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鑑定・劣と呼ばれた俺の成り上がり

第3話 第3話

第3話

第3話

石畳に頬骨が食い込む感触で目が覚めた。

左の肩甲骨から首筋まで、筋が一本、縄で絞られたように固まっている。指を動かすと、冷気が関節の隙間に溜まっていて、骨が軋んだ。吐いた息が白く散って、上着の襟の上で崩れた。

夜明け前だった。路地の向こうの空が、墨汁を薄く溶いたような深い青に変わっている。三人組の先輩たちはもういなかった。鼾をかいていた男の居場所にだけ、石畳に人型の温気の染みが残っていて、その縁に霜が降りかけていた。

起き上がろうとして、下腹が鳴った。昨日の串焼き一本では、朝を迎える燃料にならなかったらしい。

懐からギルドカードを抜いて確認する。夜露で曇った金属板。『女神の隠し祝福:未解放』——昨夜浮いて見えた文字は、今朝はただの彫り込みに戻っていた。指の腹でなぞっても凹凸はない。錯覚か、光の角度の問題か、どちらでもよかった。

問題は、今日の宿代だ。

銅貨一枚。買える飯は、昨日と同じ串焼き一本。

立ち上がると、膝の裏の筋に、寝違えの痛みが刺さった。靴底の革が冷え切って、石畳の冷気がそのまま足裏を通り抜けてくる。社畜時代の早出と同じ温度だ。駅のコンコースで始発を待つ、あの足裏の冷え。ここが異世界であることを、身体のほうが拒んでいる。

大通りに出ると、露店が動き始めていた。魚を並べる老婆、パンを焼く若夫婦、鉄を打ち始める職人。朝焼けの斜めの光が、それぞれの手仕事に淡い影を貼りつけている。土と、麦と、炭と、汗。働く人間の朝の匂いだ。

——悪くない、異世界。俺を含めなければ。

ギルドの建物が見えた。昨日と同じ剣と盾のエンブレム。扉は半分だけ開いていた。朝イチで依頼を物色する早出組のためだ。俺もそちら側だった。

依頼掲示板は、入り口の左手にあった。

分厚い樫の板に、羊皮紙が何十枚と釘で打ちつけてある。インクが色褪せた古い紙と、昨日貼り出されたばかりの白い紙が混ざっていた。

端から目を走らせる。

『薬草採取(初心者向け)/銅貨八枚/日帰り』 『ドブネズミ駆除/銅貨六枚/半日』 『荷車押し補助/銅貨五枚/一日』

この辺が、Fランクに開かれている仕事だ。昨日の受付嬢の、口元の震えを思い出す。鑑定・劣と紙に書かれた瞬間の、あの反応。今日もまた浴びる覚悟はできていた。

薬草採取の紙を釘から外す。羊皮紙自体を鑑定すると『羊皮紙/品質:中/食用不可』とだけ返ってきた。食用不可の項目が常時走っているらしい。ゴミスキルの割に、仕事熱心ではある。

受付カウンターには、昨日の女性職員が座っていた。茶色い髪を後ろで束ねている。俺の姿を認めると、一瞬だけ表情が止まった。昨日の記憶は、確実に残っている。

羊皮紙を差し出した。

「これを」

彼女は受け取り、名簿と照合する手つきで俺のギルドカードを取った。そのまま、三秒ほど黙った。

「……八神さん」

「はい」

「この依頼、場所が王都東の森なんですが」

「地図があれば何とかなります」

「地図は銅貨二枚です」

銅貨一枚しかない。黙っていると、彼女は察したようだった。察したうえで、言葉を選んだ。

「あの、失礼ですが、鑑定・劣だと、このお仕事、お命に関わるかもしれません」

「森にそんな危険が」

「薬草と毒草の区別がつかないと、誤って毒草に触れただけで手が腫れ上がります。鑑定・中以上を持っていれば判別できるんですが——」

言葉を濁して、彼女は俺のステータス欄を指先でそっと叩いた。爪の先が『劣』の一文字を正確に指していた。指の腹で隠せば消える、小さな一文字。

「初めての方は、パーティーで経験者に同行していただくのが普通です」

「単独は」

「おすすめしません」

柔らかい声。だが内容は、昨日の神崎とまったく同じ結論に落ちる。あちらは切る側の論理、こちらは殺さない側の配慮。どちらも行き先は同じだ。お前はまだ現場に出るな。

「……次を」

『ドブネズミ駆除』を差し出す。旧市街の下水道。

職員は、また首を横に振った。

「下水道は暗くて、索敵の弱い方だと敵の接近に気付けないんです。ネズミの巣に踏み込んだ瞬間に囲まれます」

『荷車押し』を差し出す。

「これは、パーティー単位の雇用なので、個人登録のFランクは受けられないんです。手配師の隊列に入る形になるので、身元保証人が——」

「身元保証人の手配は」

「銅貨十枚からです」

詰んだ。

持っていない金を要求され、出せない金額のために窓口で頭を下げる。前世で、経理部に交通費の立替精算を突き返されたときと同じ構造だった。『先月分の期限を三日過ぎています』『規程上、承認できません』『課長の決裁をもう一度』——ルールはいつも正しく、弾かれるのはいつも俺だった。

