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災禍の魔導士、森で幻獣と暮らす

第1話 第1話

第1話

第1話

喝采が、また響いている。

 大広間を埋め尽くす貴族たちの拍手が、エルドの鼓膜を叩く。金糸の刺繍が施された礼服は肩に食い込み、胸元の勲章が鈍く光を弾いていた。壇上から見下ろす顔、顔、顔。どれも笑っている。どれも同じに見える。  ——「災禍の魔導士」。  大陸戦争を終わらせた英雄。その二つ名を呼ばれるたび、エルドの奥歯がわずかに軋んだ。終わらせた、という言葉の裏側にどれだけの焦土があったか。彼らは知らない。知ろうとしない。  宰相が何か言っている。新たな領地の下賜、宮廷魔導士団の名誉総長への就任。エルドは頷いているふりをしながら、壇上の燭台の炎を数えていた。十二本。左から三番目の芯が曲がっている。  式典が終わり、回廊に出る。石壁に反響する自分の靴音だけが妙にはっきり聞こえた。すれ違う文官が深々と頭を下げる。侍女が頬を染めて目を逸らす。エルドはそのどれにも焦点を合わせられなかった。  私室に戻ると、窓から王都の夜景が広がっていた。街灯の連なりが星のように瞬いている。美しいはずだった。かつてこの景色を守るために杖を振るったのだから。  けれど今、エルドの目に映るのは光ではなく、光が届かない暗がりのほうだった。壁に掛けられた大陸地図の東端。山脈を越えた先に広がる、名前すら記されていない緑の空白。辺境の森。地図製作者がさじを投げた、人の営みの外側。  エルドは机に向かい、羊皮紙を一枚引き寄せた。書くべき言葉を探して、しばらくペンが止まる。インクが穂先で乾きかけ、最初の一滴が紙に小さな染みを落とした。それを見つめる。言葉にすればするほど嘘になる気がした。だから、削った。飾らない言葉だけを選んだ。やがて、短い一行だけを記した。

『すべてお返しします。探さないでください。』

 勲章を外し、礼服を脱ぎ、旅装に着替える。最後に振り返った私室は、三年暮らしたとは思えないほど生活の痕跡がなかった。当然だ。ここはただの宿泊所だった。一度も、帰る場所ではなかった。

 王都の裏門を抜けたのは、月が中天に差しかかる頃だった。  衛兵の詰所を避け、商人が使う間道を辿る。魔力を完全に抑えれば、エルドはただの痩せた旅人に過ぎない。誰にも呼び止められなかった。  街道をしばらく歩き、最初の分かれ道で東を選んだ。地図の空白に向かって。理由は特になかった。ただ、人が少ない方角がいいと思った。  旅は二週間を超えた。  街道が細くなり、やがて獣道に変わり、それすらも草に埋もれていった。村を三つ通り過ぎたが、最後の村を出てからは人の姿を見ていない。背負い袋の干し肉は底をつきかけ、水は沢で汲んだ。魔法で食料を生み出すこともできたが、そうしなかった。腹が減るという感覚が、むしろ懐かしかった。宮廷では空腹を感じる暇もなかったから。胃が軋むたび、自分がまだ生身の人間であることを思い出す。英雄でも魔導士でもない、ただ腹を空かせる一人の人間であることを。  森に入ったのは、旅を始めて十七日目の昼過ぎだった。  樹冠が空を覆い、木漏れ日が地面にまだらな模様を描いている。苔むした岩の間を縫うように歩くと、湿った土の匂いが立ちのぼった。腐葉土と、どこか甘い花の香り。知らない植物が足元に群生している。踏まないように避けると、葉の裏で虫が光った。  小一時間ほど歩いただろうか。木々の合間に、不自然な直線が見えた。  石壁だった。蔦に覆われ、角が崩れかけた、小さな石造りの小屋。屋根には穴が開き、扉は片方の蝶番が外れて斜めに傾いている。窓枠に残ったガラスは半分が割れ、残りは埃で曇っていた。  誰かが住んでいた痕跡はある。だが、それはずいぶん昔のことだろう。井戸の滑車は錆び、小屋の前に積まれた薪は苔に覆われて原型を失っていた。  エルドは扉を押し開けた。蝶番が甲高い悲鳴を上げる。中は薄暗く、埃が舞い上がって鼻の奥がむずがゆくなった。石の竈、木の棚、壁際の寝台。それだけの空間。棚には陶器の欠片がいくつか残っていて、かつてここで誰かが食事をし、眠り、朝を迎えていた日々があったのだと静かに語っていた。  「ここでいい」  声に出したのは、誰かに聞かせるためではなかった。自分に言い聞かせたのでもない。ただ、口からこぼれた。荷を下ろし、旅装のまま寝台に腰を下ろすと、木枠がぎしりと軋んだ。埃っぽい毛布を払い、横になる。  天井の梁に蜘蛛が巣を張っている。風が穴の開いた屋根から入り込み、巣がかすかに揺れた。  ——静かだった。  宮廷の夜は静かではなかった。衛兵の巡回、馬車の車輪、遠くの酒場の喧騒。そして何より、自分の頭の中が静かではなかった。戦場の記憶が夜ごと蘇り、焦土の匂いが鼻腔にこびりつき、まぶたの裏で炎が揺れた。眠ることは、戦いの延長だった。  けれど今、聞こえるのは風の音だけだった。梢を渡る風。葉擦れ。遠くで鳴く、名も知らぬ鳥の声。  瞼が重くなる。抗わなかった。何年ぶりだろう、眠りに落ちることを恐れないのは。

