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カンスト経理部、異世界で報われる

第3話 第3話

第3話

第3話

荷台の床板に、五つの黒い窪みが並んでいる。

俺の指の跡だ。三十分前、馬車が丘を越えた瞬間に握力をかけすぎた。木の節が、紙粘土みたいに沈んだ。手を離したのに、フェイスの視線は跡から動かない。若い護衛は剣の柄に手を置いたまま、俺の指と俺の顔を交互に見比べている。

「フェイス、休め」

御者台のマルタが声をかけた。

「タクヤ殿は敵じゃない」

「……分かっております。分かっておりますが、隊長」

絞り出すような声だった。フェイスはたぶん俺と同じ歳くらいだ。前世の同期にもこういう奴がいた。真面目で、切り替えが遅くて、それでも仕事は誠実にやる男。

俺は荷台の壁に背中を預けた。木の繊維が背骨に沿って軋む。積荷の麻袋から、干した果実の甘酸っぱい匂いがふわりと立ち上がる。胃が、急に空腹を主張した。

——食事、いつしたっけ。

前世の昨日、コンビニのおにぎりが最後だった気がする。会社の机で、パソコンを見ながら噛んだ。味は覚えていない。

「タクヤ殿」

マルタが手綱を緩めた。

「次の中継所で昼にしましょう。あと半刻ほどです」

半刻。会社員脳が即座に換算する——一刻が二時間として、その半分。一時間か。空腹の身体には永遠だが、贅沢は言えない。

ガロンが鉈を取り出して、麻袋の口を切った。中から茶色い乾果が転がり出る。

「先に食え」

突き出された手のひらに、いくつか落とされた。鑑定が勝手に走る。『ノクトの実 乾燥果実 保存食 市場価格:銅貨一枚で五粒』。

「すみません、いただきます」

口に放り込む。甘味と酸味と、それから渋みが舌の奥に残った。前世の干しイチジクに少し似ている。噛むほどに唾液が出てくる。胃の底が、温かくなる。

「美味い」

「そうか」

ガロンは短く頷いた。フェイスにも同じ量を渡している。あいつは俺を警戒しながら、俺と同じ実を口に運んでいた。妙な構図だ。

中継所は、街道脇に組まれた木造の小屋と井戸だけの簡素な場所だった。

商隊が三組、先客で停まっている。馬を降ろし、水を飲ませている男たち。荷台の傍で薪を焚いて鍋をかけている女。子どもが二人、井戸の縁を走り回っていた。

「冒険者ギルドの管理所でございます」

マルタが俺に説明した。

「街道の中継地点ごとに置かれて、旅人の安全と通行料の徴収を兼ねております」

「通行料、ですか」

「ギルドが徴収して、街道補修と護衛任務の原資にしております。先ほど壊された分も、ここの記録に上げます」

申し訳なさが、また背中を撫でた。マルタは俺の表情を見て、軽く笑った。

「ご心配なく。灰狼八頭の討伐報酬から通行料破損分を差し引いても、まだ釣りが出ます。タクヤ殿にお渡しする額の方が、ずっと大きい」

「俺、もらえるんですか」

「討伐したのはあなた様です。当然の権利でございます」

当然。

その単語に、また喉がつかえた。前世では一度も聞いたことのない言葉だった。残業手当は「君の仕事の範囲だから」、出張費は「経費精算は来月で」、ボーナス査定は「うちは横並びだから」。すべて、当然じゃなかった。

俺は黙って、馬車から降りた。地面を踏む。土が乾いている。革のブーツの底で、小石が一粒、ぱきりと割れる音がした。

——力、入れすぎた。

意識して、足の裏の感覚を緩める。地面に足跡を残さずに歩く感覚。ゆっくり、確かめながら。

桶を借りて、井戸の縁に立った。釣瓶を引き上げる。軽い。当たり前だ。九九九九の腕力で井戸水を汲むのは、大人がレモンを絞るより楽だ。慎重に、慎重に、桶を地面に置く。

水を一口含んだ。冷たい。喉から食道、胃まで、水の通り道が体内地図のように描かれた。鼻の奥に、井戸の石灰めいた匂いがほんのり残る。

「お前、新顔か」

声がした。

振り向くと、隣の商隊の護衛らしき男だった。三十代半ば、左頬に古い斬り傷。腰に長剣。鑑定が走る。『ベルガ・トロウ Cランク冒険者 戦闘経験十二年』。

「はい、旅人です」

「装備、軽いな。武器もないようだが」

「これから王都で、登録するつもりで」

「ふうん」

ベルガは俺の足元を見て、目を細めた。

「お前、足跡が浅すぎる」

「え」

「この乾いた土で、その体格でその踏み込みなら、もう少し沈む。お前、何かやってるな」

——会社員時代に、上司の小さな違和感を見逃さなかった同僚が、こういう目をしていた。粗探しじゃない。ただ、数字が合わないときの顔だ。帳尻が一円でも狂っていると、呼吸を止めて算盤を弾き直す、あの横顔。

