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全属性微強化Eランクと蔑まれた俺、追放後に真価

第2話 第2話

第2話

第2話

革鞄の紐が肩に食い込んだ。南門を出て半日、王都の石壁は地平線の向こうへ消えていた。

 街道は轍の跡で軽くうねり、午後の陽が砂埃を金色に染めている。荷馬車がレンを追い越すたび、背後から粉塵が舞い上がり、鞄の表面に薄く積もった。

 レンはただ歩いている。

 目的地は決めていない。南下すれば辺境——王国の端、魔物の生息域に接する土地に辿り着く。そこのギルドなら、功績ゼロのEランクでも登録し直せるかもしれない。かもしれない、程度の見積もりだった。

 三年ぶりに、自分の歩幅で歩いている気がした。

 ガルドの前衛ペースに合わせて後ろを歩いた三年間。カイルの偵察の復路に付き添った三年間。ミハルが詠唱準備を終えるまで立ち止まって待つ三年間。自分の速度で地面を蹴る機会は、一度もなかった。

 空腹を意識した。朝、酒場で啜った薄いスープから何も口にしていない。携帯食料の乾パンを齧る。歯で割る音が、街道の乾いた空気によく響いた。麦の焦げた匂い。舌の上で唾液と混ざる。やや酸味のある、素朴な穀物の味。噛み続けるうちに微かな甘みが滲み出てくる。そんなことすら、三年間気づかなかった。

 三年ぶりに、「味」というものを意識している気がした。

 ——味なんて、とっくに忘れていたのか、俺は。

 気づいて、乾パンの残りを鞄に戻した。喉の奥に残る麦の香りが、妙に長く居座った。

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 日没前、街道沿いの集落に辿り着いた。看板には「オスト村」とだけ書かれている。王都から徒歩一日圏。商人の中継地点として細々と成り立つ、人口二百ほどの村落だ。

 宿は一軒だけだった。石造りの平屋。軒先から錆びたランタンが下がっている。扉を押すと、土間の囲炉裏から薪の匂いが立ち上った。松脂の甘い香りと、煮込み鍋の湯気が混ざり合う。誰かが煙草を吸った跡の、かすかに苦い残り香もある。脂の浮いた煮汁が鍋の縁で小さく跳ね、じゅ、という音が断続的に耳に届いた。

「一泊、食事なしで」

 レンはカウンターに銀貨を置いた。十二ゼン。王都の馬小屋より安い。

「はいよ、一号室。鍵はない、自己管理で」

 女将は愛想なく言い、木札を差し出した。その指が一瞬、止まる。

「……あんた、術師かい?」

「支援術師です」

「へえ」

 それだけ言って、女将の視線はレンの杖に落ちた。見るだけで、それ以上踏み込まない。詮索せず、放置する。王都とは別種の距離感だった。放っておかれることが、こんなに楽だと思ったのは初めてだった。胸の奥で張り詰めていた何かが、糸を一本ずつ緩めていくような感覚があった。

 部屋に向かう途中、食堂で一人の商人と目が合った。壮年の男。灰色の髭。卓の前には黒パンと豆の煮込み。スプーンの柄が油で黒光りしている。

「旅の術師さんか。南へ?」

「ええ」

「辺境か。骨が折れるぜ。魔物が出るからな」

「……慣れてます」

「そうかい」男は軽く笑った。目尻の皺が深く刻まれ、長く街道を渡り歩いてきた者の顔だった。「なら一つ忠告だ。朧ヶ森の外縁は、獣型が増えてる。先週も商隊が一組やられた。単独なら、日の高いうちに抜けときな」

「ありがとうございます」

 レンは会釈して部屋に入った。

 木の寝台と、荒削りの机。それだけ。窓からオスト村の夕景が見える。鶏が地面を突き、犬が走り、子供が走り、母親が叱る。生活の音が濃密に耳に届いた。夕餉の支度の音。薪を割る鈍い音。誰かが井戸の釣瓶を回す軋み。遠くで、牛が一頭、低く鳴いた。

