第1話
第1話
血が噴き出した。
前衛のドルクが膝から崩れ落ちる。左脇腹を抉られた傷口から、赤黒い血が石畳に広がっていく。B級魔獣ブラッドファングの爪が、鋼鉄の鎧ごと肉を裂いたのだ。
鉄が焼ける臭いと、生温い血の匂いが迷宮の空気に混じる。ドルクの瞳孔が開き、唇が痙攣している。出血量から見て、あと二十秒。それを超えたら内臓への浸潤が始まり、回復の難度が跳ね上がる。
「回復! リュート、早くしろ!」
リーダーのガルドが怒鳴る。盾を構えたまま、二体目のブラッドファングを受け止めている。獣の体重に押され、ガルドの足が石畳の上で滑る。金属がきしむ音が壁に反響した。その背後ではサブアタッカーのヴェルナが剣を振るっているが、三体目に足を取られて動けない。
リュートは既に詠唱を終えていた。
ガルドが叫ぶ前から、魔力は練り上げてある。前衛が斬り込んだ瞬間に、ドルクの足運びが半歩遅れたのが見えていた。あの角度なら右からの爪撃が通る。回復の準備を始めたのは、傷を負う四秒前だった。
「——《癒流》」
淡い緑の光がリュートの掌から溢れ、ドルクの傷口を包む。裂けた筋繊維が編み直され、破れた血管が繋がっていく。回復魔法の中でも高難度の即時再生。三秒でドルクの顔に血色が戻った。
リュートの指先に伝わるのは、再生する肉体の手応えだ。組織が正しく繋がる感触と、ほんの僅かな抵抗——体が「元の形」を思い出す瞬間。三年間で何百回と感じた、命が繋がる確かな手応え。だが今日は、その奥にいつもより強い脈動があった。指先が微かに熱を帯び、すぐに消えた。
「立てるか」
「あ、ああ……」
ドルクが剣を拾い、立ち上がる。リュートはそれを確認する前に次の詠唱に入っていた。ヴェルナの足首に浅い裂傷。放置すれば踏み込みが鈍る。視界の端でガルドの盾腕が震えているのも見えている。あと四十秒で限界が来る。
「《癒流》——ヴェルナ、次の斬撃で首を狙え。ガルド、十秒だけ保て」
回復を飛ばしながら、戦況を読み、指示を出す。リュートが三年間で磨き上げた「先読み回復」だった。
ヴェルナの一閃が魔獣の首を断つ。噴き出した紫黒の血が壁に弧を描き、切断された首が湿った音を立てて転がった。ガルドが残る一体を盾で弾き、ドルクが止めを刺した。
迷宮の第七層、掃討完了。全員生存。
いつも通りだ。
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ギルドの酒場は喧騒に満ちていた。
冒険者たちが杯を掲げ、今日の戦果を自慢し合う。焼けた肉の脂と安酒の匂いが天井の梁まで立ち込め、吟遊詩人の竪琴が騒音にかき消されている。「鉄華の盾」の面々も奥の席を占拠して、大皿の肉と酒を囲んでいた。
「今日もまあまあだったな。ドルク、脇が甘いぞ」
ガルドが骨付き肉を齧りながら言う。赤毛を後ろに撫でつけた大柄な男。Aランクパーティ「鉄華の盾」のリーダーにして、ギルド内でも顔が利く実力者。
「すんません、リーダー。次は——」
「まあいい。で、報酬の分配な」
ガルドがテーブルに金貨の山を積む。今回の迷宮攻略報酬、金貨百二十枚。金属が触れ合う小気味よい音が、周囲の冒険者の視線を一瞬集める。Aランクの報酬は、Cランクの冒険者にとっては一年分の稼ぎに等しい。
「俺が四十。ドルクとヴェルナが三十ずつ。残りがリュートだ」
二十枚。全体の六分の一。前衛三人の半分以下。
リュートは何も言わず金貨を受け取った。指先に伝わる金属の冷たさ。二十枚。宿代と薬草の仕入れを引けば、手元に残るのは五枚がいいところだ。
「毎度思うけどよ」
新人剣士のドルクが酒を煽り、リュートをちらりと見た。入団して半年。腕は悪くないが、今日脇腹を裂かれて倒れていた自分の未熟さだと気づいていない。
「回復師って楽でいいよな。後ろで手かざしてるだけで金が貰えるんだから」
ヴェルナが小さく笑った。ガルドは否定しない。
