷気が刺さる。王都内の空気とは違う。結界の内側で濾過されていない、冬の生の空気。鼻の奥が痛む。息を吐くと、白い雲が、顔の前で形を作り、すぐに散った。
門が、背後でゆっくりと閉じられていく。
石と石がぶつかる重い音。蝶番の軋む金属音。そして最後に、鉄閂の落ちる鈍い衝撃。
——振り返るな。
自分に言い聞かせた。
振り返れば、何かを求める姿に見える。赦しを乞うているようにも、未練を残しているようにも。そう見られた瞬間、この追放の物語の主役は、アルスを追い出した側になる。今は、まだ、主役を渡さない。
アルスは、振り返らなかった。
雪の街道を、真っ直ぐ歩いた。
背後の民衆のざわめきが、次第に遠ざかる。門が完全に閉じ、外界の音だけが残った。風の音。遠い鴉の鳴き声。自分の靴が雪を踏む、湿った足音。
一町ほど歩いたところで、道端の岩に腰を下ろした。
息を吐く。白い呼気が、冬の空気に散る。
枷を見下ろす。両手首の輪。術式の彫り込み。封印の結び目——三箇所、甘い。宮廷魔導士の誰もが、アルスの魔力量を通常の五倍程度と見積もっていた。実際は、先代グラナドが封じた分を含めれば、その二十倍以上ある。
「……三日、か」
初めて、声に出した。
枷が軋み、自壊するまでの時間。その頃には、王都の結界も限界に達する。北東区画の亀裂。レナードの魔力量では、補えない規模の綻び。
「——七十二時間」
呟いた。
聞いている者は、誰もいなかった。
冬の森の入口で、元宮廷魔導士アルス・ヴェルストラーテは、静かに息を整えた。
岩から立ち上がる。
膝が一瞬、笑った。昨夜の結界補修の疲労が、まだ全身に残っている。無理もない。二時間かけて十六区画全てに魔力を注ぎ、そのまま枷をはめられ、朝から歩き通しだ。
だが、歩く。
目指す場所は、まだない。森を抜け、東の街道を辿れば、辺境の街へ至ると、以前書物で読んだ。それだけを指針にする。
雪が深くなる。靴底に雪が食い込む。白い息が、一定のリズムで前へ流れていく。
——先代。
アルスは胸の内で呼びかけた。
——あなたの言いつけ、まだ守っていますよ。抗わず、黙って、次の一手を考えています。
返事はない。当然だった。師は、三年前に逝った。
ただ、風が吹いた。
冬の森の匂い。枯れ葉と、雪と、遠い木の煙。王都の回廊では嗅いだことのない、生き物の気配を含んだ匂いだった。
アルスは一歩、深く踏み出した。
枷の術式が、最初の軋みを上げた。