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追放魔術師、静寂の森で目覚める

第1話 第1話

第1話

第1話

祝宴の灯りが、エルトの顔を照らすことはなかった。

 新王即位の夜、王城の大広間には金色の魔術灯が揺れ、笑い声と杯の触れ合う音が石壁に反響していた。エルトはその光を、宮廷魔術師の執務棟に続く薄暗い廊下の窓越しに見ていた。呼ばれなかったのではない。呼ばれる立場に、もうなかった。

 手元の羊皮紙に視線を落とす。蝋で封じられた王印。開封したのはつい先ほどだ。文面は短かった。宮廷魔術師エルトの職務を解く。ついては辺境グリュナルの森の管理を命じる。即日発効。それだけだった。十二年間、この王国のために張り続けた防護結界、眠れぬ夜に紡いだ術式、戦場で味方の盾となった日々。それらすべてに対する返答が、羊皮紙一枚の管理令だった。

 廊下の向こうから、酔った廷臣たちの足音が近づいてくる。エルトは羊皮紙を外套の内ポケットに滑り込ませ、窓から身を離した。壁に背をつけ、足音が通り過ぎるのを待つ。誰にも会いたくなかった。同情されるのも、見て見ぬふりをされるのも、どちらも同じくらい重たい。

 足音が遠ざかると、エルトは執務室の扉を開けた。片付けるものはほとんどない。私物といえば、古代語の辞典が二冊と、使い込んだ万年筆、それから母の形見の懐中時計くらいのものだった。十二年もここにいて、この部屋に残した痕跡がこれだけかと思うと、妙なおかしみがあった。

 荷をまとめ終える頃、窓の外では花火が上がっていた。新しい王の治世を祝う光だ。赤、青、金。色とりどりの火花が夜空に広がり、一瞬だけ執務室の壁を明るく染めて、消えた。

 エルトは机の引き出しを最後にもう一度確かめ、何も残っていないことを確認してから、静かに扉を閉じた。

    *

 辺境行きの馬車は、翌朝の薄明の中で王都の裏門から出発した。正門ではない。追放者にふさわしい出口だと、手配した文官は思ったのだろう。エルトは気にしなかった。むしろ、誰にも見送られないことに安堵していた。

 馬車は古い型で、車輪が石畳の継ぎ目を拾うたびに座席が軋んだ。窓から見える王都の街並みが、ゆっくりと後ろへ流れていく。朝市の準備を始める商人たち。井戸端で水を汲む女たち。パン屋の煙突から立ちのぼる白い煙と、焼きたての匂い。十二年を過ごした街だった。けれど不思議なほど、名残惜しさが湧かない。

 街を抜け、麦畑の広がる平野に出ると、御者以外に人の気配がなくなった。エルトは座席に深く身を預けた。外套の襟を緩める。宮廷では常に姿勢を正し、表情を整え、誰かの視線を意識して過ごしていた。その習慣が、街の景色が途切れた途端にほどけ始めている。

 「旧派閥」。新王の側近たちがエルトに貼りつけた札だ。先代に重用されたというだけで、新しい治世の邪魔者にされた。政治とはそういうものだと、頭では理解している。だが十二年間、王国を守るためだけに魔術を磨いてきた人間にとって、理解と納得は別のものだった。

 馬車が轍の深い道に差しかかり、揺れが大きくなる。エルトは窓枠に肘をつき、流れる景色をぼんやりと眺めた。麦畑がやがて牧草地に変わり、牧草地の向こうに低い丘陵が連なっている。空が広い。王都では建物の隙間から覗くだけだった空が、ここでは端から端まで一続きだった。

 「もう、誰のためにも魔術を使いたくない」

 声に出したのは意図してのことではなかった。唇が勝手に動いていた。だが口にした瞬間、それが自分の本音だと気づいた。十二年間、一度も言葉にしなかった感情だった。防護結界を張るたび、魔力を削るたび、心のどこかに澱のように溜まっていたもの。疲労とも怒りとも違う、ただただ重い何かだった。

 御者が馬を止めたのは、日が西に傾き始めた頃だった。

 「旦那、ここから先は道がねぇんで。この先がグリュナルの森です」

 御者の声には、同情と警戒が半分ずつ混じっていた。魔獣が棲む森だと伝わっている場所に、人をひとり降ろす。気が咎めるのだろう。だが御者もまた命令に従う立場に過ぎない。

