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測定不能のカンストチート社畜転生

第2話 第2話

第2話

第2話

石畳の街道まで、あと二十歩。  俺の息は完全に上がっていた。肺が焼ける。膝が笑っている。心臓の音が耳の中で暴れている。三十二歳デスクワーク万年残業マンの体が、全力疾走に耐えられるわけがない。  それでも足は止まらなかった。  視界の中、少女の頭上で錆びた片手剣が振り上げられるのが見えた。男の口が何か怒鳴っている。銀色の髪が陽光を弾いて、一瞬だけ白く光る。  ——間に合え。  考えるより先に、俺は走りながら拳を握っていた。武術の心得なんてない。ジムなんて二十代の最後に一度行ったきりだ。それでも、こういうときに腕を振るなら拳を固める、くらいのことは体が覚えていた。前世でも後世でも、人間の反射はそう変わらないらしい。  八歩。  少女と目が合った。恐怖と混乱の中で、見知らぬスーツ男が土煙を立てて突っ込んでくるのを、彼女は不思議そうに見ていた。  五歩。  男たちが気づいた。「あ?」という間抜けな声。振り向く動作が、妙にスローに見える。革鎧の金具の軋み、汗の匂い、酒気混じりの息——五感が異様に鋭い。測定不能のステータスとやらが関係しているのか、いないのか。どっちでもいい。  二歩。  先頭の男が剣を構え直そうとした。  俺は、そいつの顔面めがけて、思い切り拳を突き出した。

 ——殴る。ただそれだけのつもりだった。 「は——」  男の驚いた顔は、俺の拳が届く前に消えた。  正確には、男が消えたんじゃない。俺の拳と男の顔のあいだに、何か眩しいものが走った。赤と青と緑と黄色と白と黒——七色どころじゃない、世界のありとあらゆる色が一瞬だけ重なって、音もなく膨らんだ。  次の瞬間、音が来た。  ゴッ、という鈍い衝撃音。ではない。ズドン、でもない。もっと大きくて、もっと長くて、もっと「地面そのものが嫌がっている」音。  体が後ろに吹き飛ぶ感覚があった。俺の体じゃない。俺の前にいた全員だ。  視界が真っ白に染まって、戻ってきたときには——景色が変わっていた。  目の前にいたはずの盗賊たちが、いない。  石畳の街道が、ない。  いや、正確には、半径五十メートル分の石畳が抉れて、クレーターみたいな溝になっている。砕けた石の破片がパラパラと落ちてくる。道の両脇の雑草が焼け焦げて、煙を上げている。盗賊らしき人影は——遥か先の丘の向こうまで、点のように散らばって転がっていた。白目を剥いて、泡を吹いている。死んではいない、らしい。微かに呻き声が聞こえる。  俺は、突き出した拳をそのままの位置で止めて、固まっていた。 「……え」  情けない声が漏れた。 「……殴っただけなんだけど」  拳を見下ろす。革靴から指先までの、俺の体。変わっていない。痛くもない。力んだ感覚すらない。あえて言えば、軽く背伸びして棚の上の伝票箱を取ったときくらいの力加減だ。  それで、これか。  ——測定不能。  ステータス画面の文字が頭をよぎった。なるほど、測定不能。そりゃ測れない。測る機械が吹き飛ぶ。  膝が震えてきた。恐怖じゃない気がする。理解が追いつかない、というやつだ。経理で例えるなら、十円合わない伝票を一晩かけて追いかけたら、最後の一円の誤差が実は百億円の誤差だった、みたいな感覚。桁が三桁違う。 「……これ、俺、人を殺したのか?」  呟いて、急いで盗賊たちのほうへ視線を飛ばす。遠い。遠すぎる。でも、動いている気配はある。うめき声、痙攣。生きている。生きているらしい。頼むから生きていてくれ。前世で俺が殺したのは自分の健康だけだ。これ以上殺人までキャリアに追加したくない。  深呼吸を試みた。甘くて冷たい草原の空気——さっき泣きながら吸い込んだのと同じ空気のはずなのに、今は鉄の味がした。石畳が砕けた粉塵の味だ。舌の上にざらついた粒が残る。

