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辺境谷の薬湯日記

第3話 第3話

第3話

第3話

霧の層を一歩くぐるたびに、空気の重みが変わった。

リーネは足元の細長い葉を目印に、獣道をゆっくりと辿り続けた。泥のぬかるみに四本指の肉球の跡が点々と残り、朝方つけられたばかりのそれは、谷の底へほぼ一直線に続いていた。背中にはまだ緊張の芯が残っている。けれど頬を撫でる湿気が山の冷気ではなく、柔らかな湯気に似た温みを帯びていくにつれ、薬師としての好奇心のほうが少しずつ勝っていった。指先も、外套のなかで強張っていた関節が、ひと節ずつほどけていくのが分かる。

鼻腔の奥に、かすかな甘い鉱物の匂いが引っかかった。鉄でも硫黄でもない。熟れた果実の皮を剥いたあとに残る、静かな甘さに似た気配だった。こんな匂いの温泉を、リーネは一度も嗅いだことがなかった。王都の薬典には北方の硫泉と東方の鉄泉の記述しか載っていない。甘い、と記された湯は、どの頁にもなかった。匂いは霧の濃淡に合わせて強まったり薄れたりを繰り返し、息を吸うたびに喉の奥へ、わずかに残香を置いていった。

足元の葉はしだいに密に並び、やがて一面の群落となって斜面を覆いはじめた。小さな白い花弁が、霧のなかでぼんやりと光を宿している。昨夜、草むらの奥で揺れていた青白い光点——あれはこの花の一枚一枚が放っていたものだったのだ、と今ようやく合点がいった。昨夜の自分が感じた、得体の知れない畏れの正体が、静かな花の吐息に過ぎなかったことに、小さく肩の力が抜けた。

ひらけた。

谷の底が、目の前に開いた。

息が、一度止まった。

谷は楕円形の小さな盆地で、周囲をなだらかな斜面がぐるりと取り囲んでいた。その底一面に、同じ白い花が咲いていた。咲いていた、というよりも、咲き敷かれていた、という言葉のほうが近い気がする。霧のなかで無数の花弁が、淡い青を含んだ白で揺れている。雫を含んだ花びらは、朝の光を内側から発しているように見えた。風が通ると花の海は緩やかな波になり、斜面の縁まで青白い光の漣(さざなみ)が走っていく。風が止むと、今度は花弁の一枚一枚が、呼吸をしているかのようにわずかに震えた。花の波が引いたあとには、ごく小さな音——蜜蜂のそれよりも細い、糸を爪で弾いたような澄んだ音——が、谷の底にかすかに残った。耳を澄ますまでは気づかなかったその音が、花の揺れと確かに重なっていることに気づき、リーネは喉の奥で小さく息を詰めた。

リーネは膝が崩れそうになるのを、外套の裾を握ることで堪えた。握った布地が、指のなかでじっとりと湿っていく。

そっと息を吸う。甘い、鉱物と樹脂の混じった香り。その匂いを、リーネの指先がとうに知っていた。

月白草(げっぱくそう)。

それは、王都の薬学書のなかで最も古い一冊の奥付にだけ、名の残る幻の薬草だった。見習いの頃、師が一度だけ、乾いた標本を奥棚から取り出して見せてくれたことがある。湿気で茶色くなった葉を愛おしげに指先でなぞりながら、師は呟いた。これはな、西の山のどこかにしか生えん。もう百年このかた、生きた株を見たという者はおらん——と。あの日、窓の外では春の雨が降っていて、師の声はいつもより低く、祈りに近い響きをしていたことまで、急に鮮やかに思い出された。師の背中には古い薬棚の木目が影になって落ち、白髪混じりの髪の毛先が、雨の光を受けて銀色にうっすら光っていた。標本を棚に戻す指はひどく慎重で、紙に触れるというより、小さな骸を寝かしつけるような手つきだったこと——それまで忘れていた細部までが、目の前の花の波に揺さぶられて、一枚一枚めくれるように蘇ってくる。

あの葉だ。皺の寄り方、葉縁のゆるやかな巻き込み、葉裏のうぶ毛らしき銀色のけぶり。どれも一致している。けれど師の標本は乾いた骨のように頼りなかった。今、目の前で揺れているのは、瑞々しく、生きて息づく群落だった。

「……生きてる」

声が掠れた。自分の声が、自分のものでないように遠く聞こえた。喉の奥が妙に乾いていて、もう一度小さく唾を飲み込まねば、次の言葉が出てきそうにない。

薬師の身体は、無意識にしゃがみ込んでいた。靴底を通して、土がやけに柔らかく、そしてうっすらと温かいことに気づく。ただの泥濘ではなかった。指先を差し込むと、土のなかに細い水の流れが走っている。

温い。ぬるま湯ほどの、ちょうど肌に心地よい温度。

リーネは土に指を差し入れたまま、しばらく動けなかった。指の腹に土の粒が絡みつき、そのひと粒ひと粒から、まるで生き物の体温のような熱が伝わってくる。爪の先に入り込んだ細かい砂が、手を動かすたびに微かに擦れ、土というより肌の内側を探っているような錯覚がよぎった。ここは湧水地で、しかもその湧水そのものが温い。月白草が温水のそばだけで群生している——偶然ではない。温水の鉱物成分がこの草の生育を支えているのか、それともこの草が温水を呼び寄せているのか。胸の奥がじわりと疼いた。薬師としての、ひどく純粋な興奮だった。宮廷の厨房で毒見の盆を受け取る前の、あの冷えた緊張とはまるで違う、温度の高い昂(たかぶ)りだった。