 エルトは荷を肩にかけ、馬車を降りた。

    *

 最初に気づいたのは、匂いだった。

 湿った土。苔。どこかで咲いている花の、甘く淡い香り。王都の石と埃と人いきれに慣れた鼻には、それらの匂いがひどく鮮明に感じられた。吸い込んだ空気が、肺の底まで沁みていく。

 目の前に広がる森は、噂から想像していたものとは違っていた。鬱蒼とはしているが、暗くはない。木々の梢の隙間から夕方の光が差し込み、地面に金色の斑点を落としている。下草は膝丈ほどで、獣道らしき筋がうっすらと奥へ続いていた。

 鳥が鳴いている。高く澄んだ声が、二つ、三つ。互いに呼び交わすように。風が梢を渡ると、葉擦れの音が波のように広がった。それ以外に、音がない。人の声も、馬車の車輪の軋みも、鍛冶屋の槌の音も。ただ森だけが、そこにあった。

 エルトは立ち尽くしていた。

 肩に力が入っていたことに、今さら気づいた。ずっとだ。十二年間、ずっと肩を張って生きてきた。結界が破られないように。術式に綻びがないように。派閥の争いに巻き込まれないように。常に身構え、常に備え、常に緊張していた。それが当たり前だと思っていた。

 風が頬を撫でた。夕暮れ前のぬるい風だった。森の匂いを含んだその風が通り過ぎたとき、肩の力が、ゆっくりと抜けていくのを感じた。自分の意思ではない。身体が勝手にそうなった。張り詰めていた糸が、一本ずつほどけていくように。

 獣道に足を踏み入れる。柔らかい土が靴底を受け止めた。石畳とは違う、沈み込むような感触。一歩進むごとに、背後の世界が遠くなっていく。

 森の奥へ歩くうちに、日が落ちた。木々の隙間から覗く空が、橙から紫に、紫から藍へと変わっていく。暗くなるにつれ、不安よりも不思議な安堵が胸に広がった。誰もいない。誰の期待も、誰の思惑も、ここには届かない。

 やがて、開けた場所に出た。大きな樫の木の下に、小さな小屋が建っている。屋根の半分は苔に覆われ、壁板は灰色に風化している。扉は辛うじて蝶番にぶら下がっていた。人の手が離れてから、相当の年月が経っているのだろう。

 エルトは扉を押し開けた。黴の匂いと、乾いた木の匂いが混じり合って鼻を突く。中は六畳ほどの広さで、壁際に朽ちかけた寝台、反対側に小さな炉がある。窓ガラスは割れていたが、枠だけは残っていた。

 荷を床に置き、寝台の上の埃を外套で払った。座ってみると、思いのほかしっかりしている。まだ使えそうだった。

 窓の外で虫が鳴き始めていた。規則正しい、静かな音だった。エルトは外套を引き寄せ、寝台に横になった。天井の木目が、最後の薄明かりの中にぼんやりと浮かんでいる。

    *

 いつ眠りに落ちたのか覚えていない。目を覚ましたとき、窓から差し込む光が白かった。朝だった。宮廷にいた頃は、夜明け前に目を覚まして結界の点検をするのが日課だった。それを思い出して、身体が反射的に起き上がろうとする。

 だが、もう点検する結界はない。

 エルトはゆっくりと寝台に身を起こし、窓の外を見た。昨夜は暗くてわからなかったが、小屋の前には背の低い草が一面に広がり、朝露がきらきらと光っている。その向こうに木々が並び、梢の隙間から朝日が長い影を落としていた。

 ここが、これからの場所になるのだと思った。良いとも悪いとも、まだわからない。ただ、昨夜よりも身体が軽いことだけは確かだった。

 小屋の外に出ると、朝の冷たい空気が頬に触れた。草を踏む足元がしっとりと湿っている。深く息を吸うと、緑の匂いが身体の隅々まで行き渡るようだった。

 そのとき、茂みが揺れた。

 小さく、だが確かに。エルトの足が止まる。魔獣の森だということを、一瞬忘れていた。反射的に右手を持ち上げかけて、やめた。もう誰のためにも魔術を使いたくないと、昨日自分に言い聞かせたばかりだ。

 茂みがもう一度揺れる。そこから覗いた二つの瞳は、蒼かった。澄んだ、深い蒼。朝の光を受けて、硝子玉のように透き通っている。

 銀色の毛並みが、朝露に濡れて光っていた。

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