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鑑定・劣と呼ばれた俺の成り上がり

第2話 第2話

第2話

第2話

ギルドの扉を閉めた瞬間、背中で笑い声がどっと膨らんだ。神崎たちじゃない。他のテーブルの冒険者たちだ。「ハズレだってよ」「鑑定・劣って実在すんのか」——石造りの天井に跳ね返って、二重三重になって耳の裏まで届いた。

悪意はない。ただの酒の肴の雑談だ。社畜時代、隣の席で飛び交う噂話を背中で聞いていたあの感覚と同じだ。話題に上がるということは、公開処刑されるのと同じ意味だった。

夕陽が石畳を赤く染めていた。馬糞と土埃が混じった匂いが鼻を刺す。俺の影だけ、妙に痩せて見える。

歩きだして五歩目で、腹が鳴った。

最後に口にしたのは、昨日の午前三時のコンビニおにぎり——ツナマヨ。デスクで片手で食ったあれだ。異世界に来てまで前世と同じ空腹を引きずっているのが、馬鹿馬鹿しかった。

ポケットを探る。ギルド登録時に「最低限の手付金です」と押しつけられた銅貨が三枚。哀れみか規則かわからない。どっちにしろ、今の俺にはありがたかった。

——銅貨三枚。

受付近くに貼られていた料金表が頭に浮かぶ。素泊まり銅貨五枚。一番安い宿でそれだ。二枚足りない。

空を見上げると、雲が薄く流れていた。雨は降らなさそうだ。前世で始発までオフィスのソファで寝た夜を思い出す。あれよりは、星が見えるぶんマシだろう。

路地を一本入った。ギルドの騒ぎから離れたかった。石畳の継ぎ目が不揃いで、革底の薄い靴では踵が引っかかった。

裏通りは昼と夜の境目で、露店が店じまいを始めていた。

革エプロンをつけた若い男が、台から串焼きを下ろしている。焦げたタレと脂の匂いが夕風に乗って、鼻を刺した。つばが湧く。

「これ、一本いくらですか」

「……あんた、冒険者か?」

男は俺のギルドカードを一瞥し、露骨に眉をひそめた。

「Fランクな。悪いがツケは断る」

「現金で払います」

「銅貨二枚」

高い。相場は知らないが、足元を見られているのは肌でわかる。前世で見下した業者に吹っかけられたときと同じ感覚だ。

「一本ください」

銅貨を渡すと、串焼きが押しつけられた。鶏肉らしき塊が三つ、香ばしく焼けている。

試しにスキルを発動してみる。

——【鑑定】。

視界の端に薄い文字が滲んだ。

『不明な鳥の肉。品質:低。食用可。』

これだけ。品種すら出ない。百円ショップの食品表示のほうが情報量がある。

「……とんだゴミだな」

口に放り込むと、予想より脂が強かった。肉の繊維が固い。タレで誤魔化してある安物だ。鑑定なんか使わなくても、一口噛めばわかる情報だった。

飲み込んで息を吐く。温かいものを腹に入れるのは、死ぬ前日以来だった。

歩き続ける。銅貨は残り一枚。

裏通りの突き当たりに、ぼろぼろの看板が出ていた。『安宿 銅貨四枚』。ギルド近くより一枚安い。

木戸を押すと、大柄な女主人が顔を上げた。

「部屋は?」

「銅貨一枚しかない」

「なら出てけ」

一秒で終わった。

「廊下の隅でいい」

「うちは慈善事業じゃないんだよ」

女主人は分厚い手で俺の肩を押し、扉の外に戻した。木が擦れる鈍い音がした。蝶番の油が切れていて、戸を閉める最後のひと押しで、ぎい、と耳障りな悲鳴を上げた。その音だけが、今夜の俺への返事の全部だった。

