第1話
第1話
終電のホームで、俺の視界は静かに暗転した。
月残業二百時間。ブラック企業の経理部に配属されて三年、俺——佐伯遼太郎、三十二歳——の生活は数字と伝票と上司の怒号だけで構成されていた。朝六時に家を出て、終電で帰る。土日も出勤。有給は名前だけ存在する都市伝説だ。 毎朝、駅のホームに立つたびに思う。昨日と何が違うんだろう、と。同じ時刻の同じ車両に乗り、同じ顔ぶれの乗客と目を合わせないようにして、同じビルの同じフロアの同じ席に座る。デスクの上には処理待ちの伝票が積み上がっていて、画面には昨日の続きのスプレッドシートが開いている。課長の山岸は始業前から不機嫌で、俺が入力した数字の小数点第二位が四捨五入か切り捨てかで三十分怒鳴り続ける。その間にも電話は鳴り、メールは溜まり、月次の締めは一日も待ってくれない。 あの日も同じだった。二十三時四十七分、山手線のホームで白い蛍光灯に照らされながら、俺はふと思った。 ——俺、いつから息してたっけ。 膝が崩れる感覚があった。冷たいタイルが頬に触れた気がした。誰かの悲鳴が遠くで聞こえた。でも、もうどうでもよかった。疲れた。ただ、疲れた。 蛍光灯の白い光がじわじわと滲んで、やがて輪郭を失い、すべてが溶けていく。最後に聞こえたのは、発車メロディの間抜けな電子音だった。ああ、終電行っちゃったな——そんなどうでもいいことを考えながら、意識が途切れた。
次に目を開けたとき、俺は真っ白な空間に立っていた。 床も壁も天井もない。あるのは、ただ白。そして目の前に——なんと表現すべきか——光を纏った女性が浮いていた。人間離れした美貌。穏やかだが、どこか寂しそうな目。 足元の感覚がない。立っているのか浮いているのかもわからない。空気の温度も、匂いも、何も感じない。ただ視覚だけが鮮明に機能していて、その女性の輪郭だけが世界に存在するすべてだった。 「佐伯遼太郎。あなたの魂は限界を超えて燃え尽きました」 声は耳からではなく、頭の中に直接響く。 「……死んだってことですか」 「ええ。心臓が止まりました」 あっさりしている。三十二年の人生の結末が、こんな事務的な一言とは。経理部らしい最期かもしれない。 不思議と怖くなかった。悲しくもなかった。ただ、そうですか、としか思えない。三十二年かけて積み上げてきたものが何だったのか考えようとしたが、何も浮かばなかった。業務上のエクセルファイルの保存場所と、引き継ぎ資料の進捗が七割だったこと。それだけだ。俺の人生は、引き継ぎ資料にすら完成を許されなかった。 「ですが、あなたの魂には次の行き先を選ぶ資格があります」 「行き先?」 女神——としか呼びようがない存在——は微笑んだ。 「剣と魔法の世界。あなたの前世での苦労に対する、ささやかな埋め合わせです」 「はぁ」 意味がわからない。いや、わかるけど。散々読んだ。Web小説で。深夜二時、布団の中でスマホの画面をスクロールしながら読んだ異世界転生もの。あれが現実になるのか。いや、もう現実とか非現実とか言っている場合じゃない。なにせ俺は死んでいるのだ。 「難しく考えないで。たった一つだけ、伝えたいことがあるの」 女神の声が少しだけ柔らかくなった。纏っていた光が淡く揺れて、彼女の表情がはっきりと見えた。泣きそうな顔だった。なぜ女神が泣きそうなのか、俺にはわからなかったが、その表情が妙に胸に刺さった。 「——好きに生きなさい」 その一言が胸に落ちた瞬間、白い空間が砕けた。
光が弾けて、視界が一変する。 青。圧倒的な青が頭上に広がっていた。 見渡す限りの草原。風が頬を撫でる。草の匂い。土の匂い。生きている世界の匂いだ。 最初に感じたのは、空気の味だった。吸い込むと、甘くて、青くて、冷たい。東京の空気とはまるで違う。排気ガスも、ビルの谷間を吹き抜ける乾いた風も、コンビニのレジ横から漏れる揚げ物の油の匂いもない。ただ、草と花と土と風だけで構成された、原始的な空気。肺の隅々まで沁み渡って、三十二年分の淀みを洗い流していくようだった。 足元を見れば——ヨレたスーツに革靴。社員証が首からぶら下がっている。完全に場違いだった。 「……マジか」 呟いて、ふと気づく。視界の端に半透明のウィンドウが浮かんでいる。ゲームのステータス画面そのものだ。
