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辺境谷の薬湯日記

第2話 第2話

第2話

第2話

夜半、頬に落ちた一滴の冷たさで、リーネは目を覚ました。

瞼を開ける前に、それが雨粒だと判じていた。十二年間、薬液の零れを頬や手首に受けたことは数えきれない。けれど今そこに落ちているのは澄んだ水で、鼻先を抜けていくのは、鉄の匂いでも香油の匂いでもなく、濡れた木と古い土の匂いだった。身体を起こすと、板張りの天井の隙間から、細い銀の糸が幾筋も垂れ下がっている。寝台の足元の板が、外側から黒く滲み始めていた。

外では、風よりも先に雨の音が鳴っていた。屋根の西半分は昨日のうちに崩れ落ちている。その欠けたところから、山の夜の雨がまっすぐ寝台の上に降り込み、外套の肩口をもう重くしていた。リーネは慌てなかった。むしろ、眠っている間にこの小屋が自分を濡らし始めたという事実そのものが、まだ少し他人事めいて可笑しかった。宮廷ならば、絹の帳越しに雨音を聞くあいだに、誰か下働きの者が天井を見回りに行く足音がしたはずだ。ここにはそんな足音はない。ただ雨があって、自分がいて、それだけだった。

革鞄を引き寄せ、麻布を一枚引っ張り出して頭上に張り渡す。釘もないので、寝台の角と壁の梁に布の端を結びつけるしかなかった。最後の結び目を締めながら、リーネはふと笑った。宮廷の調合室で結んだ最後の結び目は、封をした禁制薬嫌疑の証拠袋だった。同じ指で、今は雨除けを縛っている。指先の記憶だけが、同じだった。

布の下にもぐり込んで目を閉じると、雨音が麻の表面で小さく弾け、やがて一定のリズムになった。次に目覚めたとき、その音はもう止んでいた。

朝靄が、斜面をゆっくりと登っていた。

窓の外では、杉に似た針葉樹の梢から滴が落ち、草の葉の上で小さな球になって光っていた。昨夜の雨でぬかるんだ土は、踏むと靴底に重く吸い付く。リーネは薄い外套の襟を合わせ、まずは屋根の状態を確かめに外へ回った。

西半分の崩れは、思っていたより深く進んでいた。垂木の二本が中途から折れ、割れた屋根板が軒下に散乱している。漆喰の剥がれた壁には、蔦の根が深々と食い込んでいた。完全な修復は無理だが、崩れた板を組み直し、上から油紙と古い麻布を被せれば、次の雨はしのげる。そう判じるまで、おおむね半刻もかからなかった。十二年のあいだ、リーネは薬材の劣化具合を一目で見抜く訓練を受けてきた。腐りの進んだ木材と、まだ使える芯を、指先で叩いて聞き分けるのはそれに似ていた。

問題は、板も釘も、自分の手元にはひとつもないことだった。

村へ下りるしかない。リーネは欠けた乳鉢を棚の奥に戻し、外套の裾を腰のあたりで結わえ直した。裾が長いと、山道の土ですぐに重くなる。薬師の身嗜みとしては褒められない姿だったが、ここに身嗜みを見てくる誰かがいるわけでもなかった。

村の辻では、昨日の老婆がまた豆の莢を剥いていた。板と釘を売ってくれる方はいるかと尋ねると、老婆は手を止めずに、「木こりに聞け」とだけ言い、谷の下のほうを指さした。丸太を扱う男の作業場が沢の手前にある、という意味だと、身振りから察した。

二軒先の井戸端では、桶を運ぶ女が二人、顔を見合わせて口をつぐんだ。リーネが会釈しても、浅く頷き返すだけで、井戸の縁に水音を立てる仕事に戻っていく。子どもが一人、母親らしき女の腰に顔を押しつけて、こちらを覗き見ていた。宮廷の廊下ですれ違う視線とは、質が違った。敵意ではない。値踏みでもない。ただ、触れて火傷するかもしれない器物を、遠巻きに眺めるような目だった。

それも、当然のことだとリーネは思った。罪状の詳細は届いていないだろうが、王都から罪人扱いで押し出された薬師が来た、という事実だけで十分だ。彼らには、日々の薪と豆と子どもの風邪がある。そこに、どんな火種かわからない余所者を抱え込む義理はなかった。

木こりの作業場は、村の一番下の沢沿いにあった。積まれた丸太の陰で、革のエプロンをつけた大柄な老人が、斧の柄に布を巻き直している。両手は節くれ立ち、親指の付け根にひと筋の古い切り傷が白く残っていた。挨拶をして、板を分けてほしい旨を告げると、老人は顔も上げずに、

