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宮廷追放の老薬師、辺境で万薬鑑定

第1話 第1話

第1話

第1話

四十年だ。

 宮廷薬師棟の窓から差し込む朝の光が、調合台の傷だらけの木目を照らしていた。エルデンはその光を眺めながら、自分がこの部屋で過ごした歳月を数えていた。二十歳で宮廷に上がり、六十を迎えた今日まで。棚に並ぶ薬瓶の配置も、石壁に染みついた薬草の匂いも、すべてこの老いた手が作り上げたものだった。

 朝の調合台には、昨夜仕込んだ煎じ薬の残り香がまだ漂っていた。カモミールと甘草の配合——第一王女の不眠に処方したものだ。小瓶に詰めて侍女に渡す手筈になっている。四十年間、毎朝この台の前に立ち、同じ手順で一日を始めてきた。湯を沸かし、乳鉢を温め、その日に使う薬草を棚から取り出す。指の節が曲がり始めてからも、手順だけは変わらなかった。

 扉が開いた。

 新任の宮廷医長ヴェルナーが入ってきた。三十半ばの若い男で、白衣の襟を高く立て、銀縁の眼鏡の奥に感情を見せない目をしている。就任してまだ二月ほどだが、すでに薬師棟の人事を三つ動かしていた。

「エルデン殿。お時間をいただけますか」

 声は丁寧だった。だが、その丁寧さが刃物のように研がれていることを、エルデンは長い宮廷暮らしで嗅ぎ分けられるようになっていた。

「ええ。どうぞ」

 ヴェルナーは調合台の向かいに立ち、一枚の書類を差し出した。

「単刀直入に申し上げます。薬師棟の再編に伴い、あなたの職を解かせていただきます」

 エルデンは書類を受け取った。指先に紙の冷たさが伝わる。王家の紋章が押された正式な辞令だった。紋章の蝋の赤が、朝の光を受けてぬらりと光っている。見慣れたはずのその印が、今日はひどくよそよそしく見えた。

「理由を、伺っても?」

「時代遅れです」

 ヴェルナーは眼鏡の位置を直しながら言った。まるで天気の話でもするように。

「薬草の手練り調合は効率が悪い。王都ではすでに魔導式の精製炉が主流です。エルデン殿の技術は……敬意を込めて申し上げますが、もう宮廷には必要ありません」

 その言葉が空気の中に落ちて、静かに沈んだ。調合台の上に置きっぱなしの乳鉢が、窓からの風にかすかに揺れて、こつりと台を鳴らした。

 エルデンは黙って辞令を読んだ。文面は事務的で、四十年の歳月に対する言葉は一行もなかった。

「退職金の代わりに、辺境の不動産を一件、お渡しします」

 ヴェルナーがもう一枚の紙を差し出す。権利書だった。辺境の村ラウネにある小屋の所有権。地図で見たこともない場所だ。

「王家の温情と受け取っていただければ」

 温情。エルデンはその言葉を、口の中で転がした。四十年間、一度の調合ミスもなく王家に仕えた男に渡されるのが、辺境の荒れ小屋ひとつ。温情という言葉の、なんと軽いことか。

 しかし——不思議なことに、怒りは湧かなかった。

 ヴェルナーが部屋を出ていった後も、エルデンはしばらく調合台の前に立っていた。陽が少し高くなり、窓から差し込む光の角度が変わっている。棚の薬瓶のひとつに光が当たり、琥珀色の液体が内側からぼうっと輝いた。王妃の偏頭痛用に調合した鎮痛薬だ。あれの配合比を正確に再現できる人間は、この宮廷にはもういない。だがそれを惜しいとは思わなかった。正確に言えば、思えなかった。四十年かけて磨いた腕が不要だと告げられた瞬間、心のどこかで、とうに準備はできていたのだと気づいたのだ。

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 宮廷を出たのは、その日の午後だった。

 荷物は驚くほど少なかった。着替えが二着、使い慣れた乳鉢がひとつ、薬草の乾燥標本を収めた革袋がひとつ。四十年という時間の割に、私物と呼べるものがほとんどなかったのだ。宮廷の備品を使い、宮廷の薬草を扱い、宮廷の時間を生きてきた。自分のものは、この皺だらけの両手くらいのものだった。

 薬師棟の廊下を歩くとき、すれ違った若い薬師見習いが足を止めて頭を下げた。何か言いたげに口を開きかけたが、結局は唇を引き結んで目を伏せただけだった。エルデンは軽く頷き、そのまま歩き続けた。引き留める言葉など、誰にも言えるはずがない。ヴェルナーの人事に異を唱えることが何を意味するか、宮廷で働く者なら分かっている。

