第1話
第1話
目が覚めたら、白い空間に立っていた。
足元も頭上も壁も——全部が白。輪郭すらない。ただ白い虚空の中に、俺は素足で立たされていた。 最後の記憶は、深夜のオフィスで缶コーヒーに手を伸ばしたところだ。それすらもう霞がかかったように遠い。 死んだのか。いや、死んだ感覚がどういうものかなんて知らないけど。 白い空間の中央に、宝石を散りばめたような祭壇がある。そしてその前に、俺と同じように呆然と立つ人間が十数人。年齢も性別もバラバラだ。全員が同じ白い服を着ている。 俺の服も、いつの間にか白い。 ——異世界転生。 脳裏にその言葉が浮かんだ瞬間、祭壇が光った。
「これより、スキル付与の儀を執り行う」
声の主は、祭壇の向こうに立つ老人だった。長い灰色のローブ。杖。いかにもファンタジーな出で立ち。現実味がなさすぎて、逆に冷静になれた。 祭壇に触れた者から順にスキルが付与される、と老人が説明する。一人ずつ、前に出る。 最初の男が祭壇に手を置いた瞬間、空間全体が金色に染まった。
「——『剣聖』。Sランク適性スキル」
老人の声が震えている。周囲がどよめいた。スキルを授かった男——後にレインと名乗ることになる——は、自分の手を見つめて静かに笑った。確信に満ちた顔だ。 次の女が触れると、今度は空間が赤く燃えた。
「『炎帝』。Sランク適性——なんと、連続で……!」
三人目、『鉄壁』。Aランク。四人目、『疾風』。Aランク。 派手な光、驚嘆の声、羨望の視線。祭壇に触れるたびに空間が色を変え、老人が興奮気味にスキル名を読み上げていく。 俺の番が来たのは、最後だった。 祭壇の表面は、先に触れた者たちの残光でまだ微かに輝いている。手を置く。冷たい石の感触が掌に伝わった。 ——何も起きない。 光もない。色の変化もない。空間は白いまま。 長い沈黙の後、老人が口を開いた。
「……『鑑定』。Fランク適性」
周囲の視線が集まる。同情。困惑。そして——薄い笑い。 なるほど。ハズレ枠か。 不思議と、悔しさはなかった。そもそもこの世界に来ること自体、俺が選んだわけじゃない。与えられた手札で考えるしかない。 ただ、胸の奥に小さな棘が刺さった感覚だけが残った。
冒険者ギルドに登録されたのは、その三日後だ。 ギルドの建物は石造りの二階建てで、冒険者たちの喧騒で常に騒がしい。受付嬢に渡された冒険者カードには「Fランク」の刻印。ランク表の最下段。戦闘系スキルなし、身体強化スキルなし。純然たる最弱。 ソロでクエストを受けようとしたが、Fランクに回ってくるのは薬草採取か害虫駆除。報酬は宿代にも足りない。 三日目に、声をかけてきたパーティがあった。
「お前、鑑定持ちだろ? うちに来いよ。モンスターの情報分かるなら、前衛が動きやすくなる」
リーダーはガルドという剣士だった。Dランク。パーティは四人で、そこに俺が加わって五人。ありがたい話だ——と、その時は思った。 最初の任務で理解した。俺の役割は「情報提供」じゃない。 囮だ。
「カイ、右から来てる! 注意引いとけ!」 「了解」
森の中を走る。背後からゴブリンの群れ。三体。鑑定が自動的にステータスを表示する。レベル5、レベル7、レベル4。Fランクの人間を殺すには十分な戦力。 俺は走りながら鑑定を飛ばした。地面、草、木の根——情報が次々と流れ込む。 ——前方三メートル、根の隆起。転倒リスク。左に迂回。 ——右手の茂み、フォイズンベリー。毒性あり。接触回避。 鑑定は戦闘スキルじゃない。だが、周囲の情報を正確に把握できる。これだけが俺の生存手段だった。 ガルドたちが横合いから斬りかかり、ゴブリンを仕留める。俺が注意を引いている間に、背後から一方的に叩く。効率的といえば効率的だ。 ただ、囮である俺の安全は計算に入っていない。
「ナイス囮、鑑定くん!」
パーティの魔法使い、セレンが笑いながら言った。悪気はないんだろう。たぶん。 鑑定くん。それが俺の呼び名になった。 任務を重ねるごとに、囮の難易度は上がっていく。ガルドたちが受けるクエストのランクが、俺の実力に見合わないものになっていった。 それでも、パーティを抜ける選択はしなかった。ソロのFランクに回ってくる仕事では、生活すらままならない。利用されていると分かっていても、ここにいるしかなかった。 その代わり、俺は鑑定を使い続けた。 任務中に見かけた薬草を片っ端から鑑定し、効能を記憶した。モンスターの行動パターンを観察し、どの動きの後にどの攻撃が来るかを蓄積した。迷宮の壁の材質、空気の流れ、罠の構造。戦えない俺にできるのは、見ることだけだ。だから、誰よりも多く見た。 ——今日の任務も、囮からだ。