名前:佐伯遼太郎 種族:人間 レベル:1 HP:測定不能 MP:測定不能 攻撃力:測定不能 防御力:測定不能 魔力:測定不能 ——属性適性—— 火:測定不能 水:測定不能 風:測定不能 土:測定不能 光:測定不能 闇:測定不能
「……なんだこれ」 全項目が『測定不能』。バグっている。いや、もしこれがバグじゃなくて仕様だとしたら——とんでもないチートだ。 だが。 拳を握ってみる。別に力が漲っている感覚はない。魔法の使い方なんて当然知らない。剣の持ち方も、この世界の常識も、何一つわからない。数字だけ化け物の素人。なんだ、前世と同じじゃないか。 スペックはあるのに使えない——経理部時代、上司に何度言われたことか。簿記一級も税理士科目合格も、あの会社では何の意味もなかった。ただ伝票を回し、数字を合わせ、怒鳴られるだけの三年間。 ——好きに生きなさい。 女神の言葉が蘇る。 好きに生きる。そんなこと、三十二年間で一度もやったことがない。いつも誰かの指示に従って、誰かの数字を合わせて、誰かの期待に応えようとして——応えられなくて。 風が吹いた。草が波のように揺れ、甘い花の香りが鼻をくすぐる。空はどこまでも高く、雲は白く輝いて、この世界には上司の怒号も終電のアナウンスも存在しない。 目頭が熱くなった。 止められなかった。涙が頬を伝い、顎から落ちて草の上に消えた。声を上げて泣くような激しさじゃない。ただ、堰が壊れたように、静かに溢れてくる。 膝が地面についた。冷たいタイルじゃない。柔らかい草と、湿った土の感触。生きている大地の温もりが、膝を通じて体に伝わってくる。指が草を掴む。ちぎれた草の断面から青い匂いが立ち上る。こんなに鮮やかな感覚は、いつ以来だろう。子供の頃、祖母の家の裏山で遊んだ夏休み以来か。あの頃は毎日が冒険で、日が暮れるまで走り回って、夕飯の匂いに呼び戻されて——いつからだろう、世界がこんなに灰色になったのは。 「——自由だ」 空を見上げて、呟いた。たったそれだけの言葉が、震えた。 三十二年間、一度も感じたことのないものが胸に広がっていく。名前がわからない。強いて言えば——解放。鎖が外れた感覚。もう出勤しなくていい。もう数字を合わせなくていい。もう誰にも怒鳴られない。 月曜日が来ない。月末の締め日が来ない。上期下期の決算が来ない。年度末が来ない。あの蛍光灯の下の、あの席に、もう二度と座らなくていい。 俺は草原の真ん中で、スーツ姿のまま、子供みたいに泣いた。
どれくらいそうしていただろう。 涙が止まり、鼻を啜って顔を上げたとき、風向きが変わった。 南——たぶん南だと思う——から、微かに音が聞こえる。 最初は風の音かと思った。だが違う。耳を澄ませると、それは明らかに人の声だった。 ——悲鳴だ。 女の悲鳴。それも、ただ驚いているんじゃない。恐怖に引き裂かれた、本物の叫び。 体が動いていた。 考えるより先に、足が駆け出していた。革靴が草を踏み、スーツの裾がはためく。心臓が跳ねる。なぜ走っているのかわからない。この世界の危険も、自分の力の使い方も、何もわかっていないのに。 革靴の底が泥に滑り、体勢を崩しかけて片手を地面についた。爪の間に土が入る。構わず立ち上がり、また走る。息が上がる。当たり前だ。三年間デスクワークしかしていない三十二歳の体だ。肺が焼けるように痛い。足が重い。それでも止まれなかった。 でも——知っている。あの声を無視したら、俺はまた前世と同じだ。見て見ぬ振りをして、自分の席に戻って、伝票を回すだけの人間に逆戻りだ。 好きに生きろと言われた。 なら、今この瞬間、俺がやりたいことは一つだ。 丘を越えた視界の先に、土煙が見えた。街道らしき石畳の道。横転しかけた馬車。そして——武装した男たちに囲まれて、銀色の髪の少女が地面に座り込んでいる。 男は五人。革鎧に短剣、一人は錆びた片手剣を持っている。山賊か、追い剥ぎか。少女の頬には擦り傷があり、服の袖が破れている。その目は——恐怖で見開かれているのに、唇を噛んで声を殺そうとしている。泣き叫ぶのをやめて、歯を食いしばっている。その顔を見た瞬間、腹の底から熱いものがせり上がってきた。 足が止まらない。 測定不能のステータスが何を意味するのか、まだわからない。だが——今はどうでもいい。
走れ。