 王都ではこんな音は聞こえなかった。馬小屋には、馬の鼻息と蝿の羽音しかなかった。

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 同じ頃、王都。

 「鉄壁の盾」は馴染みの酒場の個室で祝杯を上げていた。

「——新生・鉄壁の盾に!」

 ガルドが木製のジョッキを掲げる。リーナ、カイル、ミハル、そしてミーラ。五つのジョッキがぶつかり、泡が零れた。卓布に琥珀色の染みが広がり、麦の匂いが個室にこもる。

「ミーラ、これからよろしくな。お前のCランク支援があれば、Aランク級も夢じゃない」

「は、はい! 頑張ります!」

 ミーラは肩を縮こまらせながら頷いた。ジョッキの麦酒は半分も減っていない。苦味に慣れない舌が、泡の一口ごとに小さく痙攣している。

「リーナ、あの薬草酒を頼んでこい。ミーラの歓迎だ」

「はいはい、今日のリーダーは機嫌がいいわね」

 リーナが席を立ち、個室を出る。扉が閉まる。蝶番のきしむ音が、やけに長く尾を引いた。

 カイルが黙ってジョッキを傾けていた。目は空の一点を見ている。卓上のろうそくの火が、彼の瞳に小さく映り込み、そして揺れていた。

「どうした、カイル」

 ガルドが訊く。カイルは肩をすくめた。

「……明日のダンジョン、情報を読み直しとくか」

「Bランクの洞窟だぞ。お前らしくねえな」

「慎重になって損はねえだろ」

 カイルはそれだけ言って、ジョッキを傾けた。斥候の勘が、何かを告げていた。だがそれが何かは、まだ言葉にならない。喉の奥に、ざらりとした違和感だけが貼り付いている。ここ三年、一度も味わったことのない種類の不安だった。麦酒の苦味が、いつもの夜よりも鋭く舌を刺した。

 テーブルの隅で、ミーラはこっそり手のひらを握っていた。掌は湿っている。Cランクの支援術式を、Aランクパーティの戦場で、実戦投入する。明日。

「——大丈夫、大丈夫」

 小さく、自分に言い聞かせた。

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 夜。オスト村の宿。木の寝台の上でレンは仰向けに横たわっていた。

 窓の外で梟が鳴く。遠くで犬の遠吠えが重なる。馬小屋の騒音とは違う、静けさのある夜だった。寝台の藁が背に押し返してくる感触が、馬小屋の床板よりもずっと柔らかく、そのことにさえ落ち着かなさを覚えた。

 レンは両の掌を眼前に掲げた。

 ランタンの薄明かりに、指の形が浮かぶ。骨張って、節くれだった、支援術師の手。三年間、毎日、何千回、この手で詠唱印を組んできた。爪の横には乾いた血豆の跡。人差し指の第二関節には、印を組む摩擦で硬くなった皮膚の盛り上がり。この手の履歴を、自分ですらまともに見たのは何年ぶりだろう。

「——全属性微強化、対象一名、維持継続」

 小さく呟いてみる。対象、の部分だけ、いつもと違う数を口にした。誰もいない。誰にも届かない。ただ術式の気配だけが、掌の中で薄く立ち上がった。指先にほのかな温もりが灯り、すぐ消える。

 微強化。Eランクの支援術。

 五つの基礎ステータスを同時に底上げする術式。筋力、敏捷、耐久、魔力、精神。同時に。連続で。戦闘の最初から最後まで。

 ——同時、だから、分散するのか。

 レンは天井を見上げた。梁の節が影を落としている。節の黒い輪が、まるで誰かの瞳のように、じっとこちらを見返してくるようにも思えた。

 もし対象を一人に絞れば、どうなる。

 考えたことはあった。何度も。だが鑑定結果はEランク、強化量は微弱、そして戦闘中に誰か一人だけを強化する余裕などなかった。ガルドは常に前衛で、リーナは常に詠唱中で、カイルは常に索敵中で、ミハルは常に砲撃中で——全員に常時支援が必要だった。必要だと、そう言われていた。

 必要だと、思い込まされていたのだろうか。

 レンは掌を握った。爪が肉に食い込む。痛みはあった。確かに、ある。自分の肉体は、自分のものだ。その当たり前の事実が、今夜はやけに重たく感じられた。

 三年間、自分の肉体に支援をかけたことが、一度もない。

 いつも他人のために詠唱していた。朝の目覚めの儀礼のように、集合直後の挨拶のように、当然のものとして、他人のために。自分を強化対象に含めたことはなかった。含めてはいけない空気が、いつの間にかあの場に染みついていた。誰が最初に決めたわけでもない。ただ、そうなっていた。そうしてきた。

 ——試してみるか。

 口の中で呟いた。声はほとんど音にならず、唇の裏側で小さく崩れた。

 明日。街道を離れ、森に入ったら。周囲に誰もいない場所で。一人で。自分だけを対象にして。

 もし何も起きなければ、本当にEランクの誤差だったと認めよう。

 もし、何かが起きたら——。

 レンは掌を開き、目を閉じた。心臓の鼓動が、耳の奥で規則正しく響いている。三年ぶりに、自分の心音に意識を向けた夜だった。

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 翌朝、空が白み始める前にレンは宿を発った。女将はまだ起きていない。カウンターに銀貨を一枚、追加で置いた。朝食代、というほどではないが、世話になった礼だ。

 街道に戻る。夜露が草を濡らし、革靴の先が湿った。冷えた空気が肺に入り、三年ぶりに深く息を吸った気がした。

 半日ほど南下すると、街道の先、地平線の縁に深い緑の影が見え始めた。朧ヶ森。地図にはそう記されている。辺境領域の浅い外縁。魔獣の発生密度は低いが、Cランク以下の獣型魔獣が棲む森だ。

 レンは杖を握り直した。掌には、昨夜自分で食い込ませた爪の跡が、薄く残っている。

 ——まずは、一人だけに、かけてみる。

 森の縁が、少しずつ近づいていた。

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