「次のクエスト、C級指定区域の探索だ。カイ、お前が先行して索敵しろ」
ガルドが地図を広げながら言った。C級指定区域。Dランクパーティが踏み込むには危険な領域。当然、最前線を歩かされるのは俺だ。 森の奥、陽光が届かない薄暗い獣道を一人で進む。鑑定を常時展開。周囲十メートルの情報が頭に流れ込み続ける。 ——反応。前方八メートル。大型。 立ち止まった。木の幹に隠れ、息を殺す。鑑定が表示する情報を読む。
オークロード。レベル22。C級相当。
Fランクの俺が正面からやり合えば、一撃で終わる。 背後に合図を送ろうとした瞬間、足元の枯れ枝を踏んだ。
——こちらに気付いた。
オークロードが咆哮を上げて突進してくる。地面が振動する重さ。逃げる。全力で走る。鑑定が視界の端に情報を流し続ける。 ——左の木、幹径40cm、衝突で折れる。回避不可。右へ。 ——前方、傾斜。角度15度。加速可能。 情報を処理しながら走った。ガルドたちのところまで誘導すれば——
衝撃。
オークロードの腕が、走る俺の背中を掠めた。掠めただけで体が吹き飛ぶ。木の幹に叩きつけられ、肋骨が軋む音がした。 視界が明滅する。鑑定が自分自身のステータスを表示した。HP残り12%。肋骨にひび。右肩の筋繊維が断裂。 遠くで、ガルドたちの声が聞こえた。剣戟の音。オークロードがそちらに向かったらしい。 地面にうずくまったまま、俺は左手で周囲の草を掴んだ。鑑定。
——ヒールリーフ。回復促進効果。傷口に直接適用で止血・鎮痛。
右手が動かない。左手だけで葉を千切り、噛み砕いて傷口に押し当てた。苦い。青臭い汁が傷に染みて、焼けるような痛みが走る。だが、鑑定の表示するHPが僅かに回復し始めた。 数分後、オークロードを仕留めたガルドたちが戻ってきた。
「生きてたか、鑑定くん。お前が引きつけてくれたから楽に倒せたぜ」
ガルドが笑う。
「……ああ」
「つーか自分で治療してんのか。便利だな、お前」
セレンが俺の手元を覗き込んで、感心したように言った。便利。道具と同じ扱いだ。隣の戦士が鼻で笑った。
「鑑定くんがいると回復薬代が浮くな」 「たしかに。薬草鑑定もできるし、囮もやるし。コスパ最強じゃん」
笑い声。俺は黙って立ち上がった。折れかけた肋骨が痛む。ヒールリーフの効果で出血は止まったが、骨が繋がるには時間がかかる。 ——コスパ最強、か。 空を見上げた。異世界の空は青い。前の世界と同じ、ただの青だ。 悔しくないと言えば嘘になる。だけど、腐るつもりはなかった。 鑑定で得た知識は、確実に俺の中に積み上がっている。薬草の種類、モンスターの弱点、地形の読み方。今は囮にしか使えない情報かもしれない。でも——いつか、この蓄積が意味を持つ日が来る。 そう信じなきゃ、この世界で立っていられない。
ギルドに戻ると、掲示板の前に人だかりができていた。
「見ろよ、レインがまたやったぞ。B級クエストをソロクリアだと」 「マジかよ。転生してまだ二ヶ月だろ? もうBランクじゃん」
レイン。最初の儀式で『剣聖』を引いた男。同期の転生者で、最も出世が早い。 掲示板に貼られた速報を横目で見ながら、俺は受付に報酬を受け取りに行った。Fランクの囮手当。銅貨数枚。レインの報酬とは桁が三つ違うだろう。 受付嬢が申し訳なさそうな顔で銅貨を並べた。
「カイさん、お怪我は……」 「大丈夫。自分で処置した」 「あの、もし今のパーティが辛いようでしたら——」 「平気だよ」
嘘だ。平気なわけがない。 だけど、ここを離れたら次がない。Fランク、戦闘スキルなし。拾ってくれるパーティなんて他にない。 宿に戻り、固いベッドに横たわる。肋骨が軋んで、寝返りも打てない。天井の染みを数えながら、今日鑑定した情報を頭の中で整理した。 オークロードの突進は、右足を軸にしている。つまり右側に死角がある。次に囮をやるとき、右に回り込めば—— 考えている自分に気づいて、小さく笑った。 囮の精度を上げてどうする。でも、それしかできることがない。 目を閉じる。明日もまた、「鑑定くん」の一日が始まる。
——まだ、この力の本当の意味を、俺は知らなかった。