路地に戻ると、壁際に三人、似たような格好の男たちが座り込んでいた。革鎧が古びて、目が濁っている。Fランクの先輩たち、らしい。鎧の胸当ては擦り切れて革の繊維が毛羽立ち、縫い目の糸が黒ずんでいた。誰かの使い古しを何度も回して着ているのが、ひと目でわかった。

そのうちの一人が、俺のギルドカードを覗き込んで、乾いた笑いを漏らした。

「おう新人。ようこそ底辺へ」

「……ここで寝るのか」

「雨が降らん限りはな。降ったら橋の下だ」

歯の欠けた口で男は笑った。悪意はない。事実説明だった。奥歯が二本抜けていて、笑うと口の暗がりがそのまま見えた。歯茎は黒ずんで、息にはかすかに酒と胃液の匂いが混じっている。何日も風呂に入っていないのだろう、汗と土と、饐えた革の臭いが、座り込んだ三人分、層になって壁際に溜まっていた。

「スキルは」

「【鑑定・劣】」

「あー」

男の表情が、同情と諦めの中間で止まった。頬の肉が緩んで、眉尻が下がる。笑うでも泣くでもない、長く使い込まれた表情筋の、定位置の顔だった。

「兄ちゃん、俺たち三人、【採取・劣】【索敵・劣】【遠視・劣】な。全員、来月には死ぬか街を出るかだ」

笑って言うのが一番きつかった。前世で、使い潰されて辞めていった同期たちの最終日を思い出す。皆、あの笑い方をしていた。送別会の席で、ビールの泡を指でつつきながら、「まあ、身体壊す前に抜けられてよかったよ」と、半笑いで言うあの顔。

石畳に腰を下ろす。尻に冷たさが刺さった。角張った石が、ワイシャツ越しに尾てい骨を抉る。昼の熱の残りはもうどこにもなく、石は夜の底の温度まで冷え切っていた。湿気がズボンの尻から吸い上がってきて、肌に貼りつく。

「神崎たちのパーティー、向かいの酒場ですげえ騒いでるらしいぞ」

【遠視・劣】の男が、酒場のほうを顎で示した。髭の生え際がまばらで、顎の線に沿って白いものが混じっている。三十そこそこに見えるのに、老人のような肌をしていた。

「お前、同期なんだろ。切られたんだって?」

「……耳が早いな」

「狭い街だよ」

目を閉じた。疲労はあるのに眠気は来ない。社畜時代と同じだ。身体は限界なのに、頭だけが冴えている。瞼の裏で、蛍光灯のちらつきと、キーボードを叩く指先の音が、遠くから近くへ何度も寄せては返した。

どれくらい経ったか。

路地の奥から、陽気な騒ぎが漏れてきた。向かいの酒場だ。扉が開くたびに、歓声と酒の匂いが路地に滑り込んでくる。麦の焦げた匂いと、甘い果実酒の匂いが混ざっていた。どちらも、今の俺には遠い食卓の匂いだった。

立ち上がる。膝が軋んだ。

酒場の横壁に身体を寄せた。窓は厚手の曇りガラスで、中の影だけがぼんやり見える。中央のテーブルを五つの影が囲んでいた。神崎たちだ。ガラスの向こうで、蝋燭の炎が揺れるたび、影の輪郭が伸びたり縮んだりした。

戸の隙間から声が漏れてきた。

「あのハズレ、なんでわざわざ話しかけてきたんだ?」

椎名の声だ。【炎帝魔法】。クラスで一番声がでかかった男。

「同情してほしかったんだろ」

神崎。

「足手まといじゃん。連れて行ったら夜の見張りもまともにできない」

朝比奈の声。【風刃】。高校時代、俺が消しゴムを落としたとき拾ってくれたことがあった。覚えているのは俺だけらしい。

「最初が肝心だもんな。甘やかすと連鎖する」

神崎がグラスを置く音がした。こつん、と硬い音だ。

「会社と同じだよ。使えない奴は最初に切る。長引かせるほうが残酷だ」

——会社、か。

胸の奥が、じわりと冷えた。内臓のどこか、名前のない場所に、細い針を落とし込まれたような感触だった。

神崎は十八歳で異世界に来たはずだ。なのに口調が完全にあの頃の俺の上司だった。転移しても、切る側の語彙だけはどこまでも同じらしい。切られる側の語彙は、きっとどこの世界にもない。沈黙しか用意されていない。

