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辺境谷の薬湯日記

第1話 第1話

第1話

第1話

馬車が最後の峠を越えたとき、リーネの鼻先をかすめたのは、もう何年も忘れていた土の匂いだった。

冷たく湿った山の空気が、幌の隙間から流れ込んでくる。杉に似た針葉樹の青い香り、その下に混じる腐葉土の甘さ。王宮の回廊に満ちていた香油と蝋燭の匂いとは、何もかもが違う。あの回廊では、すれ違う者たちが纏う香のひとつひとつにまで意味があった。誰が何の香油を選んだか——それだけで派閥の動きが読めた時代もある。リーネは無意識に胸いっぱいに息を吸い込み、それから自分がそうしたことに少し驚いた。十日間、ほとんど深い呼吸をしていなかったことに気づいたのだ。馬車の中ではずっと浅い息しかできなかった。揺れるたびに胃の底が重く沈み、乾いたパンを齧っても半分も喉を通らなかった。眠れたのは十日のうち三晩だけで、残りの夜は幌布の継ぎ目から覗く星を数えて過ごした。

御者台から声がかかる。

「見えてきたぞ。あれがヴェルデンだ」

幌を持ち上げて外を覗くと、山の斜面にへばりつくようにして、十数軒の家屋が点在していた。石壁に木の屋根、煙突から細く立ち昇る煙。街道から外れた谷筋の奥、王都からは馬車で十日もかかる僻地。地図の端に小さく名前が載っているだけの、忘れられたような村だった。煙の匂いが風に乗ってくる。薪を燃やす素朴な匂いだ。宮廷の暖炉で焚かれていた白樺の香木とは違う、もっと泥臭くて、生活そのものの匂いだった。

御者は荷台からリーネの革鞄をひとつだけ降ろすと、それ以上何も言わずに馬車を返した。目すら合わせなかった。罪人の荷を運んだことを、早く忘れたいのだろう。砂利を踏む蹄の音が遠ざかり、やがて風の音だけが残る。

四月の山はまだ寒い。薄い外套の襟を合わせながら、リーネは村の入り口に立ち尽くした。出迎えはない。左遷の薬師が来るという通達は届いているはずだが、誰も姿を見せなかった。家屋の窓がいくつか僅かに開いているのに気づいた。覗いている。けれど出てはこない。王都から追われてきた薬師を、どう扱えばいいのかわからないのだろう。それは正しい判断だとリーネは思った。見知らぬ土地の見知らぬ罪人に、安易に近づくべきではない。

それでいい、とリーネは思った。

宮廷薬師局の薄暗い審問室で、局長が読み上げた罪状が耳の奥でまだ響いている。禁制薬調合の嫌疑。王族への毒物供与未遂。どれひとつとして身に覚えがない。十二年間、毒見役まで兼ねて王宮に仕えた。誰かが調合を誤れば自分の舌で確かめ、幾度か意識を失ったこともある。三年前の冬、第三王子の解熱薬に混入された鉛白を舌先で見抜いたのはリーネだった。あのとき痺れた唇の感覚は今でも覚えている。丸二日、水さえ満足に飲めなかった。それでも弁明の機会は与えられなかった。局長の背後に立っていた第二派閥の筆頭薬師が、わずかに口の端を上げたのを、リーネは見逃さなかった。あの笑みの意味を、今さら考える気にはなれない。考えたところで、ここに立っている現実は変わらない。

けれど今、その記憶は不思議なほど遠い。まるで分厚い霧の向こうの出来事のように輪郭がぼやけていく。代わりに、足元の土を踏む感触がやけに鮮明だった。柔らかい。雨上がりの土だ。靴底を通して冷たさと湿り気が伝わってくる。薬師の靴は革底が薄い。調合台の前で微細な感触を拾うためだが、こうして山道を歩くと石のひとつひとつが足裏に食い込んだ。

村の中ほどまで歩くと、道端に座っていた老婆がリーネを一瞥し、無言で坂の上を指さした。深く刻まれた皺の奥に、感情の読めない小さな目があった。リーネが礼を言おうと口を開きかけたが、老婆はもう視線を手元の豆の莢剥きに戻していた。その方向に歩いていくと、村はずれの斜面に小さな小屋が見えた。

割り当てられた住居だと、すぐにわかった。

屋根の西半分が崩れ落ちている。壁の漆喰は剥がれ、戸口の木枠は歪んで半開きのままだった。蔦が壁を這い上がり、石壁の隙間に根を下ろしている。何年も人が住んでいない建物特有の、ゆるやかな崩壊の途中だった。中を覗くと、埃の積もった棚と、足の折れた寝台と、蜘蛛の巣だらけの窓がある。埃の層は指の第一関節ほどの厚さがあり、足を踏み入れると靴跡がくっきりと残った。空気がかび臭く、喉の奥がかすかに痛む。薬棚らしき家具の引き出しを開けてみたが、干からびた草の欠片がいくつか転がっているだけだった。

