第2話
第2話
朝、喉の奥にまだ青臭さが残っていた。 ヒールリーフの残り香だ。三日経っても舌の裏に粘る。肋骨を庇って身を起こすと、鑑定が勝手に自分のステータスを読み上げた。HP68%、肋骨のひび、右肩の筋繊維——あと四日で塞がる。 「しぶといな、この体」 呟いて、ベッド脇の革袋を手に取る。中には昨日選別した薬草が詰まっている。ヒールリーフ、マナグラス、解毒草。全部、任務の合間に「ついでに」採ったものだ。ギルドの購買に持ち込めば、一袋で銅貨三十枚になる。囮手当の倍だ。 階段を降りると、食堂の隅でガルドたちの声が聞こえた。酒が入っている。まだ朝の七時だ。 「今日はC級区域の奥までだ。鑑定くんに先行させりゃ、罠の位置もわかる」 「便利なもんだな。コスパ最強」 笑い声。俺が近づくと、会話がぴたりと止まった。ガルドが顔を上げて手を振る。 「おう、来たか。今日もよろしく頼むぜ、鑑定くん」 「……よろしく」 呼び名はもう慣れた。慣れた、と自分に言い聞かせる。 テーブルに着くと、硬いパンと水が運ばれてきた。囮一人分の朝食だ。ガルドたちの卓には、ベーコンと卵が湯気を立てている。鑑定を飛ばした。パンは三等級小麦、水は井戸の濾過不足、ベーコンは先月の塩漬け——どうでもいい情報が勝手に流れ込む。 それでも、俺は鑑定を止めない。 蓄積だ。世界の何もかもを、情報として貯めておく。いつか、使う日のために。
廃坑の入口は、朝霧でぼんやり湿っていた。 ガルドが松明に火を灯す。鉄の匂い、苔の湿気、奥から漏れる土の冷気。鑑定が坑道の材質を表示した。凝灰岩、風化層、奥行およそ八百メートル。 「カイ、先行しろ。三十メートル間隔だ」 「了解」 松明を一本受け取って、坑道に入る。 最初の角を曲がると、天井が急に低くなった。鑑定を広げる。頭上の梁、木製、半分朽ちている——接触回避。足元、粘土質、スリップ注意。左の壁、浮石、崩落予兆。 口の中で情報をつぶやきながら進む。これを十回繰り返せば、迷宮の地図は頭の中に組み上がる。松明の火が揺れるたび、岩肌に自分の影が不自然に長く伸びた。奥へ進むほど空気が冷え、吸い込む息が肺の奥で重くなる。遠くで水滴が落ちる音がして、その一滴までが鑑定の照準に引っかかる——地下水脈、浅い、塩分濃度やや高め。余計な情報だとわかっていても、フィルタをかけない。今はまだ、鑑定の「解像度」を捨てたくない。 十五メートル先で、鑑定が反応した。 ——ロックスパイダー。レベル10。天井の影に三体。 足を止めて、振り返り、ガルドに合図を送る。 「天井。三体。落下奇襲型」 「よし、引きつけろ」 囮の開始だ。 松明をわざと揺らしながら、蜘蛛の真下を通り過ぎる。影の中で糸が張り詰める音。鑑定が警告を出す——二秒後、落下。 喉がひりついた。肋骨のひびが、呼吸の底で小さく疼く。背中を伝う汗が、腰の革帯に吸い込まれていく。余計なことを考えるな。視界の隅で、蜘蛛の脚先が石壁から一ミリ浮いた瞬間を鑑定が拾う。筋の張り、関節の角度、重心の移動——全部が数値になって頭に流れ込む。落ちる、来る、いまだ。 一、二——横に飛ぶ。 背後でドシャリと重い音がした。ロックスパイダーが俺のいた場所に着地した瞬間、ガルドの剣が横から頸部を貫く。セレンの炎が残り二体を焼いた。キチン質の焦げる臭いが坑道を満たし、蜘蛛の脚が痙攣しながら石床を叩く音が、壁に反響して何度も戻ってきた。 三十秒もかからない。 「やるじゃねえか、鑑定くん。タイミング完璧だ」 「……どうも」 鑑定が教えてくれるのは、モンスターの行動パターンだけじゃない。奴らが動く「直前」の兆候だ。筋肉の張り、呼吸の乱れ、魔力の集中。観察を続ければ続けるほど、俺の予測精度は上がっていく。 ガルドたちはそれに気づいていない。気づかれない方がいい。気づかれた瞬間、俺の価値は跳ね上がる。跳ね上がった価値は、もっと危険な囮として消費される。 ——囮を続けるなら、囮でい続ける範囲で上達する。 それが今の俺の流儀だ。 坑道の奥へ進むごとに、鑑定で「印」を刻んでいく。物理的な印じゃない。頭の中に記憶した座標だ。罠の位置、モンスターの巣、薬草の群生地——二時間で二十三箇所。岩の裂け目に揺れる苔の色、水滴が落ちる周期、空気の流れが急に冷える分岐——そのすべてを、自分の頭蓋の内側に縫い留めていく。鑑定の文字列は消えても、感覚の記憶は残る。残せば、いつか、一人で歩ける。 ガルドたちは自分たちで地図を描いている。だが、俺の頭の中にある情報量とは比較にならない。パーティのリーダーより迷宮を知っている囮。 それがこの数週間で積み上がった、俺のささやかな武器だった。
