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災禍の魔導士、森で幻獣と暮らす

第2話 第2話

第2話

第2話

井戸の滑車は、二時間かけてようやく素直に回るようになった。

 エルドは井戸の縁に腰を下ろし、錆で赤く染まった指を眺めていた。爪の間に粉のような錆が入り込んで、簡単には落ちそうにない。宮廷にいた頃なら、侍従が温めた湯と香油を用意し、磨き上げた爪にはわずかな曇りもなかった。あの頃の自分の手は、戦場の血痕も錆の粉も知らない、ただ杖を振るうためだけの手だった。今、目の前にあるのは泥で汚れ、木屑を挟んだ、不格好な手だ。けれど不思議と、こちらのほうが自分の手らしく思えた。  吊り上げた桶の底には、冷たく澄んだ水が張っていた。最初の一杯は、しばらく眺めていた。透き通った水面に木漏れ日が揺れ、底に沈んだ小さな砂粒がゆっくりと動く。やがて両手で掬って口に運ぶと、舌の奥がひやりと痺れた。鉄の味が微かに混じっている。錆びた滑車と、古い石積みと、地中の冷たい層を通って汲み上げられた水の味。  「……旨いな」  声にするとおかしくなった。水が旨いなどと、宮廷の晩餐会では誰も言わなかった。あそこでは全ての葡萄酒に産地と年代があり、全ての肉料理に讃辞が用意されていた。ここには何もない。だから、旨かった。  エルドはもう一杯汲み、今度は手ぬぐいを浸して顔を拭った。冷たさが目の奥までしみ込む。霧はもうすっかり晴れ、森の上に広がる空は淡い青色に澄んでいた。

 午前の作業は、薪割りと決めていた。  小屋の脇に倒れていた一本の丸太は、幸い芯まで腐ってはいなかった。手斧は竈の陰に転がっていた古い刃で、柄の握りが乾いて鈍い音を立てる。エルドは丸太の端を切り株の上に据え、振り上げた。  最初の一振りは、刃が斜めに入って滑り、丸太の皮を削っただけで終わった。  ——思ったよりも、難しい。  魔導士として鍛えた腕は、細かな術式を編む指先の精度には富んでいても、肩と腰を連動させて斧を落とす、この素朴な動作にはまるで慣れていなかった。二度目は刃が丸太の表面で弾かれた。三度目でようやく、短い繊維の束が一筋裂ける。  額に汗が浮いた。振り上げるたびに肩の筋が鳴り、腰の奥に鈍い重みが溜まる。宮廷の鍛錬場で木剣を振っていた頃とは、使う筋肉の場所がまるで違うらしかった。呼吸は次第に浅く、速くなった。それでも手を止めなかった。止める理由がないのだから、止めなくていい。  斧を振り下ろすたび、木と木がぶつかる乾いた音が森の奥へと抜けていく。音は梢の間を潜り、どこか遠くの岩肌に当たって跳ね返り、ひと呼吸遅れて薄く耳に戻ってきた。その反響の間にだけ、鳥の声が短く挟まり、また沈黙が戻る。エルドはいつしか、その間合いに合わせて息を整えていた。吸って、振り上げ、吐きながら落とす。肩が覚えるより先に、森のほうが自分の動きに節をつけてくれているような、妙な心地よさがあった。  日が高くなるにつれて、裂けた木の断面から樹液の匂いが立ちのぼった。青臭く、わずかに甘い。指先に細かな木屑が刺さり、掌の内側の皮が一枚、気づかぬ間に剥けていた。血が滲むほどではない、小さな傷だった。  二十本ほど割り終えたあたりで、エルドは切り株に腰を下ろし、袖で首筋を拭った。汗は冷たい風に触れるとすぐに粒になって落ちた。近くの葉に止まっていた小さな虫が、羽を震わせて飛び立つ。  昼餉は、背嚢の底に残っていた堅い黒パンと、井戸の水だけだった。パンは指で強く押さねば裂けないほど乾いていたが、水に浸すと繊維がゆっくりとほどけ、舌の上で麦の甘みが戻ってくる。咀嚼するたび顎が疲れ、喉が乾き、また水を汲みに立つ。単純な循環だった。  食べ終えたころには、肩と腰に気持ちのいい疲労が根を張っていた。戦場を駆け回った夜の、神経だけがひりつく疲れとは違う。筋肉そのものがゆっくりと縮んでいくような、深い倦み方だった。  午後は、屋根だった。

