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Cランク回復術師の追放録

第2話 第2話

第2話

第2話

宿の扉を叩く音が、左腕の疼きに重なった。

三度、短く、そして一度、長く。乱暴な叩き方だった。扉の蝶番がわずかに軋み、安宿の薄い板壁が細く震える。その震動が、寝台の縁から背骨を伝い、左腕の奥へと染みていく。呪毒の残滓が、叩かれた扉の拍動に共鳴するように、皮膚の下で脈を打った。

リュートは寝台から身を起こした。昨夜、呪毒の中和に三時間を費やした。腕の黒い紋様は薄まったが、消えてはいない。袖を引き下ろして紋様を隠し、扉を開ける。

指先は冷たく強張っていた。一晩中、術式の銀糸を編み続けていた指だ。爪の脇に血の滲んだ小さな傷がある。呪毒を肉の外へ押し出す時、どうしても自分の身から漏れ出る分があった。朝の灰色の光が、窓枠の隙間から細長く差し込んでいる。硫黄と湿った藁の匂いが染みついた部屋の空気の中で、その光だけが妙に冷たく見えた。

廊下に立っていたのは、グレンと、昨日の白いローブの神官だった。

グレンの赤い外套の裾には、昨日の迷宮の土埃がまだ残っている。その隣に立つ神官の女は、乳白色のローブに皺ひとつなく、香油の甘い匂いをまとっていた。二人の背後の薄暗い廊下が、やけに遠く感じられた。

「来たな。中で話す」

グレンは部屋に入ると、唯一の椅子に腰を下ろした。神官の女は扉の前に立ったまま、胸元の聖印を指でなぞっている。リュートの居場所はなかった。リュートは自分の寝台の縁に座った。

寝台の藁が微かに鳴った。椅子に腰を下ろしたグレンは、長い脚を組み、机の上に両肘をついた。その姿勢には、この部屋の主がどちらかを示す重みがあった。神官の女の指が聖印の縁を一定の速さで撫でている。祈りではない。ただの癖、あるいは威圧の仕草だ。

「紅蓮の迷宮の報酬が下りた。金貨百二十枚」

グレンが革袋を机に置く。重い音がした。リュートは黙って数字を待った。三年間、報酬の分配は決まってリーダーが決める。Cランクへの取り分はいつも少ないが、それでも生活はできた。

革袋の口から、金貨の縁が一枚、鈍い光を覗かせていた。机の木目に落ちたその光を、リュートはどこか遠くの景色のように眺めた。胸の内側で、何かがゆっくりと位置を変えていくのが分かった。グレンはまだ革袋に手を置いたままで、指先が袋の口を撫でている。

「お前の取り分はゼロだ」

リュートは顔を上げた。グレンは目を合わせなかった。

灰色がかった緑の瞳が、机の木目を追っていた。三年間、幾度も自分を見てきたはずのその目が、今はリュートの輪郭さえなぞろうとしない。

「報告書、読んだだろ。お前の名前、入ってなかったよな。当然だ。お前、何もしてねえもんな」

「呪毒は……俺が」

声が喉の奥で掠れた。昨夜、ハルトの肩口に食い込んでいた紫の毒を、自分の左腕へ引き込んだ時の熱が、まだ皮膚の下に残っている。

「あれを解呪と呼ぶのか? 我流の真似事だろうが」

グレンが鼻で笑った。神官の女が、口元だけで笑った。

それは微笑みというより、薄い刃物の形をした表情だった。目は笑っていなかった。むしろ、値踏みするようにリュートの左腕の袖口を一瞥した。まるで袖の下の紋様が透けて見えているかのように。

「こちらはミレイナ。Bランクの上級神官だ。明日からこの人がパーティの回復役を務める」

リュートは左腕を右手で押さえた。袖の下で紋様が脈打つのが分かった。

脈は二つあった。自分の鼓動と、呪毒の鼓動。その二つがずれて重なり、皮膚の内側でぶつかり合う。右手の掌に、紋様の熱がじんわりと伝わってきた。

「お前はもう要らない。今日でパーティから抜けろ」

部屋の空気が、ひどく薄くなった気がした。

耳の奥で、細い音が鳴っていた。遠くで金属を擦るような、あるいは自分の血が耳の裏を通り抜けるような音。視界の端がかすかに歪んで、机の角の線がぼやけた。

リュートは口を開きかけ、閉じた。三年間、何度も予感はあった。グレンの目線がいつから自分を素通りするようになったか、もう思い出せない。それでも今、こうして言葉にされると、肺の奥が乾いた。

