第1話
第1話
月の残業が二百時間を超えた日から、俺の視界はずっとぼやけていた。
経理部のデスク。蛍光灯の白い光。Excel の数字が泳いでいる。日付は——何日だ。もう分からない。分かるのは、この仕訳データを今夜中に片付けなければ明日の朝、課長の須藤に怒鳴られるということだけだ。
「佐藤、まだ終わってないのか」
噂をすれば、だ。須藤がコーヒー片手に戻ってきた。定時で帰ったはずなのに、わざわざ確認しに来たらしい。
「すみません、あと三十分で——」
「三十分? 俺が部長に出す資料、明日の九時だぞ。間に合わなかったらお前の責任だからな」
お前が数字を間違えたんだろ。
そう言いたい言葉を、三十二年間で鍛え上げた処世術が飲み込ませる。「はい、間に合わせます」。須藤は満足げに頷いて、エレベーターへ消えた。
フロアには俺一人。空調が切れた夏のオフィスは蒸し暑い。シャツが背中に張り付く不快感すら、もう慣れた。
隣の席の山本が置いていった付箋が目に入る。「佐藤さん、この経費精算もお願いします♪」。ハートマーク付き。こっちは死にかけてるんだが。
キーボードを叩く。数字を入れる。検算する。また数字を入れる。
俺の人生は、ずっとこうだった。
大学を出て、この会社に入って十年。数字を正確に処理することだけが俺の存在価値で、それを誰かに感謝されたことは一度もない。間違えれば怒鳴られ、正しくても当然と見なされる。経理とはそういう部署だ。そういう人生だ。
画面がぼやける。目が霞んでいるんじゃない。意識のほうが霞んでいる。
——あれ。
キーボードに額がぶつかる感覚。それが最後だった。
佐藤拓也、三十二歳。死因はたぶん過労死。遺書はない。遺すものもない。数字以外、何も残らない人生だった。
目を開けると、白い空間にいた。
上も下も左右もない。ただ白い。蛍光灯の白じゃない。もっと柔らかい、温かみのある白。
足元に地面の感覚はあるのに、何も見えない。夢か。いや、夢にしては意識がはっきりしすぎている。
「ようこそ」
声がした。振り向くと、女が立っていた。
銀髪が腰まで流れ、瞳は淡い金色。白いローブのような衣装を纏い、背中にはうっすらと光の輪が見える。どう見ても人間じゃない。
「あなたは死にました」
「……ですよね」
意外と冷静に受け止められた。むしろ、ああやっぱり、という感想が先に来る。
「私は管理神エリス。魂の行先を采配する者です」
女神。本物の女神が目の前にいるらしい。しかし疲れすぎた脳は驚く余力すら残していなかった。
「佐藤拓也。三十二歳。死因は急性心不全——まあ、過労死ですね。あなたの人生記録を確認しましたが、これは酷い」
「酷いとは」
「与えた価値に対する報酬の不均衡が、私の管轄する全世界の魂の中でもワースト百に入ります」
ワースト百。全世界で。なんだろう、嬉しくはないがちょっと笑える。
「なので、特別措置を適用します。異世界転生——聞いたことはありますか?」
「漫画で読んだことはあります」
会社の昼休み、コンビニで立ち読みした異世界転生もの。まさか自分がその立場になるとは。
「あなたには"正しく報われる人生"を送ってもらいます。そのための力を、十分に」
エリスが指を鳴らすと、眼前に半透明の画面が浮かんだ。
見慣れたフォーマット。表形式のデータ。ただし中身が異常だった。
HP:9999 MP:9999 攻撃力:9999 防御力:9999 素早さ:9999 知力:9999 魔力:9999
全項目、カンスト。
「……また数字か」
思わず苦笑した。十年間、数字に追い回された人生だった。死んでもなお数字が付いてくる。
でも——これは。
この数字は、会社の売上でも経費精算の残高でもない。俺自身の力だ。俺のものだ。
「スキルも付与してあります。『鑑定』『瞬間移動』『全属性魔法』『身体強化』——全部で四十二種。詳細は自分で確認してください」
「四十二って、経理部の席番号と同じなんですが」
「偶然です」