 梯子は見当たらなかったので、小屋の裏手に生えていた若木を数本束ねて間に合わせた。魔法で一瞬のうちに結ばせることもできた。エルドはそれをしなかった。麻紐の端を歯で噛み、指先で縒り、結び目を幾度か締め直す。結び直しているうちに、指の皮がまた剥けた。構わなかった。  穴は、ちょうど竈の真上にあった。人の頭ほどの大きさで、縁の石が崩れ、梁の一本が黒く焦げている。ずっと昔に落雷でも受けたのかもしれない。エルドは屋根の上に身を伸ばし、焦げた梁の具合を手のひらで確かめた。芯はまだ固い。これなら取り替えずに添え木で済む。  森の入り口で切った細い枝を何本か束ね、縄で梁の脇に結び固める。隙間には、裏手の岩肌に張り付いていた厚い苔を、大きな葉ごと剥がして詰め込んでいった。湿った苔の匂いが、手のひらから腕に移っていく。作業のあいだ、屋根の傾斜に沿って風が通り抜け、エルドの汗ばんだ首筋を冷やしていった。  やがて夕刻が近づき、空の端が茜色に染まり始めた。森の影がゆっくりと伸び、梢の間を渡っていた風が、地面のほうへ降りてくる気配がある。エルドは屋根を下り、小屋の前の切り株に腰を下ろした。割った薪を竈に運び、火打ち石を探し出し、何度か空振ったあとでようやく細い火がついた。乾いた杉葉に移り、次に薪に移り、小屋の中がゆっくりと赤く暖まっていく。  鍋は、棚の奥にあった底の深い鉄鍋を水で洗って使った。沸いた湯に干し肉を一切れと、昼のうちに沢で摘んでおいた野蒜らしきものを数本放り込む。味付けは袋の底の岩塩だけ。湯気が立ちのぼり、肉と青葉の匂いが狭い小屋に満ちていく。それだけで充分だった。  窓の外は藍色に沈み、森の奥から夜のざわめきが這い上がってきていた。虫の声、木の葉が擦れる音、どこか遠くを流れる沢の音。そのすべてが、ばらばらに聞こえながら、不思議と一つの低い旋律を織っていた。  エルドが匙を運ぶ手を止めたのは、その旋律の隙間に、ひときわ細い鳴き声が混じったときだった。  ——ひゅう、と。  息が裏返ったような、喉の奥から絞り出したような声。二回、三回。それきり、静寂に溶けて消えた。  エルドはしばらく、鍋の湯気の向こうを見つめていた。幼い、小さな生き物の声だった。仔獣か、雛鳥か。何かに怯えているようにも、母を呼んでいるようにも聞こえた。宮廷魔導士の耳は、いまだに遠くの音を拾う癖が抜けていない。声の方角、距離、それを発する体の大きさの見当まで、意志より先に頭の中で組み上がってしまう。北東、ほんの二百歩ほど先。体躯は手のひらに収まる程度。呼吸は浅く、間隔は不規則。——そこまで読み取ってしまってから、エルドは小さく舌打ちをした。知りたくて聞いたわけではない。ただ、耳が勝手に仕事をしてしまうのだ。こういう器用さが、これまで幾人もの人間を戦場へ送り出す役に立ち、そして幾人もの亡骸を数える役にも立ってきた。  立ち上がりかけた膝を、エルドはもう一度折った。  深追いすべきではない。森は広く、夜は深い。まだ地形も獣道も把握していない自分が、たった一つの声を頼りに踏み込めば、助けになる前に道に迷うのが関の山だった。それに——何より、自分は駆けつける役目から降りた人間だった。どこかで誰かが鳴いていても、すぐに飛び出していくのが役目ではない、そういう暮らしを選んだのだった。  エルドは匙を動かし、冷めかけた汁を口に運んだ。塩気の薄い湯が、喉を落ちていく間に、胸の奥でちりりと小さな音がした気がした。気のせいだ、と自分に言い聞かせた。

 火を小さくしてから、寝台に戻った。昨夜よりは幾らか清めた毛布に身を包み、天井の梁を見上げる。蜘蛛の巣はもう払った。けれど屋根を塞いだ苔のあいだから、ほんのわずかに夜の星が覗いていた。風が通る。冷たいが、嫌ではなかった。  小さな鳴き声は、もう聞こえなかった。耳を澄ましても、虫の音と、沢の音と、自分の呼吸だけだった。  ——明日、森の奥に足を向けるかどうかは、明日の自分が決めればいい。  そう思った瞬間、瞼が静かに閉じていった。  翌朝、エルドはいつもより早く目を覚ました。霧はまだ地を這っていて、鳥の声も控えめだった。井戸で顔を洗い、手ぬぐいを軽く絞りながら小屋の前に立ったとき、足元に視線が落ちた。  小屋の扉の前、薪を積み直しておいた脇の土の上に、昨日まではなかった足跡が、いくつか残っていた。  小さな、指先ほどの窪みが、三つ。四つ。前脚と後脚の並びから見て、四足の獣のものだろう。だが、エルドが知るどの獣の跡とも、少しだけ形が違っていた。爪の痕は浅く、鉤爪というより、子どもの手のひらを押しつけたような、丸みを帯びた痕だった。足跡は扉の前で一度立ち止まり、薪の束のほうへ近づいてから、ためらうように小さく旋回し、そしてふっと森の方角へ消えていた。歩幅は短く、踏み込みは弱い。体の重みを地に預けきれない、まだ脚が覚束ない若い生き物の運び方だった。  霧の向こうで、鳥が一声、短く鳴いた。

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