第1話
第1話
蛍光灯の白い光が、まぶたの裏側にこびりついている気がした。
製薬会社の品質管理部に配属されて十二年。最初の頃は「誰かの病を治す薬を作る」という言葉に胸が熱くなったものだが、いつからか、朝も夜もなくなった。検査報告書の山、差し戻される申請、終電間際のホームで胃薬を噛み砕く日々。数値の桁を確認し、上長の印鑑を待ち、不備を指摘され、修正し、また確認する。その繰り返しの中で「品質」という言葉は輝きを失い、ただの手続きの名前になった。眠れない夜に天井を見上げて、何のために働いているのかと考えることすら、やがて面倒になった。
冬の朝だった。駅のホームに立っていた。コートの襟を立てても防げない風が、首筋を刺すように吹きつけていた。隣に立つスーツ姿の男がマスク越しに咳をして、その振動が空気を伝わってくるのが妙に不快だった。電光掲示板の文字がにじんで、足元がふわりと揺れた。——ああ、またか。最近よくある立ちくらみだと思った。先月の健康診断の結果を、まだ開封していないことをふと思い出した。だが膝は折れ、視界が狭まり、誰かの悲鳴のような声が遠くで聞こえた気がして、それきり何もわからなくなった。
頬に触れたのは、冷たいタイルではなかった。
柔らかい。湿った草の匂い。風が頬を撫でていく感触が、駅のホームとはまるで違う。指先が土を掴んだ。爪の間にひんやりとした泥が入り込み、その生々しい感触に意識が引き戻される。目を開けると、空があった。高く、青く、どこまでも続く空。雲がゆるやかに流れていて、その白さが目に沁みた。見覚えのない空だった。東京の空はこんなに広くない。ビルの隙間から覗く四角い空しか知らなかった自分には、この果てのなさがうまく受け止められなかった。
体を起こすと、草原が広がっていた。背の低い緑の草が風に揺れ、遠くに針葉樹の森が暗い帯を引いている。振り返っても、前を向いても、人工物は何もない。電柱も、ガードレールも、コンビニの看板もない。あるのは草と風と空だけだった。
自分の手を見た。皺が減っている。関節の痛みも、肩に食い込んでいた重さもない。右手の中指にあったはずのペンだこが消えていた。毎朝鏡の前で気にしていた目の下の隈も、頬を触ってみると感触が違う。張りがある。三十代半ばで衰えきっていたはずの体が、まるで二十代の頃に戻ったかのようだ。
夢か、と思った。けれど草の冷たさも、吸い込む空気の鋭さも、あまりにはっきりしている。空気そのものが違った。排気ガスの膜がない、濾過されていない生の大気。肺の奥まで染み渡って、一瞬だけ、咳き込んだ。
頭の中に、言葉がひとつだけ浮かんでいた。
——錬金。
意味はわかる。卑金属を貴金属に変えるという、あの錬金術。だがなぜその言葉が浮かぶのか、それが何を意味するのか、見当もつかない。声に出してみた。「錬金」。自分の声が草原に吸い込まれて消えた。返事はない。当然だ。それ以外にこの世界について知っていることは何もなかった。ここがどこなのか。なぜ自分がここにいるのか。あの駅のホームで、自分は死んだのか。
風が吹いた。冷たい風だった。コートは消えていた。代わりに薄い麻のような布を一枚まとっているだけで、その下の肌が粟立つ。布は使い古されて柔らかく、どこかで誰かが着ていたものだろう。袖口がほつれ、胸元の紐は片方が切れていた。空腹が腹の底からせり上がってきて、体の奥に鈍い震えが走った。最後にまともな食事をしたのはいつだったか。前世の記憶では、昨日の昼にコンビニのおにぎりをひとつ。だがそれが本当に昨日のことなのかも、もうわからない。
考えている余裕はなかった。立ち上がり、風の弱い方角へ歩き始めた。
草原は思ったより広かった。歩いても歩いても景色は変わらず、足元の草だけが靴底に絡みつく。靴、と思って見下ろすと、くたびれた革の短靴を履いていた。自分のものではない。誰のものかもわからない。革は乾いてひび割れ、左足の小指のあたりが少し窮屈だったが、裸足よりはずっとましだった。
