第1話
第1話
坑道の闇が、獣の咆哮で震えた。
「前衛、崩れるぞ! リーナ、回復を——」
斥候のカイルが叫ぶ。だが聖女リーナの詠唱は間に合わない。蝕みの坑道の最深層、Aランク魔獣「鉄甲蜈蚣」の突進がガルドの大盾を正面から捉えた。岩盤を削る衝撃音。ガルドの足が数歩、後ろに滑る。砕けた岩片がレンの頬をかすめ、鉄錆に似た粉塵が肺に絡みついた。
レンは詠唱を重ねた。
「——全属性微強化、対象四名、維持継続」
声は誰にも届かない。坑道に反響する戦闘音に紛れ、支援術師の詠唱はいつだって背景音だ。だが効果は確実に出る。ガルドの踏ん張りが戻り、カイルの回避が鋭くなり、後衛のリーナとミハルの詠唱速度がわずかに上がる。
全属性を同時に底上げする。筋力、敏捷、耐久、魔力、精神——五つの基礎ステータスすべてに干渉する支援術式。鑑定結果はEランク。効果量は「微強化」。パーティの誰も、この支援がなければ自分たちの動きがどう変わるか知らない。
「——おらぁッ!」
ガルドの戦斧が鉄甲蜈蚣の頭殻を叩き割った。体液が飛散し、巨体がゆっくりと崩れ落ちる。坑道に静寂が戻った。
「さすがガルドさん! Aランクの魔獣を正面から——」
リーナが称える。カイルも短く口笛を吹いた。ガルドは戦斧を肩に担ぎ、薄く笑う。
「こんなもんだ。蝕みの坑道もそろそろ卒業だな」
レンは壁に背を預け、息を整えていた。全属性維持は集中力を削る。視界の端が薄く霞み、こめかみが鈍く痛む。指先の感覚が遠い。だが誰も、彼の消耗には気づかない。気づこうともしない。
それでいい。三年間、ずっとそうだった。
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王都ギルド本部の報酬精算窓口。レンはカウンター越しに渡された明細書を見つめた。
蝕みの坑道、最深層クリア報酬——合計280万ゼン。パーティ配分によるレンの取り分は14万ゼン。5%。だが明細の数字は12万6千ゼンだった。
「……装備損耗の天引きが入ってます」
ギルド職員が気まずそうに言った。レンの装備は三年前の支給品だ。損耗も何もない。だが異議を申し立てる気力は、とうに擦り切れている。
「わかりました」
硬貨を受け取り、窓口を離れる。背後でガルドたちの笑い声が聞こえた。
「今日は祝杯だ! 蝕みの坑道を制覇した記念にな。おい、リーナ、あの店予約しとけ」
「もうしてあるわ。個室の方」
レンに声はかからない。三年間、一度もかからなかった。
ギルドの掲示板に、今回の討伐報告が貼り出されている。レンは足を止めた。
——Aランクパーティ「鉄壁の盾」、蝕みの坑道最深層を制圧。リーダー・ガルドの卓越した前衛指揮により、Aランク魔獣「鉄甲蜈蚣」を撃破。
パーティメンバーの欄。ガルド、リーナ、カイル、ミハル。四名。
支援術師の名前は、ない。
レンは視線を外した。掲示板の横に立つ新人冒険者たちが、「鉄壁の盾」の名に目を輝かせている。自分がそうだった頃もある。三年前、Eランクの鑑定結果を握りしめて、それでも冒険者になりたくて、唯一拾ってくれたのがガルドだった。
拾ってくれた、と思っていた。
今なら分かる。あれは拾ったのではなく、安く使える道具を手に入れただけだ。
宿に戻る。宿といっても馬小屋だ。王都の宿は高い。12万6千ゼンの月収では、まともな部屋は借りられない。藁の上に敷いた毛布が今日も湿っている。隣の区画で馬が鼻を鳴らした。この馬の方がよほど大切にされているな、と思って、レンは小さく笑った。
笑えるうちはまだ大丈夫だ。そう自分に言い聞かせてきた。三年間、ずっと。
だが最近、笑えなくなってきている。
荷物を整理する。といっても、革鞄一つに収まる量しかない。替えの下着、携帯食料、安物の魔石ランタン、三年前に支給されたまま一度も更新されていない杖。冒険者証を取り出して眺めた。
——レン。支援術師。Eランク。所属パーティ:鉄壁の盾。
三年分の功績記録の欄は空白だった。すべてガルドの個人功績として申請されている。レンはそれを知っている。知っていて、何も言わなかった。
言ったところで変わらない。Eランクの支援術師に発言権はない。
そう思い込んでいた。思い込まなければ、この場所にいられなかった。
