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宮廷追放の老薬師、辺境で万薬鑑定

第2話 第2話

第2話

第2話

車輪が石を噛む音が、ふいに柔らかい土の音に変わった。

 エルデンはその変化で目を覚ました。三日揺られた馬車の窓から覗くと、石畳はとうに途切れ、轍の深い土道が集落の入口まで続いている。道端には膝ほどの高さの野草が濃く茂り、その葉先を朝露が濡らしていた。指を窓の縁にかけると、木枠の湿り気が掌に伝わった。王都の乾いた建物とは、触れる感触からしてもう違う。

 ラウネ村。

 家々は石と木を組み合わせた素朴な造りで、屋根には苔が乗っていた。朝の煙が煙突から細く立ちのぼり、遠くで鶏が鳴いている。井戸の脇で女が桶を洗っていて、馬車に気づくと手を止めて顔を上げた。好奇と警戒が半分ずつ混じった目だった。御者が手綱を引き、馬車が停まる。

「旦那、着きましたよ。小屋までは、ここから歩いて四半刻ほどで」

 エルデンは膝の革袋を抱え、ゆっくりと馬車を降りた。足の裏に、王都のものとは違う土の感触が伝わる。少し湿って、少し柔らかい。腐葉土の匂いが、空気の中に確かに混じっていた。

 女が近づいてきた。四十がらみの、頰の赤い女だった。

「……旅の方かね」

「いえ。これから、こちらに住まわせていただく者です」

 エルデンが権利書を出そうとすると、女は手を振って止めた。

「ああ、ああ、あんたが宮廷のお薬師様か。話は村長から聞いてる。古い小屋を引き取ってくれるって」

 宮廷、という言葉を女はさらりと使った。敬意も遠慮もなく、まるで隣村の名前でも呼ぶように。エルデンは思わず口元を緩めた。王都を出て三日で、自分の肩書きは確かに軽くなっていた。

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 マーサと名乗った女は、そのまま小屋まで案内してくれた。

 村はずれの丘を少し登ると、灌木に半ば埋もれるように、低い石積みの小屋が建っていた。屋根の半分は藁葺きだったらしい痕跡を残し、残り半分は木板で雑に塞がれている。扉は蔦が絡みつき、窓の木枠は長い風雨で黒ずんでいた。

「十年ほど、誰も住んでねえよ。前の持ち主は薬売りの爺さんでさ」

 マーサが言った。

「その人は、どちらへ?」

「病でね。あの年で一人暮らしは無理だって、娘さんが引き取っていったんだ。それきり戻らなかった」

 エルデンは蔦を払い、扉を押した。鍵はかかっていない。錆びた蝶番が悲鳴に似た音を立て、ゆっくりと開く。

 小屋の中は、思ったより広かった。煤で黒ずんだ暖炉があり、壁際に作り付けの棚があり、埃を被った小瓶がいくつも並んでいた。中身はとうに蒸発して、底に黒い粉が残っているものもある。土間の隅には乳鉢があり、その横に粉挽き用の小さな臼が転がっていた。卓の上には、朽ちた羊皮紙の切れ端。床板のあちこちに、歳月に磨かれたへこみがあり、長年同じ足取りでここを踏み続けた誰かの名残が、浅く残っていた。

 前の薬売りは、確かにここで仕事をしていたのだ。

 エルデンは棚の小瓶を一つ手に取った。ラベルは消えかけているが、指でなぞるとわずかに文字が残っている。「ゲンノショウコ」——腹痛の煎じ薬に使う、ありふれた草だ。宮廷では決して使わない、雑草扱いの草。けれど、こうして手書きの字で瓶に封じられていると、平凡な草が薬であることを、誰かが信じていたのだと分かる。エルデンは小瓶を棚に戻し、そっと指の埃を払った。棚の奥からは、乾いた薬草のかすかな名残——土と、古い蜂蜜と、ほんのひと匙のミントを混ぜたような匂いが立ちのぼり、長く閉じられていた部屋の空気に、静かに輪郭を与えていた。

「裏に畑があるんだ。見てみるかい」

 マーサが外を指した。

 小屋の裏手に回ると、そこには——薬草畑、だったものがあった。

 一面、腰の高さまで雑草が茂っていた。柵はところどころ崩れ、畝の痕も見分けにくい。けれど、エルデンの目はその荒れた緑の中に、確かな規則を見つけた。

 西側の一角に、濃い青の葉がまとまって群生している。ハッカの仲間だ。それを中心に、背の低い白い花が輪を描くように咲いている——ヨモギの一種だろう。さらにその外側に、赤い実をつける灌木。野生化して乱れているが、元の配置はしっかりと残っていた。誰かが、四季と相性を考えて植えた畑だった。配置の間隔に迷いはなく、畝の走る向きは朝日を正面から受けるように整えられている。素人の手ではない、と一目で分かる仕事だった。

