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測定不能のカンストチート社畜転生

第3話 第3話

第3話

第3話

蹄の音が近づいてくる。

 俺は右足を半歩引いて、リーゼを背に庇う位置に立った。実戦の心得なんて皆無だが、さっき拳一発で街道を抉ったばかりの男だ。下手に逃げるより、ここで構えておいたほうが彼女を守れる気がする。  リーゼが袖を引いた。 「——待ってください、遼太郎さま」 「さま、はいらないです」 「彼らは、私の護衛です」 「え」  丘の向こうから砂煙を上げて駆けてきたのは、鎖帷子の上に緑のマントを羽織った騎馬の五人組だった。先頭の男が俺たちを見つけるなり剣の柄に手をかけた——その動きが、リーゼの姿を認めた瞬間、止まった。 「お嬢様っ!」  男が鞍から飛び降りた。五十歳前後だろうか、髭の白い、顔つきの整った人物だ。鎖帷子が歩くたびに擦れて金属の匂いを撒く。 「ご無事でっ——この石畳は、なんです、これは」  彼の視線が、抉れたクレーターの上で止まる。そして、スーツ姿の俺で止まる。止まったまま、動かなくなった。  リーゼが、俺の背中からそっと前に出た。まだ頬に涙の跡が残っている。 「盗賊に襲われました。でも、この方が——助けてくださったの」 「この方が、この道を、……殴ったのですか」 「はい」 「……さようでございますか」  髭の男は、二秒ほど沈黙して、ゆっくりと片膝をついた。 「ヴァイスフェルト家筆頭護衛、ブラッドと申します。命の恩人に、礼を」  俺は、慌てて両手を振った。 「いや、そういうのは、いいです。むしろ護衛、五人もいたんですか、遅——」  言いかけて、口を噤んだ。三十二歳の大人の処世術だ。身内の話に首を突っ込まない。  ブラッドは苦く笑った。 「街道の分岐で別れて巡回しておりました。不覚にございます。……旦那様より、厳しい叱責を賜ることでしょう」  商家の家人らしい台詞回し。ふうん、と俺は思う。前世のドラマでしか聞かなかった種類の日本語だ。ああ、これは翻訳されている。女神のチートか、この世界の仕様か。とにかく、俺の耳には自然な日本語で入ってきている。

 横転しかけていた馬車は、ブラッドたちの手で手早く立て直された。車輪の軸に亀裂が入っていたが、応急処置で動くらしい。 「乗ってください、遼太郎さん」  リーゼが、今度は呼び方を変えてきた。譲らない目だった。瞳の緑は、もう怯えていなかった。代わりに、据わった輝き方をしている。ああ、この子は商家の娘だな、と俺は直感した。助けられた恩を、きちんと回収しにくる目だ。  馬車の中は、思ったより狭かった。対面式の座席、壁に取り付けられた小さなランプ、床には厚い絨毯。木と油と、微かに香草の匂いがする。スーツの尻から、石畳の粉塵がぱらぱら落ちた。 「ヴェルムまで半日です」  リーゼが向かいに腰を下ろしながら言った。 「……ヴェルム」 「商業都市ヴェルム。私の家がある街です」  馬車が動き出す。石畳の継ぎ目を越えるたびに、俺の腰がカクッと跳ねた。サスペンション、とは呼べない代物だ。リーゼは慣れているのか、平然と座っている。 「遼太郎さんは、どちらから?」 「えーと」  どう説明すべきか。一秒、考える。ここで「異世界から来ました」と言って信じてもらえる保証はない。ないが——この子は、街道を抉った男を疑いもなく馬車に乗せた。隠すほうが、かえって失礼な気がした。 「日本、って国、知ってますか」 「……いいえ」 「ですよね」  俺は、ため息混じりに打ち明けた。仕事で死にかけて、気づいたら白い空間で、女神と名乗る人から「好きに生きろ」と言われて草原に放り出されたこと。拳を振ったら街道が吹き飛んだこと。ステータスが全項目『測定不能』だったこと。  リーゼは、黙って聞いていた。途中で口を挟まず、目を逸らさず、頷きもしない。ただ、真っ直ぐに聞いた。話し終わったとき、彼女は小さく息を吐いた。 「……あなたは、女神の落とし子なんですね」 「落とし子」 「ええ。稀に、そういう方が現れるのです。私の曾祖父の代にも、一人」  じゃあ、そんなに驚くような話でもないのか。異世界転生ジャンルとしては、やや拍子抜けだ。だが考えてみれば、俺にとっては初体験でも、世界にとっては珍しくもない現象なのかもしれない。 「ヴェルムに着いたら、冒険者ギルドに行きましょう。身分証がないと、宿にも泊まれません」 「ギルド」 「冒険者の登録所です。討伐や護衛の依頼を仲介してくれます。——遼太郎さんの力なら、すぐに高位まで駆け上がれるはずです」 「いや、俺、殴ることしかできないんですけど」 「それで街道を抉れる方が、他にいると思いますか」  真顔で返された。反論の余地がない。  リーゼは、手提げから小さな革袋を取り出した。じゃらりと金属の音がする。袋の口を開いて、銅色と銀色の硬貨を手のひらに転がして見せた。 「これが、この国の通貨です。銅貨、大銅貨、銀貨、大銀貨、金貨。銅貨百枚で大銅貨一枚。宿の一泊が、だいたい大銅貨三枚」  経理部魂がうずいた。換算レート、レシート、日次精算。体が覚えている。こういう数字の話になると、俺は急に落ち着く。 「魔法は?」 「全員が使えるわけではありません。適性と、魔力の総量で決まります。火・水・風・土が基本四属性、光と闇は稀少属性。……遼太郎さんの『全属性』は、本当に稀有です」 「ふうん」  俺は、さっきの衝撃波を思い出した。赤と青と緑と黄色と白と黒。七色の光が、拳の前に重なっていた。——あれ、六属性全部、同時に発動してたんじゃないのか。  膝の上で、拳を握りしめる。軽く。この世界の常識では、これはとんでもなく異常な現象らしい。とりあえず、街中では拳を固めないでおこう。固く誓った。

