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錬金厨房、静かな村の片隅で

第2話 第2話

第2話

第2話

朝の光が、板の隙間から斜めに差し込んでいた。

目を開けた瞬間、天井の木組みが見えた。昨夜のあれは夢ではなかったのか。確かめるのに、少しだけ時間がかかった。寝返りを打つと、関節がかすかに鳴った。背中が痛くない。十二年、朝起きて背中が痛くない日はほとんどなかった。藁の敷布は体温で湿り気を吸い、肩のあたりだけが妙にぬくかった。その温もりが、お前はまだ生きているぞ、と体の側から告げてきているようだった。

胸のあたりに手を当てた。胃のむかつきがあった。前世からずっと続いていた鈍い痛み。食事を抜いても、食べても疼く、底の方から滲むような違和感。けれど今朝は、昨日ほど気にならない。空腹のほうが強かった。腹が鳴った。久しぶりにちゃんと鳴った。胃薬で誤魔化し続けた腹ではなく、空っぽだから満たしてほしいと素直に訴える腹だった。

鼻先に、ふわりと甘い匂いが届いた。

花ではない。もっと青い。湿った葉をすりつぶしたような、鼻の奥に抜ける甘さ。前世で扱ったどの生薬の香りとも違う。体が自然にその匂いのする方へ向き直っていた。小屋の裏手から流れてきているらしかった。

傾いた扉を押すと、蝶番が細く鳴いた。敷居をまたいで外に出ると、夜露に濡れた草が裸足のくるぶしを冷たく洗った。靴を履く余裕もなかった。太陽はまだ森の縁に半分沈んでいて、空の東側だけが淡い橙色に染まっている。草の先端に水滴が連なって、斜めの光の中で小さく光っていた。

小屋の壁に手を当てながら、裏手へ回った。石の角が掌に食い込んで、その痛みが逆に心地よかった。昨日までの自分なら、こんな冷たい石に触ればすぐに手を引っ込めたはずだ。けれど今朝の掌は、何かを確かめたがっていた。神経の末端まで、空気の冷たさを、壁面のざらつきを、苔の湿り気を、欠けることなく拾い上げようとしていた。前世では、触覚というものをほとんど使わずに生きてきた気がした。パソコンのキー、スマホの画面、錠剤のシート。指先に触れるものはすべて、平らで、乾いて、同じ温度をしていた。

裏に回ると、そこに銀色の群生があった。

足が止まった。

腰の高さほどの草が、数十株、固まって生えていた。葉は細長く、二股に分かれた先端がわずかに反り返っている。茎は白っぽい緑で、朝露を受けた葉の表面が、光の角度によって銀紙のように明滅していた。風が渡るたび、群生全体がさざなみのように光を返し、そのたびに甘い匂いが強くなった。葉と葉が触れ合う音は、紙がすれ合うのに似て、けれどもっと柔らかい、細い囁きのようだった。しばらくの間、息をするのも忘れていた。こんなものを美しいと思える自分が、まだ体の中に残っていた、というのが、光景そのものよりも先に胸に来た。

近寄ると、匂いの源がわかった。葉の裏側に、露とは違う粘り気のある雫が点々と光っている。指先で摘み取れば糸を引きそうな、蜜に近い透明さだった。前世の職場なら、まず採取記録を取り、分析にかけ、毒性試験のフローを組み立てただろう。LC-MSに通して、標的成分のピークを拾って、週をまたいで構造解析に回して——そういう段取りが、もはや届かない遠くの国の習わしのように感じられた。けれど今、この場にあるのは、手と、鼻と、腹だけだった。

しゃがんで、そのうちの一本に指を伸ばした。

葉先に触れた瞬間——頭の芯に、細い音が鳴った。

鐘ではない。糸を弾いたような、短く澄んだ音。それと同時に、触れた葉の感触を通して、言葉ではない何かが流れ込んできた。粒子になった情報、とでも言えばいいのか。銀色の細い流れが、指先から腕を遡って、脳のどこか奥まった場所で像を結んだ。体の芯が震えるほどではないが、確かに何かが通り抜けた。電気ではない。もっと静かな、水が紙に沁みていくときの、音のない拡がり。

——月露草。多年草。月光を受けた夜に葉裏へ甘露を結ぶ。煎じて服用すれば内臓の古い疼きを静める。希少。群生地はごく限られる。

情報は、そう読み取れた。読んだのではなく、知っていた、という感覚に近い。自分の記憶にずっと前からあった知識を、いま初めて引き出した、という手触り。忘れていた同級生の名前を、ふとした拍子に思い出したときのあの感じに、少しだけ似ていた。ただし、この「知識」は、自分の人生のどこにも置かれていなかったはずのものだ。