 目を覚ましたとき、小屋の中は白い光に満ちていた。  割れた窓から朝霧が流れ込んでいる。細かな水滴が光を含んで、空気そのものが淡く発光しているように見えた。エルドはしばらく寝台に横たわったまま、その光を眺めていた。  身体が軽い。  それは比喩ではなく、実感だった。肩に乗っていた重さ——勲章でも礼服でもない、もっと漠然とした、名前のつけようのない重さが、眠りの間にどこかへ流れ落ちたらしい。  起き上がり、傾いた扉を押し開けて外に出た。  霧の森が広がっていた。木々の輪郭がぼやけ、地面から立ちのぼる白い靄が膝のあたりまで漂っている。音はない。いや、あった。鳥の声だ。高く、短く、規則的に。まるで朝の到来を知らせる鐘のように。  裸足のまま一歩踏み出すと、苔が冷たく柔らかかった。指の間に朝露が染み込む。肺の奥まで冷えた空気を吸い込むと、腐葉土と樹液と、かすかな花の匂いが混ざり合っていた。この匂いには名前がない。名前をつける必要もない。ただの、森の朝の匂いだった。  エルドはゆっくりと息を吐いた。白い吐息が霧に溶けて消える。  生きていてよかった。  その感覚が胸の底から湧き上がったとき、エルドは少しだけ驚いた。戦場でも、凱旋の日も、勲章を授けられた夜も感じなかったものが、この何もない森の朝に、ただそこにあった。  理由はわからない。わからなくていい。  小屋に戻り、崩れかけた竈を確かめる。石組みはまだ使えそうだった。井戸の滑車は直す必要がある。屋根の穴は——まあ、雨が降るまでに塞げばいい。  やることは山ほどあった。そのどれもが、誰かの命令ではなかった。誰に報告する必要もなく、誰の承認も要らない。失敗しても叱責はなく、成功しても喝采はない。ただ自分のために、自分の手で、自分の速さで進めればいい。その当たり前が、ひどく新鮮だった。  エルドは袖をまくり、小屋の前に転がっていた苔むした薪の残骸を片付け始めた。手のひらに木屑がこびりつく。爪の間に土が入り込む。  それでよかった。魔法で片付けることもできた。けれど、今は手を動かしていたかった。この手は長い間、壊すためだけに使ってきた。砕いた城壁の数も、薙ぎ払った森の面積も、もう数えたくはない。だからせめて、今日からは何かを直すために使いたかった。たとえそれが、見知らぬ誰かが残した古い小屋であっても。  霧が晴れ始めていた。木漏れ日が地面に落ち、苔の緑が鮮やかに浮かび上がる。どこかで水の流れる音がする。沢が近いのかもしれない。  ふと、森の奥から微かな音が聞こえた。風とも枝折れとも違う、何か生き物の気配。エルドは手を止めて耳を澄ませたが、それきり音は途絶えた。  気のせいか。あるいは、森の住人が新しい隣人を窺いに来たのか。  どちらでもいい。エルドは作業に戻った。今日やるべきことは、まず井戸だった。水がなければ何も始まらない。  陽が少しずつ高くなり、森に朝の温もりが広がっていく。鳥の声が増えた。一羽だったのが、二羽、三羽。互いに呼び交わすように、短い旋律を繰り返している。  エルドは錆びた滑車に手をかけながら、その声をただ聞いていた。固く噛み合った錆を指先でこじるたび、赤茶けた粉が風に散った。不器用な作業だった。魔導士として鍛えた手は精緻な術式を描くことには長けていても、こうした地道な力仕事には慣れていない。それでも、滑車が一度だけ軋みながら回ったとき、エルドの口元にかすかな笑みが浮かんだ。戦争を終わらせたどんな魔法よりも、その小さな手応えのほうが確かだった。

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