 エルデンはしゃがみ込み、雑草の根元を指でかき分けた。土が湿っている。指の腹で土を揉むと、適度な粘りがあった。日当たりのいい斜面、水はけの良い土、風を遮る灌木の並び——薬草を育てるのに、これほど整った土地はそうない。握った土をそっと鼻先に近づけると、森の底にあるような深い香りが立ち、胸の奥がわずかに熱くなった。四十年、石造りの調合室でしか嗅いだことのない種類の匂いだった。

「十年、誰も手を入れてねえはずなんだがねえ」

 マーサが腰に手をあてて、畑を見下ろした。

「雑草の方が強かったか。あんた、片付けるつもりかい」

 エルデンは立ち上がり、腰をさすった。膝がきしみ、息が少し上がっている。四十年、室内の調合台にしか向き合ってこなかった老人だ。畑仕事などしたこともない。この広さを自分一人で整えるには、冬まで時間が足りるかどうかすら分からなかった。それでも——手が、畑の雑草に向かって伸びていた。

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「……まずは、生きているものから探します」

 自分でも思いがけないほど、穏やかな声が出た。

 マーサが少し目を見開き、それから鼻で笑った。嫌味ではなく、面白がる笑い方だった。

「変わってるねえ、宮廷のお薬師様は。昼に芋を茹でるから、腹が減ったら降りといで」

 そう言って彼女は村へ戻っていった。小屋には、エルデンと、風の音だけが残された。

 エルデンは革袋から標本帳を取り出し、小屋の卓に広げた。四十年かけて自分の手で集めた、百二十枚あまりの押し花。宮廷では誰にも見せなかった、個人的な記録だ。端がすり切れた羊皮紙に、若い頃の几帳面な字で「タチアオイ、王都西街道、春」と書いてある。自分の筆跡が若いということが、妙にくすぐったかった。

 外套を脱ぎ、袖をまくり上げた。細い腕の皮膚に、老人斑がまばらに浮いている。この腕で、四十年、王家の命を支えてきた。今日からは、この腕で、自分のためのものを確かめる。

 畑の西側から、ゆっくりと歩き始めた。

 一歩ごとに、雑草の間から顔を出す葉を観察する。ハッカ——間違いない。切り傷の消毒に使える。その根元に這う細かい葉はクマザサの仲間だろうか。煎じれば消化を助ける茶になる。ヨモギの群れの中には、灸に使う種と使わない種が混ざっていた。エルデンは指先で葉を摘み、匂いを嗅ぎ、ときに舌先でわずかに苦味を確かめる。鼻の奥がつんとするハッカの香り、舌にわずかに残る青い苦味——どれも、宮廷の精製炉を通った薬からはとうに抜け落ちていたものだった。

 畑の中央に、膝を折って座り込んだ。

 日が少し傾いた。エルデンは標本帳を膝に開き、この畑で見つけた薬草を一つずつ書き留め始めた。ハッカ、ヨモギ二種、ゲンノショウコ、クマザサ、オオバコ、ドクダミ——いずれも王都の薬師見習いでも知っている平凡な名前だ。けれど、こうして一つの畑に整然と集められているのを見ると、平凡さの総和が、奇妙に頼もしく思えた。

 風が吹いた。丘の下から、麦を焼くような、温かい匂いが立ちのぼってきた。村のどこかで昼の支度が始まっているのだろう。王都の厨房の立派な匂いとは違う、素朴で、正直な匂いだった。エルデンは筆を止め、しばらく目を閉じてその匂いを嗅いでいた。

 四十年、毎日が緊張の中で始まり、緊張の中で終わった。今、自分は畑の土の上に座り、誰の命も預からず、ただ一本の草の名前を書いている。肩の荷が、また一つ軽くなった気がした。

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 やがて立ち上がろうとして、エルデンは土に手をついた。

 その指先が、ふいに冷たい何かに触れた。

 朝露でも、石の滑らかさでもない。もっと繊細で、触れた瞬間に指先がわずかに痺れるような、奇妙な冷たさだった。エルデンは息を詰め、土に這わせた指をゆっくりと動かさずにいた。

 見下ろすと、畑の一番東の隅——雑草の陰に、小さな花が一輪、風にふるりと揺れていた。

 青白い、と言うほかない色だった。花弁は五枚。内側にかすかな乳白色の光を含み、外側にいくほど淡い藍色へ滲んでいく。茎は細く、葉は矢じりのような形をしていた。風が吹くたび、花はふるりと震え、その震え方が、他の野草とはどこか違っていた。まるで風そのものではなく、土の奥から立ちのぼる見えない何かに応えているかのように、ほんの半拍遅れて花弁が揺れるのだ。

 エルデンは息を止めた。

 四十年、あらゆる薬草を見てきた。王都中央書庫の薬草図鑑二十七巻も、見習いの頃にすべて暗記した。だが、この花は——見たことがない。知らない、と言い切れる草に出会ったのは、薬師になって初めてかもしれなかった。

 老人の細い指が、青白い花の花弁に、ゆっくりと伸びていった。

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