立ち上がり、花を踏まないよう石の縁を選びながら、霧がひときわ濃く立ち込める中心へ近づいていく。湯気だ、と気づいた。中心にもっと熱い源がある。一歩近づくごとに霧の密度が増し、まつ毛の先に細かな水滴が絡んで、視界の輪郭が淡く滲んでいった。外套の肩が湿りで重くなり、髪の生え際から一筋、温い雫が首筋を伝って落ちた。それを拭うでもなく、リーネは足を進めた。

辿り着いたとき、リーネは息を呑んだ。

石を組んだわけでもないのに、直径二歩ほどの小さな池が、地面に天然に穿たれていた。底からは絶え間なく水泡が上がり、湯気を白く立てている。池の縁をぐるりと覆うように月白草が生え、根は躊躇いもなく湯のなかへと伸びていた。根が、湯に直接浸かっている。それで枯れないどころか、むしろ繁茂している。湯の底では白い根が、まるで細い絹糸の束のように、ゆったりと揺れていた。水泡が根の網をすり抜けて上がるたびに、絹糸がひと房ほどけ、また結ばれるように静かに戻っていく。

「……そんな、はずは」

薬草は高温の湯で根が煮えれば、一日で枯れる。王都の薬園で何度もそれを見てきた。夏の盛りに熱した雨水が溜まっただけで萎れてしまう繊細な草を、何株も土に還してきたのだ。けれどこの池の湯は、指を入れてもぎりぎり耐えられる程度の温度だった。肌を撫でられているような熱さ。その温度のまま、根が幾年も浸かり続けている。湯と草が、どうやって共存しているのか。

薬師の癖で、リーネは指先についた湯の雫を、舌先に乗せた。毒見役として身体に染みついた、考えるより先に動く所作だった。

舌の上で、甘さがひらいた。

砂糖の甘さではない。鉱泉独特の金属質の下に、ふんわりと花の蜜めいた甘みが乗っている。舌の真ん中を軽く温め、奥に移るにつれて、わずかな薬草めいた苦味へと変わっていく。その苦味は嫌な苦さではなく、煎じ終わりの良薬だけが持つ、滋味の芯のようなものだった。ほんの一滴なのに、喉を通る瞬間、胸の奥がじわりとほどけていく感覚があった。肩から背にかけて、ずっと凝り固まっていた芯の一本が、ほろりと外れた音を立てた気さえした。毒見役として、どれだけの歳月、この背中に名もない緊張を積み上げてきたか——それを湯の一滴に溶かされたことに、自分のほうが驚いていた。

毒の気配では、なかった。

もっと別の、薬効の気配だった。

宮廷で第三王子の解熱薬を調合した夜、最後に加える一滴の薬油が舌先で告げてきた、あの静かな主張に似ていた。身体に「効く」ものの、遠慮のない存在感。けれどあの薬油よりも、ずっと柔らかく、ずっと深いところまで届いてくる気配があった。呼吸を整えようとしても、吸った息までほのかに甘く、胸の中心に小さな灯をひとつ置かれたような温度が残る。

濡れた指を外套で拭い、リーネは膝を立ててゆっくりと立ち上がった。足元が少し揺れたが、めまいではない。ただ、受け取った情報があまりに多すぎて、頭が追いつかなかっただけだった。

谷を見回す。

月白草の白い海。その中心に温い池。霧に混じる甘い香り。そして、自分をここまで導いた獣の足跡。——獣は何を求めてこの谷に来たのだろう。温い水か、それとも草か。足跡が月白草の群落を踏まず、丁寧にその縁だけを歩いている跡の付き方も、今になって妙に気にかかった。まるで、この花を踏むことを知っていて避けたような、慎重な歩幅だった。爪が土を掻いた筋はあっても、花弁の上に一枚の泥も飛ばされていない。そんな歩き方を、ただの獣ができるものだろうか。

問いが、十も二十も、谷から湧き上がってくる。

リーネはゆっくりと深呼吸をひとつした。湯気混じりの空気が胸をいっぱいに満たし、ゆるやかに吐き出される。吐いた息までほのかに甘く、自分の身体がこの谷の一部に溶け込みかけているような、奇妙に静かな心地だった。

袖口から小さな麻袋を取り出すと、咲き終わりかけの月白草を一輪、それから葉を二枚、根元のぎりぎりで切り取った。土を一掬い、池の水は外套の裾に吸わせた分だけ。指先は震えないように、しかし最低限の量で。師から叩き込まれた採集の掟——群落を損なわず、必要な分だけ——が、手の動きを律儀に導いていた。調べなければならないことが山ほどある。小屋に戻り次第、欠けた乳鉢を磨き直さなければ。

立ち上がり、谷を後にしようと身を翻したとき、霧の向こうで、小枝が乾いた音を立てて折れた。

リーネは、足を止めた。

獣は、まだ、谷のどこかにいる。

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