息を吸っても、どこかで途切れる。肋骨の内側に、薄い膜が張ったような感覚だった。

「装備も置いていけ。革鎧と杖、それから外套。全部パーティの備品だ」

「あれは、俺が三年使ってきた——」

「俺が買った金で揃えたんだよ。文句あんのか」

グレンが立ち上がった。机を回り込み、リュートの胸ぐらを掴む。鼻先まで顔が寄る。グレンの息は酒の匂いがした。昼間から飲んでいたのか。

朝の、と言うべきか。まだ日も高くない時刻の、蒸留酒の尖った匂いだった。その匂いに混じって、赤い外套に染みついた鉄と汗の古い香りが鼻先に押し寄せる。襟元の布越しに、グレンの拳の骨がリュートの鎖骨を押した。

「Cランクの分際で、俺の隣を歩かせてやってたのは温情だ。感謝こそすれ、文句を言える立場か?」

リュートは目を伏せた。掴まれた胸元の布が引きつれて軋む。グレンが手を離すと、リュートはふらりと寝台に座り直した。

麻の肌着の襟が伸びて、鎖骨の上に赤い擦り跡が残った。それを隠すように、右手をそっと首元に当てる。手のひらに、自分の脈が速く鳴っているのが分かった。

「セレナとハルトは?」

声がかすれた。グレンは答えなかった。代わりに神官のミレイナが、抑揚のない声で言った。

その声は教会の祈祷文を読み上げる時のように平坦で、感情の抑揚を一切含んでいなかった。だからこそ、言葉の意味だけが鋭くリュートの耳に届いた。

「お二人とも、もう承知しておられます。リーダーのご決断に従うと」

——ああ。

リュートは膝の上で拳を握った。爪が掌に食い込む。痛みは感じなかった。左腕の呪毒の方が、ずっと痛い。

セレナもハルトも知っていた。昨日、ギルドの掲示板の前にリュートを置き去りにしたあの瞬間、もう全員で決めていたのだ。

セレナが、昨日ふとこちらを振り向いた時の、あの中途半端な微笑み。ハルトが、酒場で視線を合わせないまま杯を重ねていたあの横顔。一つ一つの小さな違和感が、今になって冷たい形を持って並び直していく。四人で一つの背中を守ってきたはずの円陣は、もう昨日の朝には壊れていたのだ。自分一人だけが、まだそこに立っているつもりでいた。

「装備を出せ」

グレンの声が降ってきた。

上から、物を命じる声だった。

リュートは立ち上がった。寝台の脇の壁に立てかけた杖を取る。握りの皮が手に馴染んでいた。三年分の汗が染みた皮だった。革鎧を脱ぐ。外套を畳む。一つずつ、机の上に置いていく。

革鎧の留め金を外す指が、途中で一度だけ止まった。胸当ての裏側に、小さく刻んだ自分の印がある。初めてこの鎧を与えられた日、誰にも見せずに短剣の先で刻んだ、小さな三日月の模様。三年前の自分が、この鎧をどれほど誇らしく思ったか、指先はまだ覚えていた。

外套を畳む。襟の内側に、セレナが繕ってくれた細い縫い目がある。去年の冬、雪の街道で裂けた場所だ。あの時、焚き火の傍で針を動かしていたセレナの横顔が、一瞬だけ脳裏をよぎって、すぐに遠ざかった。

最後に杖を置いた時、グレンが満足げに頷いた。

「分かりやすくていい。じゃあな」

二人が部屋を出ていく。扉が閉まる。

蝶番の軋みが、妙に長く耳に残った。

リュートは机の上の装備を見つめた。革鎧の肩当てに、紅蓮獅子の爪痕が一筋残っている。あの時、自分を庇ってくれた——いや、グレンを庇った時に、流れ弾のようにかすめた爪痕だ。