太陽が傾き始めた頃、風向きが変わった。草原のにおいに混じって、かすかに苔と石の匂いがした。湿った、古い匂い。記憶のどこかにある、雨上がりの神社の石段のような。足を止めて鼻を利かせた。確かにする。風下に何かがある。生き物の匂いではない。人が積んだ石の、長い年月を経た匂いだった。
丘を越えると、それが見えた。
石造りの小屋だった。壁は灰色の石を粗く積み上げたもので、隙間から苔が膨らんでいる。石のひとつひとつは不揃いで、手作業で割られたものだと一目でわかった。屋根は半分が崩れ落ち、残った部分も木の板が反り返って空が覗いていた。扉は傾いたまま蝶番にぶら下がり、中は薄暗い。
人の気配はなかった。長いこと放置されていたのだろう。敷居をまたぐと、土と埃の匂いが鼻をついた。足の裏に砂利の感触が伝わる。部屋はひとつきりで、奥に木組みの寝台がある。藁を詰めた敷布が湿っていたが、形は保っていた。壁際に石を積んだ竈の跡があり、錆びた鉄鍋がひとつ転がっている。鍋の縁には何かを煮た焦げ跡がこびりついていて、指で触れるとざらついた。竈の中には灰が固まって残っていて、最後にここで火を焚いた誰かの暮らしの痕跡が、うっすらと見えた。壁の石に手を当てると、日中の陽光をわずかに蓄えたのか、ほのかな温もりが掌に伝わった。誰かがここで暮らし、飯を炊き、眠り、そしていなくなった。その時間の厚みが、石の温もりの中に残っているようだった。それだけの場所だった。
それだけの場所なのに、涙が出た。
立ったまま、ぼろぼろと頬を伝うのを拭いもせずにいた。
理由はすぐにわかった。静かだったのだ。電話も鳴らない。メールの通知音もない。上司の声も、印刷機の唸りも、終電を告げるアナウンスもない。聞こえるのは風の音と、遠くで鳴く鳥の声だけだった。耳が痛いほどの静寂。けれどそれは怖い静けさではなかった。会議室で上司が黙り込むあの沈黙とは質がまるで違う。この静けさには圧がない。何も要求してこない。ただそこにある。
もう誰にも急かされない。
その一言が、胸の底に落ちたとき、堰が切れた。寝台の端に腰を下ろし、顔を覆って泣いた。声を出さないように、と体が勝手に気を遣ったが、誰もいないのだった。ここには誰もいない。叱る人も、報告を待つ人も、返事を急かす人もいない。気づけば声が漏れていた。嗚咽が喉の奥から絞り出されて、自分でも聞いたことのないような低い声で泣いた。情けないとか、みっともないとか、そういう判断をする回路が全部止まっていた。ただ体が泣きたがっていて、それに逆らう理由が何もなかった。涙が指の隙間を伝い、顎を落ちて麻の襟元に染みを作った。その湿りが首筋に触れて冷たく、それすらも泣いている実感を強めた。
どれくらいそうしていたかわからない。泣き疲れた頃には太陽が沈みかけていて、崩れた屋根の隙間から橙色の光が斜めに差し込んでいた。その光の中で、埃がゆっくりと舞っている。急がない。何も急がない。埃でさえこんなに静かに漂えるのだと、ぼんやり思った。光の帯の中を漂う埃のひとつひとつが、金色に縁取られて、まるで小さな星のようだった。
寝台に横になった。藁の敷布は湿って冷たかったが、背中の感触は悪くなかった。藁の匂いがした。干し草の、甘くて少し埃っぽい匂い。嫌いではなかった。天井の木組みを見上げる。隙間から夜の色が滲み始めていて、星がひとつ、ふたつと瞬いている。あの星の名前は知らない。前世で見ていた星座とは配置が違うのか、同じなのかもわからない。けれどそれでよかった。名前がなくても星は光る。肩書きがなくても、自分はここにいる。
疲れていた。十二年分の、あるいはもっと長い時間の疲れが、体の芯に沈んでいた。けれどそれは、もう追い立てるようには痛まなかった。ただ重いだけだ。ゆっくりと、沈んでいくだけだ。
目を閉じた。
頭の隅で、「錬金」という言葉がまだぼんやりと光っている。それが何なのかは明日考えればいい。明日がある。急がなくていい明日が。
前世では一度も得られなかった深い眠りが、静かに降りてきた。
——翌朝、目を覚ました彼が最初に気づいたのは、小屋の裏手から漂ってくるかすかな甘い香りだった。