第2話
第2話
朝の光が薄い窓から差し込み、埃を舞わせていた。
リュートは寝台の縁に座ったまま、革表紙の手帳を膝の上で開いていた。ギルド規則で冒険者全員が持たされる、個人用の収支帳。表紙の角は擦り切れ、背表紙の糸がほつれている。三年分の記録が、細かい文字で詰まっていた。
頁をめくる紙音が、静かな部屋にやけに大きく響く。
リュートはこの手帳を、入団してからほとんど開いていなかった。ガルドが「報酬はパーティ名義で一括管理、各自の取り分は俺が振り分ける」と決めたからだ。個別の記録は、ギルドが自動で転記する金額を確認するだけで済んでいた。
今朝、何故開いたのか。自分でもわからない。
ただ、昨夜の感覚——指先の奥で脈打つ何か——が静まらないまま、自然と手が動いていた。
最初の頁。三年前、入団直後の記録。
『迷宮・風鳴の谷、第三層攻略。報酬金貨十二枚。分配、リュート四枚』
三分の一。四人で均等割だった頃の数字だ。ドルクもヴェルナもまだいない。ガルドとリュート、前衛のケイルと魔法師のミリアだけの頃。
頁を進める。半年後、ケイルが抜けた頁から、数字が変わり始めた。
『迷宮・鉄鉱山脈、第五層。報酬金貨三十枚。分配、リュート六枚』
五分の一。
一年後、ミリアが抜けてドルクが加入した頁。
『迷宮・霧の峡谷。報酬金貨六十枚。分配、リュート八枚』
七分の一強。報酬総額は増えているのに、分配率は下がっている。
二年後、ヴェルナが加入した頁。同じ頁を境に、比率は固定された。
リュートは指を止めた。爪の先で革の擦れた縁を押さえる。
単純計算の習慣は、昔からあった。傷口の出血量を秒数で読み、魔力残量を詠唱回数で割る。回復師に必要な計算能力だ。
三年間の依頼総報酬——頁をめくりながら足していく。金貨にして、およそ四千二百枚。
リュートの受取総額——同じく足していく。五百六十枚。
比率にして、一割三分。
昨夜の分配——ガルド四十、ドルクとヴェルナが三十、リュート二十——の比率で三年間を均せば、単純計算で取り分は二割五分あってもおかしくなかった。
差額、およそ五百枚。
Cランクの冒険者が二十年かけて稼ぐ額だ。
リュートは手帳を閉じた。革の表紙が湿気で少しふやけている。
三年間、気づかなかったわけではない。薄々、計算が合っていない感覚はあった。だが——
これだけの額だとは、思わなかった。
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朝のギルドは、夜勤明けの冒険者と早朝依頼の受注者で混み合っていた。
受付の窓口に並ぶリュートの足元で、昨夜の雨が泥になった靴跡が乾きかけている。順番を待つ間、リュートは手帳を握り直した。革の感触が掌で湿る。
「次の方」
受付嬢の声で前に出た。顔見知りのアイナという、眼鏡の女性だった。
「リュートさんですね。ご用件は」
「過去の依頼報酬の、個別内訳を確認したい。三年分」
アイナの手が止まった。
「パーティ所属の方は、個別内訳はリーダー経由での請求になります。直接の開示は——」
「規則を知りたい。どの条文だ」
声を荒げたつもりはなかった。だが、静かな口調が逆にアイナの指を止めたらしい。彼女は奥の同僚に目配せし、規則書を持ってこさせた。
厚い羊皮紙の束。リュートは該当頁を開かせ、目で走らせた。
『第十四条。パーティ運営費として、リーダーは報酬総額の三割以内を経費計上できる。経費の使途は内部決裁のみで、個別構成員への開示義務はない』
三割以内。
リュートの計算では、ガルドは三年間、平均して七割以上を運営費として処理していた。規則違反だ。
「この条文の違反は、申し立てできるのか」
「……申し立ては、できます」
アイナが頁を指で押さえたまま、声を落とした。
「ですが運営費の定義はリーダーの裁量が広くて、却下される例が多いです。『装備更新費』『情報収集費』『人員育成費』——名目を付けられると、審査が通ってしまうので」
「育成費用、で処理されていたら」
「……過去に抗議した方が、パーティを離脱させられた事例があります。育成費の名目なら、リーダーは『お前への投資』と主張できてしまうので」
