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鑑定・劣と呼ばれた俺の成り上がり

第1話 第1話

第1話

第1話

死んだな、と思った。

終電のホームで意識が途切れる直前、最後に見えたのはスマホの画面だった。午前三時十二分。未読のチャットが四十七件。全部、明日の朝までに対応しろという上司からのメッセージ。

画面の光が妙に眩しかった。蛍光灯がとっくに消えた深夜のホームで、スマホだけが青白く顔を照らしている。冷たい風がコートの隙間に入り込んで、汗で湿ったワイシャツが肌に張り付いた。どこかで終電の発車ベルが鳴っている。遠い。すごく遠い。

膝から力が抜けた。ホームのベンチに倒れ込んだのか、それとも地面だったのか。背中にコンクリートの冷たさを感じた気がしたが、もう確かめる余裕はなかった。

——もう、いいか。

三十年間の人生で、誰かに必要とされた記憶がない。実家は高校で出た。会社では替えの利く歯車。恋人なんていたこともない。八神蓮という人間が消えても、世界は一ミリも困らない。

そんな自嘲が最後の思考だった。

目を開けると、白かった。

壁も床も天井もない。上下の感覚すらあやしい、ただ真っ白な空間。立っているのか浮いているのかもわからない。だが不思議と恐怖はなかった。過労で麻痺した感情が、死んでもなお鈍いままらしい。

音がなかった。完全な無音。会社では常に誰かのキーボードの打鍵音か、電話の着信音か、上司の舌打ちが耳にあった。それが全部消えている。この三十年で一番静かな場所だ、と思った。

「ようこそ、八神蓮さん」

声は正面から聞こえた。

振り向くと——いや、最初からそこにいたのか。白いローブを纏った女性が微笑んでいた。金色の髪が腰まで流れ、瞳は宝石みたいに青い。人間じゃない。直感でわかる。

彼女の周囲だけ、空気の質が違った。温かくて、かすかに花の香りがする。名前のわからない花。少なくとも、オフィスの空調が吐き出す埃っぽい空気とは別の世界のものだった。

「あなたは死にました。過労による心不全です」

「……知ってます」

「淡々としていますね」

「慣れてるんで。理不尽には」

女神——そう名乗った彼女は、くすりと笑った。悪意のない笑い方だった。少なくとも、上司のそれよりはずっとマシだ。

「本題に入りましょう。あなたを異世界に転移させます。新しい人生です」

「選択権は」

「ありません。もう死んでいますので」

「ですよね」

交渉の余地なし。まあ、ブラック企業と同じだ。条件を呑むしかない。

「転移にあたり、スキルを一つ差し上げます。これはあなたの適性に基づいて自動で決まるものなので、選ぶことはできません」

女神が右手を掲げると、空中に光の文字が浮かんだ。

——【鑑定・劣】。

「……劣?」

「はい。鑑定系スキルの最下位互換です。対象の基本情報を、かなり曖昧な精度で読み取れます」

「かなり曖昧」

「ええ。正直に申し上げると、あまり……その、実用的ではないかもしれません」

女神の表情がわずかに曇った。気まずそうだ。社畜三十年、上司が「ちょっと厳しいかも」と言ったら「完全に無理」の意味だと学んでいる。つまりこのスキルは、ゴミだ。

「まあ、いいです」

「……怒らないのですか?」

「怒る体力がないんです。十年くらい前から」

女神が一瞬、泣きそうな顔をした。青い瞳の縁に光が溜まったのが見えた。神ですら哀れむ人生か、と思うと、むしろ少し可笑しかった。

「——では、転移を開始します。どうかご武運を、蓮さん」

光が身体を包む。視界が白に溶けていく。

最後に女神の唇が動いたのが見えた。何か言っていた気がするが、音は届かなかった。

石畳の冷たさで意識が戻った。

「……っ」

背中が痛い。全身が軋む。目を開けると、青い空と見慣れない建物の屋根が見えた。中世ヨーロッパ風の街並み。行き交う人々の服装も、馬車も、露店も、全部がファンタジーだ。

異世界、本当に来たらしい。

空気が違う、と最初に思った。排気ガスもビルの谷間の淀みもない。風が草と土と、どこかのパン屋の焼きたての匂いを運んでくる。肺に入る空気がやけに軽い。三十年間吸ってきたものとは根本的に違う何かが、身体の内側を洗い流していくような感覚があった。