リュートは酒杯の水面に映る自分の顔を見た。黒髪に、どこにでもいそうな地味な顔。剣士のような鍛えられた体躯もなければ、魔法師のような知的な眼光もない。回復師とはそういうものだ。戦場では誰よりも冷静に全体を見ているのに、酒場に戻れば最も存在感のない人間になる。
「回復なんて誰でもできる。リュート、お前の代わりなんざポーション十本で済む話だ」
ガルドの言葉が酒場の空気に溶けた。周囲の冒険者が何人かこちらを見たが、すぐに視線を逸らす。Aランクパーティの内情に口を挟む物好きはいない。
ポーション十本。金貨にして五十枚。確かに、帳簿の上では回復師一人を雇うより安い。だが即時再生と先読み回復をポーションで再現できるかと言えば——言っても無駄だ。三年間で学んだ。この手の会話に正論を返しても、空気が悪くなるだけで何も変わらない。
リュートは黙って席を立った。
「おい、片付けまだだぞ。装備の手入れと明日の薬草の仕分け、頼んだからな」
ガルドの声を背中で聞きながら、リュートは頷いた。
酒場の隅で、一人、仲間の装備を磨く。血と泥を丁寧に落とし、革紐のほつれを補修する。本来は各自がやる仕事だ。だが「鉄華の盾」では、これはリュートの担当だった。三年前からずっと。
煤けたランタンの灯りの下で、ドルクの胸当てについた爪痕を指でなぞる。あと数ミリ深ければ心臓に届いていた。リュートが詠唱を二秒早く完了させなければ、ドルクは今ここにいない。
酒場の笑い声が壁越しに届く。ドルクが上機嫌で武勇伝を語っている声。魔獣を二体倒した話を、さも自分の手柄のように。脇腹を裂かれて倒れていた部分は省かれていた。
——わかっている。
自分がいなければこのパーティは成り立たない。Aランクの実績は、リュートの先読み回復があってこそ積み上げられたものだ。
だが、それを口にしたことは一度もない。
証明する手段がない。回復魔法は地味だ。派手な剣技や魔法攻撃と違い、回復は「当たり前にあるもの」として扱われる。うまくいけば誰も気づかず、失敗すれば即座に責められる。そういう役割だ。
装備を磨き終え、薬草の仕分けを済ませる。酒場の喧騒はまだ続いていたが、リュートは裏口から宿に戻った。誰も気づかない。いつものことだ。
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狭い部屋。寝台と小さな机だけの、宿の最安個室。
壁の漆喰はところどころ剥がれ、窓枠の木は湿気で膨れている。隣室の冒険者のいびきが壁越しに聞こえる。Aランクの報酬を得ていながら、この宿で暮らしている回復師は、おそらくこのギルドでリュートだけだ。
リュートは寝台の縁に腰を下ろし、自分の両手を見つめた。
三年間、この手で何人の命を繋いだか。致命傷を塞ぎ、毒を中和し、折れた骨を接いだ。数えきれない。
なのに——
「足手まとい、か」
声に出すと、妙に軽い響きだった。怒りはない。悔しさも、もう薄れている。三年も同じことを言われ続ければ、感情は摩耗する。
ただ、一つだけ消えないものがあった。
右手に意識を集中する。回復魔法の基点となる掌の魔力回路。そこに、いつも微かな違和感がある。回復魔法を行使するたびに、もっと奥に、もっと深い層に何かが眠っている感覚。手を伸ばしかけて、届かない。
今日もそうだった。ドルクの傷を塞いだ瞬間、指先の奥で何かが震えた。回復魔法とは異なる、もっと根源的な力の脈動。それは一瞬で消え、後には微かな痺れだけが残った。
三年前からずっとそうだ。この感覚が何なのか、リュートにはわからない。ギルドの魔法書にも、師匠の教えにも、該当するものがなかった。
「本当に——これだけなのか、俺は」
呟きは誰にも届かず、安宿の薄い壁に吸い込まれた。
窓の外で、風が鳴る。ギルドの掲示板に、今朝新しい依頼書が貼り出されていた。S級迷宮「喰霊の坑道」攻略。報酬は金貨一万枚。Aランク以上限定。
ガルドが嬉しそうに話していたのを覚えている。リュートに向けてではなく、ドルクとヴェルナに向けて。
何かが近づいている。
リュートは灯りを消し、目を閉じた。手の奥の違和感だけが、暗闇の中で静かに脈打っていた。