「ちょっと、足腰には自信があって」

「ふん」

ベルガはそれ以上突っ込まなかった。代わりに、腰の革袋から銅色の小さな札を取り出して見せた。陽光を受けて、札の表面が鈍く光る。経年で縁が丸く磨り減り、手の油がよく染み込んだ色合いだった。

「冒険者証だ。王都で登録すれば、三日後にはお前もこれを持つ」

札には文字が彫られている。鑑定によると、名前と所属ギルド、そしてランクが刻まれているらしい。

「ランクは、最初はFで」

「全員Fから始まる。俺もそうだった」

ベルガはニヤッと笑って、自分の頬の傷を指でなぞった。

「Fの依頼は雑用ばかりだ。下水のネズミ、薬草採り、子守り。馬鹿にされる仕事だ。だが、サボる奴は伸びない。真面目にやる奴だけが上に行く」

下水のネズミ。子守り。

経理の振替伝票や、給与計算の検算と、構造はそんなに変わらない気がした。雑務の質は、世界が変わっても似ている。

「分かりました」

「分かったか。じゃあ、一つ忠告だ」

ベルガが声を低くした。周囲の雑音が、一段だけ遠ざかる。風の中に混じる馬のいななきも、子どもの笑い声も、奇妙に距離を取った。

「王都に入ったら、自分の力を一気に見せるな。少しずつだ。一気に見せると、王宮が興味を持つ。冒険者で気楽にやりたいなら、目立ちすぎないことだ」

王宮。

胸の奥で、何かが小さく鳴った。前世のあの景色——須藤の机、その上の役員稟議書類、決算期の終電、誰かに「数字」として管理される構造。世界が変わっても、組織は組織だ。査定のテーブルに乗った瞬間、人は人ではなくなる。

「忠告、ありがとうございます」

「礼はいい。Fランクは仲間だからな」

ベルガは肩を叩いて、自分の隊に戻っていった。指の腹に、軽く触れられた感触だけが残った。前世なら、こういう肩への接触は気色悪いだけだった。今はなぜか、温度が後を引いた。

馬車に戻ると、マルタが鍋から湯気を立てていた。

「タクヤ殿、こちらへ。スープができました」

木の椀を渡される。中身は野菜と豆と、塩漬け肉の切れ端。匙で掬って口に運ぶ。塩と脂と、ハーブの香り。生きた食事の味だった。

ガロンとフェイス、マルタと俺。四人で輪になって食べる。

「美味しいです」

「腕は雑ですが、温かさだけが取り柄でして」

マルタは笑った。フェイスは相変わらず俺をちらちら見ているが、さっきよりは肩の力が抜けている。匙を持つ手の震えは、もう止まっていた。

俺は二杯目を遠慮した。三杯目も食べたい欲はあったが、保存食料の消費は最低限にしたい。前世の経理脳は、こういう時に強い。

「タクヤ殿、夕方には王都の城壁が見えます」

マルタが言った。

「今夜はその手前の宿場町で泊まり、明朝に城門を抜けます。よろしゅうございますか」

「お任せします」

「ギルドへは、私が連れていきます。エリナという受付に、推薦状を持って」

エリナ。ベルガに続いて、また人の名前を覚える。前世の十年で覚えた社内の名前は、ほとんどが俺を消耗させる相手だった。今は、覚えるたびに、誰かが俺を待ってくれている気がする。

陽が傾き始めた頃、馬車は丘の頂上を越えた。

車輪が一段小さく軋み、馬の蹄が乾いた土を鳴らす音が、一瞬だけ止まったように感じられた。風の匂いが変わった。乾いた土埃と干し草の匂いに混じって、遠くから煙と、それから人いきれめいた甘辛い匂いがかすかに流れてくる。何千人、何万人という人間が、そこで煮炊きをし、汗をかき、眠り、暮らしている——そういう種類の匂いだった。

街道の先、地平線のすぐ手前に、灰色の壁が伸びていた。

王都アルテシア。

『鑑定』が走る前から、それと分かった。城壁の高さは三十メートル近く、長さは視界の端から端まで届く。途中に塔がいくつも立ち、旗が風になびいている。城門の前には、小さく見える人影が幾つも蠢いていた。夕陽に照らされた石積みが、赤錆びた鉄のような色合いに染まっている。その表面の一つ一つの石塊が、前世の人間ならクレーン車でしか動かせないような重量だと、鑑定抜きでも察せられた。

俺は荷台の縁を握った——今度は加減した。木は沈まなかった。指先の力を、呼吸に合わせて逃がす。胸の奥で、心臓が一度だけ強く鳴った。

「フェイス」

ガロンが低く呼んだ。

「あれが、見えるか」

「……見えます」

「お前、震えてたぞ。さっきまで」

「……はい」

「今は、震えてないな」

フェイスは何も答えなかった。代わりに、俺のほうを一瞬だけ見て、それから前を向いた。剣の柄から、手が離れていた。

馬車が、ゆっくりと下り坂に入る。

王都の城壁が、近づいてくる。

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