以前ここにいた薬師は、とうの昔にいなくなったのだろう。

リーネは革鞄を床に置き、歪んだ窓枠に手をかけて押し開けた。木枠が軋んで抵抗したが、肩で押すと錆びた蝶番が悲鳴のような音を立てて動いた。途端に、湿った山の風が部屋に流れ込み、埃が舞い上がる。

山の稜線が目に飛び込んできた。

夕暮れの光を受けて、連なる峰々が淡い紫色に染まっている。手前の斜面には名前も知らない野草が風に揺れ、その向こうに針葉樹の森が黒々と広がっていた。空が広い。宮廷の中庭から見上げる四角く切り取られた空とは比べものにならないほど、どこまでも広かった。雲がひとつ、山の頂を越えて東へ流れていく。その端が夕陽に焼かれて、金と橙の境目で滲んでいた。

不意に、目の奥が熱くなった。

泣いているのだと気づくまでに少し時間がかかった。悔しさでも悲しさでもない。十二年間、ずっと身体のどこかに力を入れていた。毒見のたびに舌の上で苦味を転がしながら、これは安全か、これは罠か、と神経を張り詰めていた。派閥の思惑を読み、上官の機嫌を窺い、調合室では常に誰かの視線を背中に感じていた。夜、寝所に戻っても完全には緊張が解けなかった。薬師局の鍵を三度確かめ、寝台の下に解毒薬の小瓶を忍ばせてからでなければ目を閉じられなかった。

それが全部、なくなった。

涙を拭いもせず、リーネはしばらく山の稜線を眺めていた。風が頬を撫でていく。冷たいけれど、痛くはない。涙の筋が風に冷やされて、こめかみのあたりが少し引きつる。それすらも、久しぶりに感じる「ただの身体の感覚」だった。毒でも、病でも、誰かの悪意の結果でもない、ただ泣いて、風が吹いた、それだけのこと。

「——もう、誰の命令も聞かなくていい」

声に出してみると、言葉が山の空気に溶けて消えた。誰にも聞かれない。誰にも咎められない。ただそれだけのことが、今のリーネにはひどく贅沢に感じられた。

日が落ちる前に、最低限の寝場所だけは確保しなければならない。リーネは袖で顔を拭い、革鞄から替えの外套を引っ張り出して寝台に広げた。足は折れているが、壁際に寄せれば傾かずに済む。屋根が残っている東側に寝台を移し、崩れた西側には革鞄で簡易の雨除けを作った。

手を動かしていると、少しずつ気持ちが落ち着いてくる。身体を動かすこと、何かを整えること。それは宮廷でも同じだった。どれほど理不尽な夜勤を命じられても、薬研を握り、乳鉢を回し、薬草を刻んでいる間だけは、余計なことを考えずに済んだ。

薬棚の引き出しをひとつずつ確認していく。三段目に、小さな乳鉢と乳棒が残っていた。欠けてはいるが、使えなくはない。リーネは乳鉢を掌に載せ、指先で縁をなぞった。すり減った石の手触りに、前任者の仕事の年月がかすかに残っている。五段目には火打ち石と、半分だけ残った蝋燭。最下段に、変色した薬草図鑑が一冊。表紙の革は湿気で波打ち、角がほつれていたが、中の紙はまだ読める状態だった。開いてみると、この地方の自生植物が几帳面な筆跡で書き込まれていた。前任の薬師のものだろう。

頁をめくる指先が止まった。余白に、見慣れない植物のスケッチが描かれている。細長い葉に、白い——いや、かすかに青みを帯びた花弁。横に走り書きで「裏手ノ斜面、春ニ光ル」とだけ記されていた。光る、という表現が引っかかった。薬草が物理的に光るなど、王宮の薬学書には載っていない。比喩か、あるいは——。リーネは図鑑のその頁に指を挟んだまま、しばらく考え込んだ。

リーネは図鑑を閉じ、窓の外に目をやった。

小屋の裏手は草が伸び放題の斜面になっている。夕闇が迫るなか、目を凝らすと、草むらの奥にかすかな光点がちらついているように見えた。蛍にしては季節が早い。色も違う。蛍の光はもっと黄色く、明滅する。あれは青白く、静かに、まるで呼吸するように揺らいでいた。リーネは薬師としての習性で、その微かな違和感を頭の隅に留めた。

明日、確かめに行こう。

寝台に横になると、板張りの天井の隙間から一番星が見えた。薄い外套にくるまり、欠けた乳鉢を枕元に置いて目を閉じる。乳鉢の冷たい石の感触が、指先にまだ残っていた。

山風が小屋の壁を揺らしている。どこかで梟が鳴いた。遠く、もうひとつ。呼び合うように、間を置いて二声。

宮廷の寝所は絹の帳に囲まれて静かだったが、あの静けさはいつも緊張と隣り合わせだった。廊下を歩く靴音、衣擦れ、囁き声——深夜のどんな小さな物音にも意味があり得た。ここの闇は違う。深くて、冷たくて、けれど敵意がない。虫の声と風の音と、木々が軋む音。それだけだ。それだけしかない。

リーネは、辺境での最初の夜に、ひどく穏やかな眠りに落ちた。

——裏手の斜面で、春の光を弾くあの葉が何なのか。まだ、知らないままで。

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