エリスの表情は変わらなかった。本当に偶然なのか怪しい。
「転生先は剣と魔法の世界、ラステリア大陸。言語は自動翻訳されます。通貨、度量衡、社会制度——基本的な知識は転生時に脳に刷り込みます」
まるで新入社員の研修資料みたいな効率の良さだ。神様の業務フローは優秀らしい。
「最後に一つ」
エリスが初めて、柔らかく微笑んだ。
「今度は、あなたの頑張りがちゃんと届く世界です。存分に生きてください」
返事をする前に、白い空間が光に包まれた。意識が遠のく。でも今度は、あのデスクで途切れた時とは違う。恐怖がない。穏やかに、落ちていく。
鳥の声で目が覚めた。
背中にごつごつした感触。地面だ。冷たくはない。むしろ温かい。木漏れ日が瞼を刺す。
ゆっくり起き上がる。森だった。
見上げれば、高い梢の間から青い空が覗いている。知らない木。知らない葉の形。だが空気は澄んでいて、胸の奥まで染み込んでくる。
深呼吸をした。
肺が広がる感覚が、異様に鮮明だ。鼻腔をくすぐる土と草の匂い。遠くで水が流れる音。木の幹を走る虫の気配。五感の全てが研ぎ澄まされている。これがステータスカンストの身体か。
「……会社じゃない」
当たり前だ。だが、その当たり前を確認せずにはいられなかった。
蛍光灯の光はない。空調の音もない。Excelの数字もない。須藤の怒声も山本の付箋もない。
ここは、会社じゃない。
それだけで、目の奥が熱くなった。
泣いている場合じゃない。まず状況を把握しよう。十年間の経理が叩き込んだ習性——現状確認、リスク洗い出し、対応策の策定。使い慣れた思考回路が、異世界でも勝手に回り始める。
「ステータス」
呟くと、例の半透明画面が浮かんだ。数字は先ほどと同じ。全項目9999。
スキル一覧を開く。『鑑定』が一番上にある。試しに足元の草に使ってみた。
『ミルト草 薬効:軽度の傷を癒す 市場価格:銅貨2枚 自生地:温帯林全域』
情報が頭に直接流れ込む。便利だ。というか、経理脳には堪らない。市場価格まで出る。
周囲の木に片っ端から『鑑定』をかける。樹齢、材質、用途、価格。データが次々と蓄積されていく。楽しい。知らない世界のデータベースを構築している感覚だ。
ふと我に返る。こんなところで草木を鑑定している場合じゃない。人里を探さなければ。
立ち上がり、方角を確認する。『鑑定』を空に向けると、太陽の位置から方位が表示された。南東に人の気配——いや、『探知』スキルが勝手に起動したらしい。半径数キロの生体反応がぼんやりと感じ取れる。南東に複数の反応。集落か、街道か。
歩き出す。
森の地面は柔らかく、革靴——いつの間にかブーツに変わっていた——が沈む。木の根を跨ぎ、低い枝を避ける。身体が軽い。三十二年間で最も軽い。残業明けの鉛のような身体はもうない。
十分ほど歩くと、木々の間から光が差し込んできた。森の切れ目。その先に、土と石で舗装された道が伸びている。
街道だ。
人が作った道。文明がある。社会がある。俺以外の人間がいる世界。
安堵と同時に、小さな不安が胸をよぎる。
この世界の人間は、どんな顔で俺を見るだろう。前世と同じように、都合のいい駒として扱うのか。それとも——。
遠くから、何かの音が聞こえた。
蹄の音。車輪の軋み。そして——悲鳴。
街道の向こう、土埃の中に馬車が見える。その周囲を、黒い影が取り囲んでいた。獣の咆哮。魔獣だ。鑑定が勝手に起動する。
『灰狼(グレイファング) ランクD 群れで行動 危険度:一般人には致命的』
馬車の御者が必死に馬を制している。荷台から、誰かが叫んでいる。
足が動いていた。
考えるより先に、身体が駆け出していた。助けなきゃ、とかそういう高尚な思考じゃない。ただ、目の前で誰かが怯えている。それを見て動かない自分が、嫌だっただけだ。
前世では、いつも動けなかった。理不尽を飲み込んで、黙って席に座り続けた。
今は——走れる。この足は、動く。
街道に飛び出した瞬間、灰色の狼が三頭、こちらに気づいて牙を剥いた。