 馬車は、緩やかな坂道を登り続けていた。  窓の外の景色が、草原から、点在する農村へ、そして果樹園の連なる丘陵地帯へと変わっていく。オレンジと紫の実がなる木々。見たことのない色の花。空には、白い鳥らしきものが二羽、羽ばたいていた——よく見ると、鳥じゃない。翼の先に膜みたいなものがある。これが、異世界か。  リーゼは窓枠に肘をついて、前方を見ていた。その横顔に、夕方の光が差していた。銀髪が蜂蜜色に染まる。さっき泣いていた少女と同じ人物とは思えない、静かな表情だった。 「……あの、遼太郎さん」 「はい」 「私、帰るのが、怖かったんです」  ぽつりと、リーゼが言った。 「父の商会を継ぐために、一人で仕入れ先を回っていました。——戻るのをやめて、どこかで消えてしまおうかとも、思っていて」  俺は、黙って聞いた。 「でも、今は、帰りたいです」  彼女の指が、胸元の小さな首飾りに触れた。銀の鎖。 「父に会いたい。ちゃんと顔を見て、継ぎますって、言いたいんです」  ——ああ、この子にも、彼女なりの三年間があったのか。  俺は、ふと思った。この世界の誰もが、前世の俺みたいな時間を過ごしている可能性がある。苦しくて、逃げたくて、でも戻れなくて、戻りたくて。草原で自由だと泣いた俺と、今、窓の外を見ているこの子は、たぶん、同じ空気を吸っている。 「——送ります」  俺は、言った。 「ちゃんと、お父さんの顔が見えるところまで」  リーゼが、小さく笑った。今度は、失敗しない笑顔だった。

 丘を一つ越えた。  前方に、石造りの城壁が見えた。思っていたより、ずっと高い。五階建てのビルくらいはある。灰白色の石が夕日を浴びて、薄い橙色に染まっている。てっぺんでは、緑の旗がはためいていた。 「ヴェルムです」  リーゼが、誇らしげに言った。  俺は窓から身を乗り出して、城壁を見上げた。石垣の継ぎ目に、薄い青い光が走っている。まるで、血管みたいに。装飾じゃない、あれは——魔法の類だ。たぶん、防衛用の。  と、思った瞬間だった。  青い光が、ぶわりと赤く染まった。  城壁全体が赤く脈打った。空気が揺れた。馬車の窓ガラスが、びりびりと鳴る。  次の瞬間、城門の上の鐘楼から、甲高い警鐘が鳴り響いた。  一度、二度、三度。途切れない。  ブラッドが馬車の天井を強く叩いた。 「止まれ! 御者、止めろ!」  馬車が急制動をかけて、俺とリーゼが揃って前にのめった。リーゼの細い体が、俺の胸に倒れ込んでくる。  外で、兵士たちの怒号が聞こえた。鎧の擦れる音。弦を引き絞る音。 「——侵入者警報だ」  ブラッドの声が、窓の外から低く響いた。 「ヴェルムの警戒魔法が、誤作動を起こしている。原因は——」  そこまで言って、彼の視線が、まっすぐ俺に向いた。  リーゼが、息を呑んだ。  城壁の赤い光は、収まる気配がなかった。むしろ、こちらに近づくほど強くなっているように見えた。まるで、何かに怯えているみたいに。  俺は、膝の上の拳を、そっと開いた。手のひらに、じっとりと汗が滲んでいた。

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