第3話
第3話
扉の向こうから、肉の脂と酒の匂いが漏れていた。
リュートは廊下の壁に背を寄せ、ガルドの部屋の扉を見上げていた。厚い樫の扉。蝶番が湿気で黒ずみ、下の桟に泥がこびりついている。宿の二階、最奥の角部屋。三年間、前祝いのたびに集められていた部屋だった。
呼び出しは夕方、宿の主人を介してだった。「ガルド様が、リュート殿をお呼びだ」と伝言だけ。前祝いの恒例であれば、段取りと配置を任される立場のリュートが、使者を受ける側に回っている時点で、既におかしい。
掌が湿っていた。革表紙の手帳は、宿の部屋に置いてきた。手帳がないと、指先がどこに置けばいいのかわからない。三年の間、何を言われても、まず手帳を開き、羽根ペンを走らせる手癖がついていた。その癖を、今夜は封じられている。
扉を三度、叩く。
「入れ」
ガルドの声。低く、機嫌のいい時のトーン。だが、機嫌のいい時ほど、ガルドは残酷だった。リュートは三年かけてそれを学んでいた。
リュートが扉を押すと、油を差していない蝶番が軋んだ。部屋の中の光が一気に廊下に差し、四つの視線がリュートに向かった。
ガルドが正面の大きな椅子に座り、肉の骨をしゃぶっている。左右にドルクとヴェルナ。そして——壁際の小さな椅子に、エリーゼが座っていた。
白い神官服のまま、膝の上で両手を組み、床の一点を見つめている。今朝、掲示板の前で見た時と同じ姿勢。違うのは、髪の結び目が少し緩んでいることと、隣の卓に彼女の分の杯が用意されていることだった。杯の縁に、まだ口をつけられていない赤が、蝋燭の光を受けて揺れている。
リュートは戸口で止まった。
「突っ立ってんじゃねえ。入れ、リュート」
ガルドが笑顔のまま手招きした。指の間に挟まった骨が、皿に向かって放り投げられる。
リュートは部屋に一歩踏み入れた。床板が、湿気で撓んだ軋みを返す。
卓の上、大皿に盛られた羊肉。葡萄酒の瓶が三本、すでに半分空いている。ドルクの顔は赤く、ヴェルナの口元は脂で光っている。ガルドだけが、しらふに近い顔でリュートを見ていた。目の奥が冷えている。これから起こることを、ガルドは宴の前から決めていたのだ。
「座れと言いてえとこだが、長くなるとお前の時間を無駄にする。立ったままで済ませようや」
「……なんの話だ」
「決まってんだろ」
ガルドは骨を皿に放り投げ、指の脂を布で拭いた。卓に肘をつき、身を乗り出す。布に染みた脂の輪が、蝋燭の光でぬるく光った。
「明日からの話だ。S級迷宮『喰霊の坑道』。回復枠はこいつだ」
親指が後ろへ向けられ、エリーゼを指した。エリーゼが一瞬、肩をすくめた。目は伏せたまま、耳の縁だけが赤かった。
「王都聖堂の神官、エリーゼ。位階は第四階梯。先読みはできねえが、広域展開が得意でな。前衛五人まで同時に張れる」
「……」
「つまり」
ガルドがにやりと笑った。口角に、歯の間に挟まった肉の繊維が覗いた。
「お前は、もう不要だ」
ドルクが酒を吹き出しかけて咳き込んだ。ヴェルナは口元を押さえて笑いを堪えている。笑いが、部屋の空気に染みた。蝋燭の芯が、その振動で揺れ、影が壁で跳ねた。
リュートは黙っていた。
驚きはなかった。朝、掲示板の前で答えは出ていた。ただ、想定より早い。S級挑戦の前夜に、宴の席で、酒の匂いの中で言い渡される。丁寧さという概念が存在しない通告だった。頭の芯が、妙に冷えていく。怒りが来るはずの場所に、何も昇ってこない。ただ、胸の底が薄く凍りついて、呼吸が浅くなっているのを感じた。
「それと、もう一つ」
ガルドが指を一本立てた。爪の縁が黒く、乾いた血のような色が挟まっていた。
「お前、今朝、受付で帳簿の開示請求を出したらしいな」
ドルクがにやつき、ヴェルナが目を細めた。情報は既に伝わっていた。半日で、この席まで届いている。ギルドの受付嬢の顔が一瞬よぎる。朝、書類を渡してきた時の、わずかに怯えた目。あれは、こうなることを知っていた目だった。
「三年分、五百枚くれえ合わねえってか? 計算は合ってる。感心するぜ、よく足したな」
「……」
「だがな、リュート。あの五百枚は運営費で落ちてんだ。内訳は『育成費』。誰の育成かは、言わなくてもわかるよな」
ガルドが指をリュートに向けた。指先が、リュートの胸骨の真ん中を狙っていた。
リュートは、指の先を見ていた。ガルドの爪の間に、肉の筋が挟まっていた。
「入団当初、お前の回復は雑だった。詠唱が遅え、魔力配分が下手、先読みなんざ出来もしなかった。それを俺が鍛えてやった。飯も食わせた、装備も揃えてやった。三年かけて、今のお前がある」
言葉の一つひとつが、湿った布のように胸に貼り付く。事実と違うわけではない。ただ、事実の配置だけが、巧妙に組み替えられていた。詠唱の型を教えてくれたのはガルドではなく、初期の先輩回復術士だった。装備は、最初の半年ぶんの報酬から天引きされた自分の金で揃えた。それでも、その場で訂正することにどんな意味があるのか、リュートにはもう分からなかった。
「……それは」