指先がぴくりと動いた。

——【鑑定】。

曇りガラス越しに神崎の輪郭を狙ってみた。距離があれば発動しないかと思ったが、文字が滲んで現れた。

『神崎隼人/男/18/HP:高/MP:高/スキル:聖剣/疲労度:高/空腹度:低/不明要素:あり』

「……疲労度?」

そんな項目、自分のステータスには出ていない。ゴミスキルだと思っていた【鑑定・劣】が、他人には別の情報を返す。自分に向けたときは名前と劣化スキルしか映さなかったあの窓が、他人を覗いたときだけ、内臓の温度まで刻んで寄越す。

『不明要素:あり』——これは何だ。

おそらく【聖剣】の詳細そのもの。最下位スキルで上位存在の核心まで見えないのは、ゲームのルールとしては筋が通っている。

だが疲労度は見えた。空腹度も。

社畜時代、俺が唯一まともに評価されたのは、上司のスケジュールと機嫌の相関を三ヶ月分エクセルで管理したときだった。「便利な道具」扱いだったが、少なくとも切られはしなかった。月曜の午前は決裁が通らない、金曜の夕方は雑談が通る、前日の会食が長引いた日は朝イチの稟議を避ける——そんな当たり前の観察を、誰もやっていなかっただけだった。

観察と集計。前世のキャリアで唯一の強みだったそれが、ここでも武器になる可能性はある。

ガラス越しに、神崎がまた笑った。疲労度:高。無敵の聖剣持ちでも、人間の身体には限界がある。笑いながら、グラスを持つ手の動きが、ほんのわずかに遅れていた。酔いではない。積層した疲労の、最初の兆候だった。前世で何度も見た、折れる直前の人間の動きだ。

酒場の扉が開いた。酔った冒険者が二人、肩を組んで出てきた。俺を一瞥すると、汚物を見るような顔をして、路地のほうへ唾を吐いた。

唾が石畳で跳ねた。月明かりにぬらりと光って、継ぎ目の窪みに溜まっていく。

俺は一歩下がった。殴り返す権利はあった気もするし、なかった気もする。どちらでもよかった。

疲労度を確認しただけの自分がやけに落ち着いていることに気づいて、少しだけ笑った。前世の俺なら、ここで拳を握って、握ったまま眠れなくなっていたはずだ。

路地の元の位置に戻る。三人組はもう眠っていた。鼾が二人分、規則正しく交差している。残りの一人は、目を開けたまま壁に凭れて、夜空のどこか遠い点を見つめていた。眠れない側の人間の目だった。俺のそれと、たぶん同じ色をしている。

石畳に腰を下ろし、壁に背を預けた。ギルドカードを懐から取り出す。

夜露で濡れた表面に、月明かりが白く反射した。

刻まれた文字が、ひとつだけ、半歩浮いて滲んで見えた。

『女神の隠し祝福:未解放』

スキル欄でもない。称号欄でもない。指でなぞると、表面はただの冷たい金属で、凹凸はなかった。

「……気のせいか」

カードを懐に戻す。明日の朝一でギルドの依頼掲示板を確認する。神崎たちが絶対に取らない最低ランクの仕事を一つ選ぶ。それで銅貨五枚を稼いで、今夜と違う屋根の下で眠る。

そこまで決めて、目を閉じた。

瞼の裏で、さっき見た『疲労度:高』の白い文字が、何度も明滅していた。

冷えた風が路地を吹き抜け、懐のギルドカードが微かに温かくなった。

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