職員は申し訳なさそうに、カードを返した。

「他の方法も、お探しします」

「自分で探します」

声が少し硬くなった。怒りじゃない。情けをかけられることへの、反射的な逃げだ。使えない人間として丁寧に扱われる時間が、一番こたえる。殴られるより、笑われるより、それが一番。

掲示板に戻り、もう一度、端から見直した。

さっき飛ばした列の羊皮紙が、妙に黄ばんでいる。打ちつけた釘の頭が錆びていて、ここ数週間——いや数ヶ月——誰にも剥がされていない依頼群だった。

『護衛依頼/商隊補佐/銀貨三枚』——Dランク以上。無理。 『魔物討伐(ゴブリン小隊)/銀貨五枚』——同上。 『採取依頼(月光苔)/銀貨二枚/夜間/単独不可』——夜間、単独不可。

一枚ずつ弾いていく。羊皮紙の表面を指でなぞると、インクが薄れた箇所だけ紙の繊維がざらついた。文字の彫刻が、時間で削られていくのが見えるようだった。

掲示板の一番下。釘の錆が板に赤黒い染みを作っているあたりに、他と違う色の紙が一枚だけ貼ってあった。白くもなく黄色でもなく、生成りのまま乾ききって、縁がぱりぱりに反り返っている。

指で取り上げる。乾いた紙が指先を微かに切った。唇に持っていくと、鉄の味がした。

『廃坑調査/東郊旧鉱脈/銅貨四枚+発見素材持ち帰り可/単独可/Fランク以上』

銅貨四枚。異様に安い。だが、単独可。Fランクでも受けられる。

場所は王都の東。廃坑。

鑑定してみた。

『依頼書/品質:劣/発行日:三ヶ月前/受注履歴:ゼロ/再発行回数:十二回』

三ヶ月、十二回の再発行。誰一人取らなかった依頼。

——理由があるに決まっている。

掲示板の横を通りかかった男が、俺の手元を見て、足を止めた。革鎧の胸にCランクのギルドバッジ。三十代半ば、無精髭。

「あんた、それを取るのか」

「まだ決めてない」

「やめとけ。三ヶ月前にゴーレムの目撃報告が出て、討伐隊を送ったら消耗率が高すぎて撤退した場所だ。だから誰も取らない」

「ゴーレム」

「多分、暴走個体。制御核が何かで狂ってる。あの中は、生きて出られたら幸運くらいの場所だよ」

男は俺のカードを横目で見た。Fの一文字。鼻を鳴らしたが、嘲笑ではなかった。同情と諦めの中間のため息だった。

「金がないなら、日雇いのほうだ。ギルド裏手の手配所」

「日雇いの相場は」

「一日、銅貨三枚。飯つき」

「……三枚」

「喰って寝る最低ラインだ。夢は見るな」

男はそう言って、別の依頼書を剥がして受付に向かった。背中のプレートメイルに、昨夜の夜露の跡が残っていた。朝イチで出てきて、昨晩は外泊だったらしい。働く側の背中だ。俺と同じ側の、少しだけ先にいる背中。

廃坑の依頼書を、掲示板に戻そうと手を伸ばした。

戻そうとして、止まった。

銅貨一枚。宿代まで四枚不足。日雇いなら二日で銅貨六枚。その二日を、どこで寝て、何を喰う。路地で寝れば雨でやられる。喰わなければ倒れる。倒れれば、日雇いの列にも並べない。

廃坑なら銅貨四枚プラス素材。ゴーレム云々は三ヶ月前の目撃情報で、今もいるとは限らない。いなければ、鑑定で内部を漁って、使える鉱石でも見つければいい。鑑定・劣でも、鉱物の品質程度は見えるはずだ。

そこまで考えて、自分の思考回路が、前世で案件を捻じ込まれたときと寸分違わない形をしていることに気づいた。『やります』しか選べない状況を、『やる理由』に翻訳して自分を納得させる作業。社畜の思考癖は、死んでも抜けないらしい。

掌の中で、依頼書の紙が湿った。汗だ。指の股の、一番温度が上がる場所から、紙の繊維に吸われていく。ゴーレムの文字のあたりに、ちょうど指の跡が滲んで残った。

——切られるのが嫌なら、切られない場所を選ぶしかない。

その場所が、廃坑だ。

受付カウンターへ戻った。

昨日の女性職員ではなく、別の老齢の男性職員が座っていた。髭に白いものが混じっている。俺が廃坑の依頼書を出すと、眼鏡のふちを一度だけ押し上げた。驚いた顔はしなかった。十二回再発行された紙が剥がされることに、慣れていないだけの顔だ。

「単独ですか」

「はい」

「承知しました」

止めなかった。年齢のぶんだけ、人の事情を知っているのかもしれない。あるいは、止めても無駄な種類の顔を、今の俺がしていたのかもしれない。

カードに受注記録が刻まれる。ペン先が金属を擦る、ざり、という音だけが、やけに耳に残った。

「出発は」

「今から」

「東門から街道沿いに二刻。途中で枝道を北へ。道標は、錆びた剣が刺してあります」

「ありがとうございます」

カードを受け取り、ギルドを出た。朝日は完全に昇っていた。石畳の端に、溶けた霜の細い水筋が走っている。

東門へ歩きだす。靴の踵が石畳を叩くたび、懐のギルドカードが肋骨に軽く当たった。

その感触だけが、今日の俺の持ち物の全部だった。

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