「金はいらん」

と言った。

「……え」

「雨漏りの小屋に住まわせとくのは、村の沽券にかかわる」

それだけ言うと、老人——後で村の誰かがゴルド、と呼ぶのを耳にすることになる——は、積まれた板から長さのそろった三枚を無造作に抜き出し、藁縄でくくってリーネの足元に置いた。釘の束も、一握り添えられる。礼を言いかけると、ゴルドは手の甲を小さく振って、再び斧の柄に向き直ってしまった。話は終わり、という仕草だった。

板を抱えて坂を登る途中、リーネは一度だけ振り返った。ゴルドはもう斧を研ぎ始めていて、こちらは見ていなかった。

板で西半分の穴を塞ぎ終わったのは、昼をだいぶ過ぎた頃だった。

慣れない金槌で指の第二関節を二度ほど打ち、親指の爪の脇に血豆を作った。指先の感覚は薬師にとって命だ。宮廷ならば小言を食らう失敗だったが、今は自分の痛みが、自分のものであるだけだった。応急の屋根の上に油紙を張り、石で四隅を押さえ終えると、リーネは肩で大きく息をついた。

それから、ようやく、昨日から気になっていたことに戻った。

小屋の裏手、斜面の草むら。図鑑の余白に「裏手ノ斜面、春ニ光ル」とだけ書き残された、あの葉。

濡れた草を掻き分けて斜面を登っていくと、昨夜見た青白い光点はもう消えていた。夜のあいだだけ発光するのだろう。けれど、草むらの中ほどに、確かに見慣れぬ葉があった。細長く、縁が内側へ僅かに巻き込んでいる。指先で一枚を擦ると、樹脂にも似た粘りと、かすかに甘い匂いが残った。

リーネは膝をついて、しばらくその葉を見つめた。王都の薬学書には載っていない。図鑑の走り書きにも、葉の形と光ることしか書かれていない。けれど、指先にこびりついたこの匂いを、リーネはどこかで知っている気がした。ずっと昔、見習いの頃、師が「西の山でしか採れぬ、幻の止血草」と話していた——あの、棚の奥で埃をかぶっていた枯れた標本の匂いに、よく似ていた。

胸の奥で、薬師の目が小さく灯った。

とうに忘れたつもりでいた興奮だった。禁制薬の嫌疑をかけられた日に、自分の指先からは薬草を見る力ごと抜け落ちたと思っていた。それが、山の斜面のこんな何でもない草むらで、勝手に戻ってきている。

斜面をさらに登ろうとしたとき、足元の濡れた土に、くっきりと残された足跡が目に入った。

大きい。指先を広げた掌ほどもある、四本指の肉球痕。爪の跡が深く、土が盛り上がっている。野犬にしては大きすぎた。王都の動物図鑑で見た狼の絵より、一回りは広いように思えた。足跡は斜面を斜めに横切り、獣道らしき細い筋になって、霧のかかった谷のほうへ続いていた。

リーネは、息を詰めた。

恐怖よりも先に、考えたのは足跡の古さだった。爪の縁に、新しい土の粒がまだ残っている。昨夜の雨でならされた土の上に、朝のうちに付けられたものだ。つまり、この獣は、いま谷のどこかにいる。

本来なら、ここで引き返すべきだった。薬師は獣医ではない。武器もない。小屋に戻り、戸を閉め、村人に知らせる。それが正しい手順だ。

けれど、足跡の先に続く獣道の向こうに、薄い霧が立ち込めているのが見えた。霧の色が、普通ではなかった。朝の山霧は、もっと灰色か、青みがかった白だ。あの霧は——ほんの少しだけ、温かい色をしていた。

温い水が、そこに湧いている。

薬師の身体が、理屈より先にそう告げていた。

獣道は、思ったよりも緩やかに谷へ下っていた。

一歩進むごとに、霧が濃くなり、空気の温度がほんの僅かに上がっていく。頬に触れる湿気が、山の冷気ではなく、もっと柔らかい、湯気に近い何かに変わりはじめていた。足元の草の茎が、ときおり小さく光を弾く。露ではなかった。よく見れば、あの細長い葉が、斜面に沿って点々と続いている。誰かが種を蒔いたように、等しい間隔で、谷の奥へ。

リーネは、足を止めなかった。

この先に、何かある。薬師としての十二年が、背中でそう囁いていた。

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