 ——そうだ、少女。  首を捻じ曲げるようにして、振り返る。  銀髪の少女は、最初に見た位置から一歩も動いていなかった。いや、動けなかったんだろう。地面に膝をついたまま、瞳を見開いて、俺を見ている。俺を通り越して、俺の後ろの抉れた街道を見ている。口が薄く開いていた。何か言おうとして、声が出ていない。  近づくのが怖かった。一歩踏み出すたびに、革靴の下で砕けた石の破片がパリパリと音を立てる。自分が立てた破壊の音だ。なるべく彼女を怖がらせないように、両手を広げて見せる。武装していませんアピール。実際には素手で街道を抉ったわけで、意味のあるアピールなのかは怪しい。  三歩手前で、少女がようやく息を吸った。 「——えっと」  俺は、声をかけた。 「びっくり、させて、すみません」  言ってから、これは違うな、と思う。びっくりさせたどころの話じゃない。  少女が、小さく首を振った。銀色の髪が揺れる。陽光の中で、一本一本が細い糸のように光った。年齢は、たぶん十代後半。瞳は緑だった。驚きと涙で潤んだ、濃い森の色。頬に細い擦り傷。服の袖が破れて、白い肩が覗いている。商人風の上品な服。ただし、かなり上等な布地だ。経理目線で見て、これは安い仕事着じゃない。 「……あなたが」  少女の声は、少し掠れていた。 「……あなたが、助けて、くれたんですか」  疑問形なのが、申し訳なかった。俺だって自分が助けたのかどうか自信がない。むしろ巻き込み事故で彼女まで吹き飛ばしてしまった可能性を今さら気にしている。幸い、彼女の体に目立った新しい傷はなかった。衝撃波は綺麗に彼女を避けて、街道と盗賊にだけ集中したらしい。原理は不明。仕組みも不明。全部不明。 「たぶん」  俺は、正直に答えた。 「俺も、よくわかってないです」  少女が、ぽかんとした。それから——笑った。いや、笑おうとして、失敗した。唇が震えて、目の縁から、大粒の涙がこぼれた。我慢していたものが、一気に抜けたんだろう。 「——っ、うっ」  声を殺して、彼女は泣いた。両手で顔を覆って、肩を震わせて。歯を食いしばって耐えていたものが、堰を切って溢れる。さっきの俺と同じだった。草原で泣いた俺と。ほんの十数分前の、あの俺と。  俺は、そろそろと彼女の前に膝をついた。革靴の膝頭が砕けた石にこすれて、ズボンの布地がまた傷む。構わない。どうせもう、このスーツは一度死んだ時点で遺品だ。 「……もう、大丈夫ですよ」  自分の声が、妙に落ち着いていた。 「あいつらは、しばらく動けないと思います。ええと、立てますか」  少女は顔を覆ったまま、何度も頷いた。そして、顔を覆っていた手を、ふっと下ろして、そのまま俺の胸にしがみついてきた。 「——っ」  俺の心臓が跳ねた。  女性に抱きつかれるのは、いつ以来だろう。というか、女性に抱きつかれた人生の記憶なんて、ほぼない。経理部の宴会で酔った先輩に絡まれたくらいだ。あれはノーカンだ。  少女は俺のスーツの襟を、小さな手で握りしめていた。銀の髪が、俺の顎の下で震えていた。 「……あなたが、いなかったら」  囁くような声だった。 「……私、死んで、いました」

 その一言が、胸の奥まで届いた。  変な感覚だった。草原で自由だと叫んだときとは違う。あれは、三十二年分の鎖が外れた感覚だった。これは——乾ききった土に、水が一滴、落ちた感覚。  ずっと、役に立たない人間だと思っていた。数字だけ合わせられる男。伝票を回すだけの歯車。会議の発言もないし、提案も通らないし、上司の期待に応えた試しもない。誰かに感謝されたことなんて、電車で席を譲ったときくらいしか記憶にない。  それが。  「いなかったら死んでいた」と、言われた。  拳を握る手に、少女の熱が伝わってくる。震えが止まらない小さな肩。細い腕。この命を、俺は、残したのか。殴っただけなのに。殴っただけで——この子は生きている。  ぼんやりと、空を見上げた。  東京の空じゃない、圧倒的な青。  ——好きに生きなさい。  女神の声が、もう一度だけ蘇った。好きに生きる。その意味が、ほんの少しだけ、わかった気がした。  少女が、そっと顔を上げた。濡れた緑の瞳が、真っ直ぐに俺を見た。 「……あの、お名前を、聞いても?」 「遼太郎」  俺は、掠れた声で答えた。 「佐伯、遼太郎」 「……リーゼ。リーゼ・ヴァイスフェルトです」  風が吹いた。草原の甘い匂いと、焦げた石の匂いが混ざって、鼻を通り抜けた。  遠くで——また、別の音がした。  馬のいななき。石畳を叩く蹄の音。複数。こちらに向かってくる。  リーゼの肩が、びくりと跳ねた。俺は、まだ震えの残る拳を、もう一度握り直した。

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