身体を起こすと、視界の右端に半透明のウィンドウが浮かんでいることに気づいた。

ステータス画面。ゲームで見るあれだ。

名前:八神蓮 年齢:30(転移時) ランク:なし スキル:【鑑定・劣】 称号:なし

「……本当にこれだけか」

HP、MP、攻撃力、防御力。全部が平均以下の数値だった。前世のスペックがそのまま反映されたんだろう。運動不足の社畜に何を期待しているのか。

立ち上がり、周囲を見渡す。大通りの先に、ひときわ大きな建物がある。看板には剣と盾のエンブレム。冒険者ギルド——たぶん、あそこに行けばいい。異世界転移もののテンプレなら、まずギルドだ。

歩き出す。石畳を踏む靴の感触が妙にリアルで、これが夢じゃないことを嫌でも教えてくれる。

ギルドの扉を押し開ける。重い木の扉で、取っ手の鉄は使い込まれて黒光りしていた。中は酒場を兼ねた広い空間で、革鎧や武器を身につけた男女がテーブルについていた。空気が重い。汗と鉄と、かすかに血の匂い。

何人かがこちらを見た。値踏みするような視線。武器も鎧もない、くたびれた服装の男が入ってきたのだ。一瞬の注目のあと、興味を失ったようにそれぞれの酒杯に目を戻す。その反応も知っている。新人が部署に挨拶に来て、三秒で忘れられるあの感じだ。

受付カウンターに向かう。座っていた女性職員に「登録したい」と伝えると、差し出された水晶に手を触れるよう言われた。水晶が淡く光り、俺のステータスが紙に転写される。

女性職員がそれを手に取り——一瞬、目を見開いた。

それから、口元を手で隠した。

笑っている。

「あ、あの……【鑑定・劣】ですか。えっと、その……頑張ってくださいね」

声が震えていた。笑いをこらえる震えだ。

知ってる。この反応は知っている。新人時代、配属先の部長に「君のスキルシートちょっと寂しいね」と苦笑いされたあの感覚と、まったく同じだ。

「登録は完了です。Fランク、最低ランクからのスタートになります」

「わかりました」

「あの、本当に冒険者を? 鑑定・劣だけですと、正直その——」

「他に選択肢がないので」

前世と同じ台詞だな、と思った。

ギルドカードを受け取り、カウンターを離れる。その瞬間、背後のテーブルからどっと歓声が上がった。

振り返ると、五人の若者が立ち上がっていた。全員、見覚えがある。

同時に転移してきた——元クラスメイトたちだ。

中心にいる長身の男が、剣を高々と掲げた。刃が金色に輝いている。

「俺のスキルは【聖剣】だ! Sランク適性、間違いないだろ!」

神崎隼人。高校時代のクラスの中心。スポーツ万能、成績優秀。あの頃から、こいつはいつだって主人公だった。

周囲のギルド職員まで拍手している。他のクラスメイトも次々にスキルを披露していた。【炎帝魔法】、【風刃】、【鉄壁】——どれもAランク以上の適性だと、ギルドが沸き立つ。

さっき俺を見て笑いをこらえていた受付の女性が、神崎たちには頬を紅潮させて見入っている。同じ転移者でも、ここまで扱いが違う。まあ、前世でも同じだった。社内表彰される同期の隣で、俺はいつも拍手する側だった。

「パーティー組もうぜ! 全員Aランク以上だし、最初からBランク依頼いけるだろ」

神崎がそう言ったとき、こちらに気づいた。

「あれ、八神? お前も転移してたのか。スキルは?」

「……鑑定・劣」

場が静まった。

二秒。たった二秒の沈黙で、全部わかった。

「悪いけど、足手まといは連れていけない。死なれたら寝覚めが悪いしな」

神崎は悪気なくそう言った。本当に悪気がないのだ。合理的な判断として切り捨てている。

「わかってる」

俺はそう答えて、背を向けた。

ギルドを出る。夕暮れの王都は赤く染まっていた。

異世界に来ても、何も変わらない。使えないと判断された瞬間に、人は切り捨てられる。会社でも、ここでも。構造は同じだ。

——それでも、生きるしかない。

死んでも生き返らされるなら、今度はせめて自分の足で立つ。

ポケットの中でギルドカードが微かに温かった。その表面に刻まれたステータスの最下段——蓮自身がまだ気づいていない一行が、夕陽を受けてかすかに光っている。

『女神の隠し祝福:未解放』

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