 宮廷の正門をくぐるとき、衛兵が一人、黙って敬礼をした。顔に見覚えがあった。十年ほど前、この男の幼い娘が高熱を出したとき、夜通しで解熱薬を煎じたことがある。衛兵は何も言わなかったが、その目が多くを語っていた。エルデンは小さく頭を下げ返し、門を抜けた。

 辻馬車に乗り込み、王都の石畳が遠ざかっていく。

 窓の外を流れる景色を眺めながら、エルデンはふと気づいた。肩が、軽い。

 宮廷薬師の仕事は、外から見れば華やかだった。王族の薬を調合する名誉ある職。だが実際は、毎夜の毒見、貴族たちの疑心暗鬼に応える解毒薬の常備、一粒の調合ミスが反逆罪になりかねない緊張の連続だった。夜中に叩き起こされることも珍しくない。第二王子が腹痛を訴えれば、毒殺の疑いがかかるのはまず薬師だ。潔白を証明するまでの数日間、地下の取調室で過ごしたこともある。

 あの重圧から、解放された。

 馬車は王都の外壁を抜け、街道に出た。麦畑が広がり、やがて丘陵地帯に差しかかる。見慣れた王都近郊の風景が、少しずつ変わっていく。畑の区画が大きくなり、人家がまばらになり、道の両脇に背の高い草が増えてきた。

 エルデンは革袋を膝の上に置き、乾燥標本を一枚取り出した。タチアオイの葉。二十年前に自分で採取し、押し花にしたものだ。縁が少し欠けているが、葉脈の模様ははっきりと残っている。

 この標本帳だけは、持っていこうと思った。宮廷の備品ではなく、自分の手で、自分の好奇心で集めたもの。誰に命じられたわけでもなく、休日のわずかな時間に野山を歩いて採った草花たち。

 考えてみれば、あの時間だけが本当に自分のものだった。

 馬車が揺れる。御者が「辺境まではあと三日ほどですよ」と声をかけてきた。エルデンは標本を革袋に戻し、窓の外に目をやった。

 陽が傾き始めていた。丘の向こうに夕焼けが広がり、空の端が橙から紫へと滲んでいく。街道沿いの木々が長い影を落とし、その影の中を風が通り抜けていった。

 悔しくないのか、と自分に問うてみる。

 四十年だ。人生の大半を捧げた場所から、紙切れ一枚で追い出された。怒って当然だろう。けれど、胸の底にあるのは悔しさではなかった。あの調合台の前に立ち続ける日々が、もう来ないのだという事実が——正直に言えば、ほっとしていた。

 誰かの命を預かる重さから、ようやく降りられた。

 それは敗北かもしれない。逃避かもしれない。六十年を生きた老人が、四十年の仕事を失って安堵するなど、情けないと思う者もいるだろう。

 だが、エルデンは静かに目を閉じた。馬車の振動が心地よかった。宮廷では眠れない夜ばかりだったのに、今はまぶたが自然と重くなる。こんなに穏やかな気持ちで眠りに落ちるのは、いつ以来だろう。

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 三日目の朝。

 馬車が峠を越えたとき、景色が一変した。

 王都周辺の整然とした農地とは違う。山あいの斜面に沿って、名も知らぬ草花が好き勝手に咲き乱れていた。白、黄、薄紫——色とりどりの野草が、朝露を纏って光っている。道の脇には背丈ほどもある灌木が茂り、その枝葉の隙間から朝日が細い筋となって差し込んでいた。

 エルデンは思わず窓から身を乗り出した。

 風が変わっていた。王都の乾いた石の匂いではない。土と、草と、水の匂い。そしてその奥に、嗅いだことのない——甘いような、苦いような、どちらとも言い切れない不思議な草の香りが混じっている。

 四十年、あらゆる薬草を扱ってきた鼻が、知らないと告げている。

 エルデンの指先が、膝の上でかすかに動いた。薬草に触れるときの癖だ。四十年の習慣が、意識より先に身体を動かす。

「旦那、あの山並みの向こうがラウネですよ」

 御者が鞭の先で前方を指した。朝もやの中に、小さな集落の屋根がいくつか見える。その背後に、深い緑の山々が連なっていた。

 エルデンは深く息を吸い込んだ。知らない匂いが、肺の奥まで満ちていく。

 六十年の人生で、初めて降り立つ土地。何が待っているかも分からない。けれど、あの匂いの正体を確かめたいという気持ちが、老いた薬師の胸にじわりと広がっていた。小さな、けれど確かな好奇心。宮廷での四十年間、いつの間にか忘れていたものが、辺境の朝風の中で目を覚まそうとしていた。

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