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カンスト経理部、異世界で報われる

第2話 第2話

第2話

第2話

灰色の影が、三つ同時に跳んだ。

牙が太陽を反射する。距離、およそ五メートル。一頭目の頸の血管まで『鑑定』が勝手に情報を流してくる。経理脳は殺意の解析にまで使えるらしい。

右手を振った。ただ、それだけだった。

次の瞬間、灰狼が消えた。

いや、消えたんじゃない。吹き飛ばされた。俺の腕が横に薙がれた軌跡に沿って、三頭とも。遥か後方で木々が一斉にしなり、葉が雪のように散る。ついでに石畳の街道が、扇状に抉れて陥没していた。俺の足元から、十メートルほどの範囲で。

空気が、遅れて追いついてきた。耳の奥で風切り音が鈍く響き、鼻先を土埃と草の潰れた青臭さがかすめる。手のひらにはまだ、振り抜いた瞬間のじんわりした熱が残っていて、指先だけが不自然に冷たい。

「……あ」

声が漏れた。

街道、壊した。

前世の感覚が即座に反応する。弁償——いくらだ。石畳の工事費なんて『鑑定』しても単価が出てこないぞ。というか『鑑定』、もう少し早く単位換算して——いや、落ち着け。順序が違う。

顔を上げる。

馬車の御者が、手綱を握ったまま硬直していた。馬は尻餅をついた姿勢で震え、荷台のほうから女性の声と男の声が漏れる。生きている。怪我の気配はない。

「す、すみません」

反射的に頭を下げた。会社員の初動である。

「道、壊しました」

誰も、何も言わない。馬車の荷台からおばさんがゆっくり降りてきた。四十代後半、丈夫な布の外套、腰に短剣。『マルタ・ヴェドラン ランクC商人 隊商長 王都アルテシア所属』。鑑定、個人情報まで出るのか。やりすぎだ、女神様。

マルタは俺の前まで歩いてきて——膝をついた。

「ちょ、ちょっと待ってください」

「命を救っていただきました」

低い声。震えていない。芯の通った声だ。その声の奥には、何度も修羅場を潜ってきた人間だけが持つ、妙に落ち着いた粘りがある。俺の言葉を待つでもなく、ただ静かに頭を垂れたままだ。

「灰狼は五頭で一商隊を潰す魔獣でございます。今日の我々は八頭に囲まれておりました。残り五頭はあなた様の風圧で散りました」

八頭。俺、三頭しか見ていなかった。『探知』が勝手に働いていれば教えてくれたのだろうが、視界が狭かった。背筋をひやりとしたものが伝う。視界外で、もう五頭分の牙が俺たちに向けられていたという事実が、今さらになって腹の底に落ちてきた。

「道のことなど、どうでもよろしゅうございます。冒険者様、お名前を」

冒険者。勝手に昇格させられた。

「佐藤拓也……いえ、タクヤで」

姓が先に出るのは会社員の癖だ。マルタは「タクヤ殿」と繰り返し、もう一度深く頭を下げた。

「私どもは王都アルテシアへの帰還中でございました。どうか、護衛の礼をさせてくださいませ」

「礼って、俺、通りすがりなんですが」

「結構にございます。この場で命を拾った事実は、動きません」

きっぱりと言い切られた。

前世では聞いたことのない、真っ直ぐな感謝だった。「ありがとう」を「当然」に置き換えられ続けた十年。胸の奥で何かが、小さく軋む音を立てる。喉がわずかに詰まり、一瞬、視界の端が滲みかけた。慌てて奥歯を噛み、息を一つ整える。見知らぬ土地で、見知らぬ人間に、当たり前のように頭を下げられる——そのことの重みを、身体のほうが先に理解していた。

「立ってください。こっちが恐縮します」

手を差し伸べると、マルタは掴んで立ち上がった。手のひらが硬い。長年、手綱を握ってきた手だ。指の付け根には古いタコが幾重にも重なっていて、指先には細かな切り傷の跡が走っている。働いてきた人間の手だ、と思った。

「タクヤ殿、お一人で? 旅装もなく、地図もお持ちでないようにお見受けしますが」

「……朝、気がついたらこの森におりまして」

事実だった。半分だけ。

マルタの目が細くなった。疑うというより、事情を察する目だ。

「失礼ですが、『異界から渡られた』方でしょうか」

背筋がざわっとする。

「え、そういうの、あるんですか」

「百年に一度ほど、神託により遣わされる方がおられるとの記録がございます。服装と所作、道に倒れておられぬ理由、それならば説明がつきます」

一応、実例のある事象らしい。神様、雑じゃないですか。

マルタは荷台から予備の外套を出し、俺の肩にかけた。秋口の森の朝は冷えるのだと言った。言われてみれば、街道に出てからずっと身体が火照っていただけで、手の先は冷えている。カンストしていても寒暖の感覚は前世のままだ。外套の布地は厚く、染み込んだ土と松脂の匂いが、不思議と人心地をくれた。

