第3話
第3話
街道の土が、少しずつ柔らかくなってきた。
オスト村を発って半日。地平線に滲んでいた緑の影は、今や頭上を覆うほどの高さで聳えている。朧ヶ森の外縁。道は森の入口で緩やかに曲がり、木々の間を縫うようにして南へ続いていた。
レンは杖を握り直し、一度立ち止まった。革鞄の紐を肩の上で掛け直す。ふいに、鞄の軽さが気になった。
持ち重りしない。
三年間、パーティの共有荷物を運ばされていた。予備の回復薬、予備の食料、予備のロープ、予備のランタン、予備の毛布、予備の天幕——「支援術師は後衛で暇だろう」の一言で、荷物持ちは常にレンの役目だった。肩には絶えず二十キロ近い負荷がかかり、鎖骨の上の皮膚は、革紐の跡で常に赤く擦れていた。革紐の痕は、風呂に入るたびに沁みた。湯に浸かると、擦過傷の縁に残った塩気がちりちりと疼き、三年経つうちに、その痛みすら日常の一部として馴染んでしまっていた。
その重みが、今はない。
残ったのは、替えの下着と乾パン、安物の魔石ランタン、三年前支給のままの杖。それだけだった。
「……これだけか」
レンは声に出した。風が梢を揺らし、答えはなかった。
指で鞄の底を探る。底に近い所で、指先が硬いものに触れた。取り出してみると、銅貨が一枚、綿ぼこりに絡まって出てきた。いつから入っていたのか覚えもない。親指の腹で表面を拭うと、王都鋳造の紋章が薄く浮かんだ。
三年分の蓄積が、革鞄ひとつと、この銅貨一枚。
掌の中で、冷たい金属が少しずつ体温に馴染んでいく。
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——初日のことを、ふいに思い出した。
三年前、王都ギルドの裏庭。初夏の陽射しが石畳を焼いて、レンは真新しい術師ローブを纏い、ガルドの前に立っていた。ローブは母親が最後に買ってくれたものだ。袖口に金糸で小さな麦の刺繍が入っていた。家の畑で実った麦を刈り取る夏の終わりに、囲炉裏端で母が一針ずつ刺してくれた。針を通すたびに、糸が軋む微かな音が、いまも耳の奥に残っている。
「これに着替えろ」
ガルドが差し出したのは、色あせた灰色のローブだった。裾がほつれ、脇の縫い目が一度解けて縫い直されている。前任者の遺品、と後で知った。誰が、どういう形でパーティを抜けたかは、誰も話さなかった。袖を通した瞬間、他人の汗の残り香が鼻をついた。何度洗っても抜けない、くたびれた布特有の、饐えた匂いだった。
「俺のローブは——」
「目立つ色は嫌いなんだ。後衛は地味な方がいい。それに、汚れが目立たねえ方が長持ちする」
そう言って、ガルドはレンの新品ローブを取り上げ、カイルに放り投げた。カイルはそれを無造作に荷袋へ詰めた。袖口の金糸が、袋の口で一瞬きらりと光り、そして消えた。あのローブがその後どこへ行ったのか、レンは知らない。
着替え終えたレンに、ガルドは肩を叩いた。
「よろしくな、レオン」
「……レンです」
「ああ? ああ、レンか。まあどっちでもいい。俺は部下の名前を覚えるのが苦手でな」
ガルドは豪快に笑った。その癖は三年後も変わらなかった。一か月に一度は「レオン」と呼ばれ、そのたびにレンは黙って訂正した。訂正しても、翌月にはまた「レオン」に戻る。名前を覚える、という行為を、ガルドは最初から放棄していた。
初日の夜、宿の割り振りでレンの部屋はなかった。
「馬小屋で頼む。うちは経費がカツカツでな」
「……馬小屋ですか」
「嫌なら出ていっていいぞ。拾ってやった恩は忘れるな」
藁の匂い。馬糞の刺激臭。蝿の羽音。隣の馬が夜中に蹄で壁を蹴る音で、何度も目が覚めた。初日の朝、頬に藁の棘が何本も刺さって、小さく腫れていた。指で抜こうとしたら、先端が折れて皮膚に残った。棘の折れた破片は、三日経っても抜けず、やがて膿んで、自分で小さな傷を作ってようやく押し出した。その夜、母の刺繍を思い出して、初めて声を殺して泣いた。泣いても誰にも聞こえないように、藁に顔を押しつけた。
三年間、ずっと馬小屋だった。
装備の更新は一度もなかった。杖の持ち手の皮は擦り切れ、握るたびに木の地肌が掌を刺した。ローブは三度、自分で縫い直した。針仕事は下手で、縫い目はいつも歪んだ。
それでもパーティにいた。
いさせてもらっている、と、そう思い込んでいた。