アイナの眼の奥に、似た案件を見てきた者の疲れがあった。
リュートは手帳を閉じた。規則書の条文の数字を覚え込んで、窓口を離れた。
つまり、帳簿上、ガルドの処理は全て合法だ。抗議すれば、パーティを追われる。
——金貨五百枚は、過去のものとして諦めるしかない。
驚いたのは、自分が驚いていないことだった。
三年前、まだパーティが四人で対等だった頃。ガルドは別の男だった。
『リュート、お前の回復は早い。俺の盾とお前の癒し、これさえあれば大抵の迷宮は抜けられる』
酒場のテーブルで、そう言って笑った男。ケイルが死に、ミリアが去り、新しい仲間が加わるごとに——少しずつ、ガルドの口が変わっていった。
『お前の代わりなんざポーション十本で済む話だ』
昨夜の声が、朝の空気に重なる。
いつからだろう。『誰でもできる』と言うようになったのは。記憶を遡っても、明確な境目はなかった。
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受付窓口を離れた瞬間、リュートは掲示板の前の人だかりに気づいた。
喧騒の中心にガルドがいた。ドルクとヴェルナも側にいる。それから——リュートが見たことのない女性が一人。白い神官服を着て、銀髪を後ろで結わえている。
ガルドが張り出された依頼書を指で叩いていた。
「見ろ、S級だ。金貨一万枚。これを抜けば『鉄華の盾』はA級の上位、王都の依頼も回ってくる」
「エリーゼ殿も、これほどの難度は初めてでしょう」
ドルクが女性に声をかけている。エリーゼと呼ばれた女性は、落ち着いた声で答えた。
「王都聖堂で十の迷宮を経験しています。ご心配なく」
王都聖堂の神官。位の高い回復職。
リュートは掲示板の裏の柱の陰で足を止めた。
ガルドはリュートに気づいていない。あるいは、気づいていて無視している。
「出発は明後日だ。今夜、宿で前祝いをやる。エリーゼ、お前も来い」
「ありがとうございます、リーダー」
——前祝い。
パーティの恒例行事。S級挑戦の前夜は全員で宿の一室に集まり、翌日の配置を決める。三年間、段取りを仕切っていたのはリュートだった。
その場に、リュートの名前は出なかった。
代わりに、エリーゼの名前が呼ばれた。
指先に、昨夜の違和感が戻ってきた。掌の奥で何かが脈打ち、一瞬、視界がぶれる。
柱に手をついて堪える。石材の冷たさが掌に染みた。
——置き換え、か。
S級迷宮の前に、新しい神官を入れる。王都聖堂の、位の高い神官を。そして前祝いにリュートを呼ばない。
意味は、ひとつしかない。
リュートは柱の陰から動かず、掲示板の依頼書を見上げた。依頼主はギルド本部直属。報酬金貨一万枚。A級以上、回復職必須。挑戦期限は来週いっぱい。
ガルドたちの集団が、笑い声と共に酒場の方へ移動していく。エリーゼが最後にちらりと掲示板を振り返り、その視線がリュートと一瞬、交差した。
彼女は頭を下げた。淑やかで、礼儀正しい会釈。
リュートも反射的に頷き返した。
エリーゼに罪はない。あの女性は、ギルドを通じて依頼を受けただけだ。
悪意は、ガルドの側にある。
それでも——リュートは手帳を握り直した。革表紙が軋み、ほつれた糸が指に触れた。
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宿への帰り道、石畳を踏む足音が妙に乾いていた。
リュートは昨夜の雨の水たまりを避けながら歩いた。避ける必要などなかった。ただ、靴を汚したくなかった。次に呼び出される時、汚れた靴で現れる訳にはいかない——そんな思考が頭の片隅で働いていた。
まだ働いているのか、と思った。
もう、いらない男のはずなのに。
右手の掌が熱い。昨夜より強く、指先の奥が脈打っている。回復魔法の回路ではない。もっと深い、体の芯に繋がる何か。
宿の扉に手をかけた瞬間、背後で笑い声が弾けた。振り返ると、酒場の扉から出てきた四人が、装備店の方へ連れ立って歩いていく。エリーゼの銀髪が朝の光を弾いている。
リュートは扉を押し開け、宿の中に入った。
薄暗い廊下で、右手を開いた。掌の中央が、脈打ち続けていた。