指先でその爪痕の縁をなぞる。革の裂け目は乾き、縁が少し反り返っていた。その下で、まだあの日の熱が眠っているような気がした。庇った背中は重かった。それでも、間に合ったことに安堵したのを覚えている。あの安堵を返してくれる者は、この部屋にはもういない。

外で、雨の音が始まっていた。

屋根瓦を叩く小さな音が、次第に密度を増していく。窓の向こうの空は、いつの間にか重い鉛色に変わっていた。

リュートは薄い肌着のまま部屋を出た。階下の宿の主人が驚いた顔をしたが、声をかけてはこなかった。代わりに「宿代は昨日までで精算済みだよ」と短く告げた。グレンが手を回したのだろう。今夜の寝床はない。

主人の目は、リュートの剥き出しの腕ではなく、その足元の辺りを見ていた。憐れみとも、関わりたくないという拒絶ともつかない視線だった。階段の最後の段を踏むとき、木が低く鳴った。扉の前で一瞬だけ、背後で主人がため息をつく気配があった。

王都の路地に、雨が落ちていた。

冷たかった。肌着の布が肩に張りつき、剥き出しの腕に冷気が刺さる。左腕の紋様が、雨に濡れて黒さを増した気がした。リュートは石畳の上をゆっくり歩いた。靴の中に水が溜まっていく。

足を踏み出すたび、革靴の中でぬるい水が指の間に押し上がる。石畳の凹みに溜まった雨水が跳ね、脛の裏に小さな泥の線を引いた。雨粒が耳の縁を伝い、首筋を滑り落ちていく。そのたびに、左腕の紋様が一度ずつ、遅れて疼いた。まるで雨の一粒一粒に、呪毒が反応しているかのようだった。

——別に。

そう思った。

別に、構わないんじゃないか。

三年間、誰よりも早く起きて、誰よりも遅く眠った。誰の傷も見逃さず、誰の毒も自分の体に引き受けてきた。寝床で一人、自分の腕の紋様に術式を重ねながら、それでも翌朝にはグレンの背中の後ろに立っていた。

もう、誰の毒も引き受けなくていい。

もう、誰のための痛みも背負わなくていい。

雨に打たれながら、リュートは小さく息を吐いた。

白い息が、灰色の雨の向こうに薄く溶けていった。

それは安堵だった。歪んだ、ひどく歪んだ安堵だった。悔しさよりも、寂しさよりも、ただ「もう壊れなくていい」という思いが、胸の真ん中に静かに広がっていく。

路地の角に、誰かが捨てた古い布が落ちていた。リュートは拾い上げ、肩にかけた。雨を防ぐには薄すぎたが、ないよりは温かい。

布は黴と煙の匂いがした。誰がいつ捨てたとも知れない、麻の端切れ。それでも、肩にかけた瞬間、剥き出しの皮膚の冷えが一段だけ和らいだ。今の自分を覆ってくれるのは、もうこの程度の布切れで充分なのだと、どこかで納得してしまう自分がいた。

歩き出す。行く先はなかった。ギルドに戻れば、すぐに「蒼雷の剣を抜けたCランク」の噂が広がっているだろう。王都の他のパーティが、追放されたばかりの回復術師を雇うはずもない。

それでも、足は動いた。

雨の向こうに、王都の外壁が霞んで見えた。リュートは左腕の紋様に右手を当てた。袖はもうない。剥き出しの肌に、自分の指の冷たさが伝わる。

紋様の線は、雨に濡れていっそう鮮やかな黒になり、皮膚の内側から微かな熱を放っていた。指先でその線をなぞる。呪毒は、昨夜ハルトから引き受けた分だけではなかった。三年間、少しずつ、少しずつ、リュートの腕に溜まり続けた他人の痛みの総量が、今、雨に呼ばれて輪郭を現そうとしている。

——どこか、遠くへ行こう。

そう決めた瞬間、左腕の紋様が、ふいに熱を持った。

熱は指先から肩へ、肩から胸の奥へと、細い脈のように広がっていく。痛みではなかった。かといって、救いでもなかった。ただ、何かが目覚める気配だった。

雨が、いっそう強くなった。

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