廃坑から戻ると、まだ日が高かった。 ガルドたちは酒場へ流れる。俺は誘われない。というより、誘わない方が都合がいいらしい。報酬を分ける口数が一つ減る。 「カイ、明日も同じ時間な」 「ああ」 背中を見送って、俺はギルドへ向かった。単独クエスト用の掲示板がある。Fランク枠——薬草採取、下水の鼠駆除、街の清掃。どれも銅貨数枚の仕事だ。 でも、鑑定持ちには意味が変わる。 薬草採取の依頼票を一枚剥がして、受付に差し出した。 「これ、受けます」 「カイさん、今日だけで三件目ですよ」 受付嬢——リィナが心配そうに俺の顔を見上げた。栗色の髪が窓からの斜光に染まって、そばかすの浮いた鼻の頭がわずかに動く。彼女の視線は俺の顔ではなく、包帯の覗く手首に落ちていた。 「無理じゃない。近場だけだから」 彼女は頷いて、依頼票に印を押す。インクの匂いと、受付台に擦り切れた革の匂いが混じる。 ギルドを出ようとした時、正面の掲示板に張り出された速報が目に入った。 ——『剣聖』レイン。Cランク昇格。最短記録更新。 周囲の冒険者たちが集まって騒いでいる。 「二ヶ月でCかよ」 「次はBだろ。半年でSランク行くんじゃないか」 人だかりを横目で通り過ぎる。 レイン。同じ日に転生した、同じスタートラインの男。今は別の大陸にいるような距離だ。 悔しくない、と言えば嘘になる。ただ、比べることには意味がない。レインの『剣聖』は剣を振れば結果が出るスキルだ。俺の『鑑定』は、振る場所がない。積み上げるしかない。 北門を出て、森の浅い区域に入る。鑑定を全開にして歩くと、薬草の位置が光点のように頭に浮かぶ。他の採取班が見落とすマナグラスの群生地。日陰に隠れたヒールリーフ。毒草と見分けがつかないウィズリーフ——鑑定なしには手を出せない高価品だ。 一時間で革袋が満杯になった。 ギルドに戻って換金すると、銅貨八十枚。今日の囮手当の三倍だ。 リィナが目を丸くした。 「カイさん、この量……どこで?」 「普通の採取ポイント」 「普通の、って——他の班が毎日通ってる場所ですよ?」 彼女が声を落とす。カウンター越しに少し身を乗り出し、俺以外の誰にも届かない距離まで顔を近づけた。 「あなた、見えてるんですね。他の人には見えないものが」 一瞬、鼓動が跳ねた。気づかれた。 喉の奥が乾く。言葉を探そうとして、かわりに鑑定が勝手に走った——脈拍、上昇。発汗、微増。彼女の瞳孔、収縮なし。敵意、検出されず。 でもリィナの顔に、揶揄や嘲りはなかった。ただ、静かに目を伏せる。長い睫毛が、そろばんの玉を落としたときみたいに細かく震えた。 「……誰にも言いません」 その声の低さが、妙に耳に残った。慣れていない、と感じた。誰かに「味方」と呼べる距離で話されることに。 銅貨を受け取って、俺は黙って頷いた。
銅貨の重みを革袋に詰めて、ギルドを出ようとした時だった。 酒場の戸が半分開いたまま、ガルドの声が漏れてきた。 「——だから、次の深層クエストだよ。B級区域。報酬が跳ね上がる」 「でも、B級は俺たちの腕じゃ……」 「だから囮がいるんだろ。鑑定くんを連れて行く」 足が止まる。壁に背を付けて、息を殺した。木の板一枚を隔てた向こうで、エールのジョッキが卓に置かれる鈍い音、脂の焦げる匂い、セレンの笑い声が布越しにくぐもって届く。心臓の音が、耳の内側で不自然に大きい。 「あいつ、最近妙に迷宮の勘がいい。深層の地形把握にも使える」 「でも、B級で囮って——」 「生きて帰れりゃ儲けもの。死んだら死んだで、報酬は四等分だ」 笑い声。 その響きが、坑道で聞いた蜘蛛のキチンが焦げる音と、どこか似ていた。 俺は壁から離れた。革袋の銅貨が、肋骨の辺りで冷たく鳴った。指先が、自分でも意識しないうちに握り込まれている。爪が掌に食い込んで、そこだけが妙に熱い。 ——生きて帰れりゃ儲けもの、か。 鑑定が勝手に、自分の感情を数値化しようとして、俺はそれを初めて、意志で振り払った。今は、測るな。測ったら、何かが決まってしまう気がした。 明日もまた、「鑑定くん」の一日が始まる。今度は、命がかかっている。