「王都まで馬車で三日の道のりです。お乗りください」

「石畳は——」

「ご心配なく。街道管理は冒険者ギルドの管轄で、破損届けは私から出します」

「冒険者ギルド」

「この国の冒険者はすべてギルドに登録します。魔獣討伐、護衛、採取、依頼を受けて報酬を得る仕組みでございますね」

「ランクがあるんでしたっけ」

「F、E、D、C、B、A、Sの七階梯。上から言わなかったのは、Fが始まりだからでございます」

下から来るのか。会社員には馴染みのある順序だ。新卒から主任まで十年、主任から課長補佐までさらに五年、永遠に届かない課長の席。前世の昇格体系より、たぶん正直だろう。少なくとも、成果と階梯がまっすぐ結びついている分、誤魔化しが効かない。

荷台に乗り込むと、中には男が二人いた。護衛らしい。腰に剣を佩き、俺を見る目は明らかに警戒混じりだ。

「こちらはガロン、それからフェイス。私の下で長く働いてくれている者です」

「ども」

ガロンは頷きを返した。フェイスは警戒の色を崩さない。俺は彼らに深く同情した。五メートル先の地面を扇状に陥没させる通りすがりを、はいそうですかと荷台に乗せたくはあるまい。

マルタが御者台に戻り、馬車がゆっくり進み始めた。俺の陥没を避けて、雑草の生えた脇道へ。荷台が揺れる。木の軋み。土の匂い。前世には絶対になかった揺れだ。車輪が小石を噛むたびに尻の下が跳ね、積荷の麻袋がこすれ合う乾いた音が、規則的に耳をくすぐる。

「マルタさん、一つ教えてください」

「なんなりと」

「この世界、魔法はあるんですか」

「ございます。ただし使える者は限られます。素養、修練、触媒。三つが揃わねば発現しません」

「素養とは」

「生まれついての魔力保有量ですね。多いほど有利ですが、極端に多い者は不安定で、自分の身を滅ぼすこともあるとか」

『魔力:9999』のステータスを思い出す。俺、たぶん極端に多いほうだ。

「素養の確認は、王都のギルドで測定器にかけるのが一般的です。タクヤ殿のようなご様子ですと、数値は相応に高く出るかと」

相応に、高く。

石畳を扇状に吹っ飛ばした人間に対して、マルタは言葉を選んでくれている。会社の課長にも見習わせたい配慮だった。

「王都には、ギルドの本部がありますか」

「本部でございます。タクヤ殿、お考えで?」

「……少し、働き方を考えたくて」

マルタが肩をわずかに揺らす。笑ったらしい。

「異界から渡られた方が、まず『働きたい』とおっしゃるのは、初めてでございます」

「前の職場で、ちょっと色々ありまして」

口にしてから、自分でも少し笑ってしまった。「色々」の一言で十年が片付くわけもないのに、この人相手だと、それで通じてしまう気がする。

馬車は森を抜け、なだらかな丘陵の街道に戻った。陽が高くなり、風が草を撫でて南へ流れていく。前世では昼休みに窓を見ても隣のビルの壁しか見えなかった。空を見上げるという動作を、十年ぶりにした気がする。空は異様に青く、雲の輪郭が鋭い。目の奥にしみるほどの明るさに、一瞬、眩暈に似た感覚がきた。

「タクヤ殿」

マルタが前を向いたまま呼んだ。

「王都に着かれた折、ギルドにお連れいたします。受付のエリナという者が、新参者の面倒をよく見てくれます。推薦状も、私から書きましょう」

「推薦状って、そんな」

「この国では、推薦状のない冒険者は、まず雑用から十年でございます」

十年。前世と同じ年数だ。もう、あの時間の使い方はしたくない。

「……助かります」

「助かったのは、私どもです」

遠くの丘の向こうに、大きな塔のような影が見え始めた。『鑑定』が勝手に働く。『アルテシア大聖堂 王都中央施設 高度一二〇メートル』。

王都が、近づいてきている。

荷台の床を手で押さえる。カンストした握力が、木材の節をわずかに沈ませた。慌てて手を離したが、ガロンとフェイスは、俺の指の跡を凝視していた。

二人の視線に気づかないふりをしながら、俺は心の中で小さく唱えた。

——今度は、ちゃんと、順番に積み上げよう。

馬車が、軋みながら、丘を越える。

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