指を離しても、頭の底にはまだ、あの細い音の余韻が残っていた。耳で聞いた音ではないのに、耳の奥の骨が、かすかに覚えていた。

「錬金」

昨日、草原で呟いたその言葉を、もう一度口にした。今度はそれが、ただの単語ではないと分かった。卑金属を黄金に変えるという、あの荒唐無稽な術のことではない。触れた素材から、それが何者かを読み取る——少なくとも今の自分に起きたのは、そういうことだった。製薬会社で泥のように繰り返した成分分析の、もっと静かで、もっと率直な版。報告書も、承認印も、次のミーティングも要らない。素材と自分との間に、間に入る人間が一人もいない。あの会社で一度も得られなかった透明さが、ここにはあった。

胸の奥から、久しぶりに、子どものような昂ぶりがせり上がった。心臓が少し速く打っていた。怖さからではなく、期待からそうなるのは、何年ぶりだっただろう。

一株を根元から折った。葉を数枚、茎ごと束ねて、匂いを嗅ぐ。朝日が葉裏の甘露を溶かしてしまう前に、と体が自然に動いていた。

小屋に戻り、転がっていた錆びた鉄鍋を拾った。縁の焦げを爪で擦り落とし、裏手の小川——先ほど匂いを辿った時に見つけていた——まで駆け戻って水を汲んだ。竈の灰をかき分け、乾いた草を丸め、板の切れ端を砕いて積む。火種は小屋の天井の隙間から射す日差しと、壊れた窓枠に転がっていた硝子のかけらで間に合わせた。焦点を合わせ、じっと待つ。煙がひと筋、ふた筋。やがて赤い粒が生まれ、枯草の繊維をゆっくり這っていった。指先に炎の熱が届いたとき、前世の安全教育の声がどこかで鳴った——火気厳禁、消火器の位置を確認、煙感知器——。誰もいない森の中で、自分の手から火が生まれたというだけのことが、こんなにも腹の底を熱くするものだとは、あの頃の自分には想像もつかなかっただろう。

鉄鍋に水を張り、月露草を浸す。湯が湧くまでの時間の、なんと静かなことだろう。アラームは鳴らない。タイマーも切れない。湯気が立ち始め、あの甘い青さが蒸気に乗って小屋の中に広がっていった。鍋の底で銀の葉がゆっくり踊る。色が、湯の方へ滲み出していく。銀色の縁を残したまま、湯は淡い新緑に染まった。蒸気の動きに合わせて、壁の木目に揺らめく光の筋が走り、そのたびに、部屋そのものが呼吸しているかのように見えた。

木の椀は、寝台の下に転がっていたのを拭って使った。湯を注ぎ、少しだけ息を吹きかけて冷ます。湯気の向こうに、板壁の木目がぼんやり揺れた。

口をつけた。

舌先に、青い甘さが広がる。苦みはほとんどない。薄荷と似た爽やかさの奥に、蜜のような余韻が残る。喉を通り、胸の真ん中をゆっくりと降りていくのがわかった。熱は強すぎず、けれど芯には届く温度で、食道の壁を一枚ずつ撫でていくようだった。

胃に届いた瞬間、鈍い疼きが、ほどけた。

そう表現するしかなかった。絞めていた紐が解かれるように、ずっと握られていた拳が開くように、前世から引きずっていたあの違和感が、熱を伴って静かに散っていった。鈍痛が消えたあとに残ったのは、空白ではなく、温かい余白だった。そこに、本来あるべきだった健やかさがゆっくり戻ってくるのが、確かに感じ取れた。食後に噛み砕いていた胃薬の、あの白い錠剤の苦さを思い出した。あれは結局、何にも届いていなかったのかもしれない。ただ痛みを麻痺させるだけで、疼きそのものに触れたことは一度もなかった。

椀を置いて、自分の腹に掌を当てた。温かい。痛みではなく、温もりがそこにあった。掌の下で、自分の体がまだ生きて、ちゃんと湯を受け取っているのが、骨を通して返ってくるようだった。

小さく笑った。声は出なかったけれど、頬が動いたのがわかった。頬の筋肉が、こんな動き方をしたのは、本当に久しぶりのことだった。

——生きていけるかもしれない。

そう思った。根拠はこの一杯だけだ。明日のことも、次の冬のことも、何もわからない。けれど、この体のままで、ここで、ひとまず生きていけるかもしれない。それだけで、今は十分だった。

椀の底に残った最後の一口を飲み干す。葉の破片が舌に触れて、青い甘さがもう一度、口の中に広がった。

外で、枝が折れる音がした。

野生動物かもしれない。風が梢を擦っただけかもしれない。椀を置いて、息を整えて、扉の方へ耳を向けた。もう一度、かさり、と乾いた足音。——足音だった。小さくて、慎重で、けれど確かに、二つ分の。

人の気配は、思っていたよりずっと早く、この小屋を訪ねてきたようだった。

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