「反論は聞かねえ」
ガルドは机を叩いた。杯が跳ね、赤い酒が卓布に染みる。染みは、羊毛の繊維に沿ってじわりと広がり、肉の脂と混ざって黒ずんだ輪を作った。
「規則第十四条、運営費は裁量内。育成費の名目で処理済みだ。申し立てても、ギルド審査は通らねえ」
「それから——」
ガルドが懐から一枚の羊皮紙を取り出した。赤い蝋印の押された、ギルド公式の書類。蝋の匂いが、酒と脂の匂いの奥から、冷たく立ち上がった。
「除名届だ。今朝、俺がギルドに出した。受理済みだ。お前の『鉄華の盾』所属は、本日付で解除されてる」
「……俺の同意は」
「パーティ規約、第七条。リーダー単独判断で除籍可能。お前、規約読んでなかったのか?」
ガルドが羊皮紙を卓に置き、指で滑らせてきた。葡萄酒の染みを避けるようにして、書類が滑る。リュートは歩み寄り、その書類を手に取った。紙の縁が、指先でかさりと鳴った。
除名理由の欄に、細かい字で一行。
『戦闘寄与度の継続的不足、および育成投資の回収完了による契約終了』
戦闘寄与度の、継続的不足。
リュートは、自分の顔が固まるのを感じなかった。ただ、指先の奥で、あの脈動が強くなった。昨夜より、今朝より、ずっと強い。右手の掌が熱を帯び、手の甲の血管が微かに浮き上がる。回復魔法の回路ではない。もっと奥の、知らない層。骨の内側を、別の血が流れ始めたような感覚だった。
「何か言いてえことがあれば、聞いてやる」
ガルドが杯を傾けた。喉仏が上下し、酒が流れ込む音が、静まった部屋にやけに大きく響いた。
リュートは羊皮紙を卓に戻した。破るでも、握り潰すでもなく、ただ、置いた。置いた時、紙の端が葡萄酒の染みに触れ、赤が細い毛細管のように文字へと這い上がっていった。
部屋を見回した。ドルク、ヴェルナ、ガルド。三年間、同じ鍋から食ってきた連中。誰も、こちらを見返さなかった。ドルクは杯の縁を指でなぞり、ヴェルナは天井の染みを眺めるふりをしている。エリーゼだけが、床を見ていた。膝の上で組まれた指が、一度だけ、強く握り直された。
「……世話になった」
それだけだった。喉の奥が、思っていたよりも乾いていた。声が、自分の声ではないように聞こえた。
リュートは踵を返した。扉の取っ手に手をかけた時、ガルドが背後で笑った。
「おい、リュート」
振り向かずに、手だけ止めた。
「S級は明日から五日かかる。俺たちが戻った頃には、お前の名前なんて誰も覚えてねえよ」
リュートは、扉を押した。
廊下に出る直前、背後でドルクが吹き出すような笑い声を上げた。ヴェルナが同調し、ガルドが肉を齧る音がそれに続いた。骨が歯に当たる、硬い音。
扉を閉めた。蝶番が、来た時と同じように、軋んだ。
宿の自室に戻り、リュートは最小限の荷物をまとめた。革の背嚢に、着替え二着、手帳、師匠から譲り受けた銀の針、回復魔法の基礎魔導書。薬草の予備を少々。金貨は、昨夜の分配分の二十枚から、宿代を払った残りの十三枚。それだけだった。指が、手帳の革表紙に触れた時だけ、わずかに震えた。表紙には、三年ぶんの手脂が染みて、角が丸く磨り減っていた。
三年分の荷物が、背嚢ひとつに収まった。
部屋を見回し、忘れ物がないか確認する。寝台の縁に腰を下ろしかけて、やめた。もう、この部屋の主ではない。窓の外で、雨樋を伝う水音が、静かに鳴っていた。
階段を降りる。宿の主人が帳場の向こうから顔を上げた。眼鏡の奥の目が、リュートの背嚢を一度見て、それから視線を逸らした。
「リュート様、どちらへ」
「世話になった。長旅に出る」
「——ご無事で」
それだけだった。主人は何も聞かず、帳簿に滞在終了の線を引いた。ペン先が紙を擦る音が、やけに長く続いた。
宿の扉を開けた瞬間、雨だった。
昨夜の雨より、細く、冷たい雨。石畳に落ちて、すぐに色を変える。リュートは外套の頭巾を被った。布越しに、雨粒が頭の上で小さく跳ねる。
街の大通りを抜け、西門へ向かう。冒険者の往来はまばらだった。顔見知りの何人かがリュートに気づき、声をかけようとして——背嚢と外套の装いを見て、言葉を呑んだ。既に、噂が回っている。酒場の窓からは、まだ明るい灯りと笑い声が漏れていたが、どの笑い声も、自分のためのものではなかった。
西門を抜ける。
衛兵が通行証を確認した。リュートの冒険者証は、ギルド証の端に『除名』の朱印が押されていた。朝の受付で、裏で既に押されていたのだろう。衛兵は何も言わず、証を返した。指先に触れた朱印は、まだ湿っていて、指に赤が薄く移った。
街道に出る。石畳は街の境界で途切れ、その先は土の道だった。雨が土を柔らかくし、足跡が残る。
リュートは歩いた。
振り返らなかった。
右手が熱い。指先の奥で、脈動が、もう止まらない。回復魔法の回路ではない、もっと根源的な層。街を出た瞬間、蓋が緩んだように、脈動が体の芯にまで広がっていく。心臓と同じ拍ではない。もっと遅く、もっと重い、別の生き物の鼓動だった。
雨脚が強まった。
リュートは頭巾を深く被り、土の道を踏み続けた。