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森の入口で、レンは目を開けた。回想は、足を止めさせるほど長くはなかった。ただ、銅貨を握る指の力が、いつの間にか強くなっていた。
——この銅貨も、どうせ三年のどこかで落ちた他人のものだろう。
鞄の底に戻し、口を閉じた。
森に踏み込む。外縁の木々はまばらで、陽射しがまだ地面まで届いている。落葉の上を歩くと、湿った腐葉土の匂いが立ち上った。茸の土臭さ、朽ちた木の甘い発酵臭、遠くから水場の気配——混じり合った森の呼吸が、肺の奥まで入ってくる。
三年間嗅ぎ続けた馬小屋の臭いが、一歩ごとに薄れていく。
レンは街道の分岐から少し外れた、広葉樹の根方で足を止めた。周囲を見渡す。木々の間、視界の抜ける範囲には誰もいない。頭上では小鳥が一羽、短く啼いて飛び去った。
杖を地面に立て、両手を胸の前で合わせる。
「——全属性微強化」
いつもの詠唱。いつもの術式。だが今回、対象が違った。
「対象一名——自分」
詠唱印を組む。指の腹がわずかに震えた。三年間、一度も組んだことのない形だった。対象を自分に指定する、ただそれだけの、ほんの小さな差。だが、指はその差を躊躇った。自分に術をかける、という行為そのものが、どこか後ろめたい。誰かに咎められるような、規則を破るような感触が、胸の奥にこびりついている。それは三年間で染みついた、見えない首輪の重さだった。
舌の先で、一度だけ唇を湿らせる。深く息を吸い、吐く。
呟きにもならない音で、最後の印を結ぶ。
瞬間——
全身に、温水を浴びたような感覚が走った。
違う。温水ではない。もっと内側から、血管の中を何かが駆け巡っていく。筋繊維の一本一本が熱を持ち、関節の軋みが消え、視界が一段、明るくなった。木漏れ日の粒が、それまで見えていなかった細部まで浮かび上がる。地面に落ちた小枝の節目。遠くの幹を伝う蟻の列。風の中の、ごく微かな草の揺れ。遥か頭上で、葉裏の産毛が陽に透けて金色に輝いているのまで、くっきりと見えた。
呼吸が、深くなった。
肺の容量が二倍になったかのように、空気が入ってくる。鼓動は逆に静かで、だが一打ごとに確かに血を押し出している。指先まで、熱が行き渡る。耳の奥では、遠くの沢の水音が、まるで隣で鳴っているかのように近い。皮膚の毛穴ひとつひとつが開き、森の湿気を味わうように呼吸しているのがわかった。
レンは自分の掌を見た。
震えていた。恐怖ではない。余っている力が、行き場を探して指先で渦巻いている、そういう震えだった。三年間、他人に流し続けてきた水が、堰を失って自分の中に戻ってきた——そんな感覚だった。身体の輪郭が、一回り外側に広がったような錯覚がある。
「……なん、だ、これは」
声が、自分のものではないように響いた。喉の奥から出た声が、胸郭によく通って、森の樹幹にまで反射して帰ってくる。いつもの、カイルに遮られるたび小さくなっていた、あの萎んだ声ではなかった。
試しに、近くの広葉樹に手をかけた。軽く、押すつもりで。
幹が、みしり、と音を立てて歪んだ。三年間、パーティの荷物を運んでいた時ですら、出したことのない力だった。
レンは慌てて手を離した。樹皮に、五本の指の跡がくっきりと残っていた。指の腹の形に、木質が沈み込んでいる。傷口から、薄く緑がかった樹液が滲んできて、甘く青い匂いが立った。
——これが、自分一人に集中させた時の、Eランクの「微強化」か。
三年間、この力を、四人に分散させていた。自分を抜いた四人に、ほぼ等分で。
ならば、あの戦場で、本当にガルドの大盾を支えていたのは——。
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考えかけて、レンは唐突に動きを止めた。
背筋が、冷えた。
森の奥、茂みの暗がり。そこに、低い光が灯っていた。地面すれすれ。黄色い、瞳孔が縦に裂けた獣の目。
一対。二対。三対。
唸り声が、腹に響く低さで漏れた。木の葉が揺れ、土の匂いに、獣毛の油脂の臭いが混じり始める。
レンは杖を握り直した。掌の下、木の柄が、まだ熱を帯びている。
——試し斬りには、ちょうどいい。
三年間、自分で決めて振るったことのない力が、指先で静かに脈打っていた。