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翌朝、ギルドの酒場。レンが定位置——カウンターの端——で薄いスープを啜っていると、ガルドが入ってきた。後ろにリーナ。そして見知らぬ女がいた。
二十歳前後。栗色の髪を短く切り揃え、新品の術師ローブを纏っている。胸元にCランクの認定章。
「レン、紹介する。ミーラだ。今日からうちの支援術師になる」
ガルドの声は平坦だった。紹介、ではない。通告だ。レンにはその違いが分かった。三年も一緒にいれば、声の温度で察する。
「は、はじめまして。ミーラです。支援術師をしています。Cランクですけど、精一杯頑張りますっ」
ミーラが緊張した面持ちで頭を下げる。レンは黙ってスープの椀を置いた。
「……俺の後任、ということですか」
「話が早いな」
ガルドが椅子を引き、どかりと座った。リーナがその隣に腰掛け、薄い笑みを浮かべている。
「お前の支援は三年使ったが、正直なところ誤差だ。Eランクの微強化じゃ、あってもなくても変わらん。Cランクのミーラの方が数値上は上だ。合理的な判断だろ」
合理的。その言葉を、レンは静かに噛んだ。三年間、一度も休まず支援を維持し続けたことは、数値には表れない。全属性を同時に、途切れなく、戦闘の最初から最後まで——それがどれほどの集中力を要するか、ガルドは一度も訊ねなかった。
「……功績記録の件は」
「何の話だ?」
「俺の三年分の功績が、すべてガルドさんの個人申請になっている件です。修正は——」
「功績?」ガルドが鼻で笑った。「お前に何の功績がある。荷物持ちと微強化だろう。それを功績と呼ぶなら、馬小屋の馬にも功績をやらなきゃな」
リーナが口元を隠して笑う。ミーラだけが気まずそうに目を逸らした。
レンは立ち上がった。椀に残ったスープが揺れて、安物の木のテーブルに数滴こぼれた。
「——わかりました」
「物分かりがいいのは昔からだな。ああ、ギルドへの届けはもう済ませてある。お前の登録は今朝付けで外した」
事後通告。許可も同意も要らない。リーダー権限でパーティメンバーの登録は変更できる。レンはそれを知っていた。知っていて、対策を打たなかった自分の愚かさを、今さら噛み締めた。
「三年もよく持ったわね」
リーナの声が背中に刺さる。レンは振り返らなかった。酒場を出て、ギルドの受付に向かう。
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受付嬢の目が、同情の色を帯びていた。
「レン様……所属パーティの変更届が、今朝ガルド様から提出されています。現在、レン様はフリーの冒険者として——」
「功績記録を確認させてください」
受付嬢が端末を操作し、記録票を差し出す。三年分の欄。空白。最後に記載があるのは入団前のソロ依頼、Fランクの薬草採取だった。
「……そう、ですか」
レンは記録票を返した。怒りはあった。だがそれ以上に、予感が当たったという乾いた納得があった。三年という時間の重さが、急に胸の底に沈んだ。費やした日々は戻らない。それだけが、動かしようのない事実だった。
ギルドを出る。王都の大通りは朝の喧騒で溢れている。露店の焼き栗の匂い。馬車の車輪が石畳を叩く音。すれ違う冒険者たちの装備が、朝日を弾いて光る。三年間、毎日見ていた景色のはずなのに、今日は妙によそよそしい。
王都の南門に向かって歩く。革鞄一つ。杖一本。それだけが、三年間の全てだった。
門をくぐる瞬間、背後から声がした気がした。誰かが名前を呼んだような——いや、気のせいだ。この街で自分の名前を呼ぶ人間はいない。
レンは振り返らなかった。
南の街道が真っ直ぐ伸びている。辺境へ続く道だ。行く当てはない。だが不思議と、足は軽かった。朝の風が頬を撫で、街道沿いの草の匂いが鼻をくすぐる。三年間嗅ぎ続けた馬小屋の臭いとは違う、生きている大地の匂いだった。
——三年ぶりに、鎖が外れた音がした気がした。
そのとき、レンはまだ知らない。自分が「鉄壁の盾」にとって何だったのか。あの微強化が消えた瞬間、Aランクパーティに何が起きるのか。
そしてガルドもまた、知らない。今日この瞬間が、「鉄壁の盾」の崩壊の起点だったということを。