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荷物持ちと呼ばれた守護神

第2話 第2話

第2話

第2話

朝、ギルドの扉が開く前に、雨は止んでいた。

 レンは軒先の石畳から立ち上がった。背骨が鈍く鳴る。マントは半乾きで、内側に冷たさが張りついている。指先は赤く凍え、握った木の杖の節がいつもより太く感じた。雨上がりの空気は、鉄錆と泥の匂いがした。  階段に並ぶ冒険者は十数人。みな新装備に身を包み、笑顔で雑談している。レンの足元には水溜まりが広がっていた。靴の縫い目から染み込んだ水が、つま先で冷たく揺れる。 「次、誰だ」  受付窓口から、よく通る男の声が飛ぶ。  レンは無言で進み出て、ギルド証を差し出した。受付の男はそれを一瞥し、台帳を捲った。 「『暁の剣』脱退、レン。最終精算は——銀貨二枚と、銅貨七枚」  声を抑える気はなかった。隣の窓口にいた冒険者が、わざとらしく咳払いをする。 「端数は」 「規約通り、切り捨てだ」  レンはギルド証を受け取り、銀貨二枚と銅貨七枚を布袋に入れた。掌に乗せた袋は薄く、温度を持たない。三年間の最後の重さが、これだった。  受付の男はもう次の客を呼んでいる。レンの名は、もう呼ばれない。  窓口を離れ、レンはホールの隅で布袋の中身を数え直した。銀貨二枚で安宿の二泊。銅貨七枚で、明日の朝食ひとつ。それで終わりだった。

 レンは布袋を懐に押し込み、掲示板の前に立った。  Eランクの依頼票だけを目で追う。  薬草採取・銅貨三十枚。  毛皮回収・銅貨二十枚。  川沿いの水汲み・銅貨十枚。  Aランク依頼の派手な羊皮紙の隣で、小さな依頼票が肩身狭く貼られている。レンは薬草採取の票に手を伸ばした。 「——レンさん、だっけ」  声をかけたのは、若い受付嬢だった。茶色の髪を後ろで縛り、台帳を抱えている。三年間、同じ受付に立っていたが、レンと言葉を交わしたのは初めてだった。 「その依頼、本当に受けるの」 「ああ」 「えっと……支援術師さんでしょ。採取地は北の森だけど、Bランク魔獣の出没報告が先週から増えてるの。新人にも単独は勧めてないんだけど」  受付嬢は申し訳なさそうに眉を下げた。レンは依頼票を引き抜いた。 「単独で受けられる依頼は、これしかない」 「で、でも」 「裏面に同意のサイン、要るよな」  レンは羽ペンを取り、慣れた手つきで署名した。受付嬢は何か言いかけて、結局口を噤んだ。台帳に印を押す音が、やけに大きく響いた。 「……出発はいつ」 「今夜は宿で休んで、朝一に発つ」 「気をつけて」  レンは頷いただけで、ギルドを出た。  外の通りは朝市が始まっていた。パン屋の窓から焼きたての麦の匂いが流れ、香辛料屋の店先では赤い唐辛子が束になって吊られている。屋台の女将が「兄ちゃん、串焼きどうだい」と声をかけてきた。 「いや、いい」 「銅貨三枚だよ」 「いい」  もう一度繰り返して、女将の前を通り過ぎた。背中に「けち」という小さな舌打ちが当たる。気にしない。気にしている余裕がない。焼けた脂の匂いが鼻の奥で小さく疼いたが、腹の鳴りは意識的に押し殺した。三年前、初めてこの街に足を踏み入れた日、同じ屋台で銅貨三枚の串焼きを齧った記憶が、急に遠く感じられた。  路地の奥に、看板の塗装が剥げた安宿があった。『灯火亭』。三年前、街に着いたばかりの頃に二晩泊まった宿だった。扉を押すと、油の匂いと汗の匂いが混じった重い空気が顔を打った。 「一泊、銀貨一枚だ」  受付の老婆が無愛想に言った。 「素泊まりで」 「銀貨一枚は素泊まりの値段だよ。食事つけるなら追加で銅貨二十枚」  レンは銀貨一枚を差し出した。老婆は鍵を投げて寄越す。 「二階の奥、六号室。雨漏りするから壁側に寝ろ」

 階段を上る。木の踏板が軋み、靴底に砂利が噛んだ感触が伝わる。六号室の扉は建付けが悪く、二度押し込んでようやく開いた。  部屋は四畳半ほどの広さで、藁を詰めた寝台と、傷だらけの机がひとつ。窓は小さく、向かいの建物の壁しか見えない。レンは杖を壁に立てかけ、寝台に腰を下ろした。藁の中で何かが小さく蠢いた気がしたが、確かめなかった。壁の向こうから、見知らぬ男の鼾が薄く漏れ聞こえてくる。隣室の旅人か、通いの客か、判別はつかない。ただ、生きている音だけがこの宿にはあった。誰かが咳をし、誰かが寝返りを打ち、誰かが木の匙で器の底を擦る。その雑多な気配が、薄い壁越しに滲んでくる。  懐から布袋を取り出し、机の上に置く。銀貨一枚と銅貨七枚。明日の朝食を抜いても、明後日の宿代には届かない。Eランクの薬草採取で銅貨三十枚。それで一日延びる。延びた先に何があるかは、考えないことにした。  仰向けに倒れ込む。  天井の梁に雨染みが広がっていた。茶色い輪が幾重にも重なり、誰かが描いた地図のように見える。三年前にもこの天井を見た。あのときは、翌朝からAランクパーティに加入する前夜だった。眠れずに、夜明けまで梁を数えた。  あの夜の胸の昂りは、今でも指先が覚えている。鑑定結果はDランクでも、自分を拾ってくれる者がいる——その一点だけで、藁の硬さも、梁の染みも、すべてが祝福のように見えた。同じ染みが今夜は別の顔をしている。誰かの残した汚れでしかない。地図にも見えない。  ——三年間、何が変わった。  自分に問いかけて、答えが出なかった。  パーティで、自分は何をしていた。結界を張り、魔力を供給し、状態異常を消した。地味な仕事だ。誰にでもできる仕事だと、ずっと言われてきた。カイルもヴェルドも、ジルですら、レンの結界を「あって当たり前のもの」として扱っていた。リーナだけが、ときどき「ありがとう」と言った。けれどその言葉も、二年目を過ぎたあたりから消えていった。  最後に礼を言われたのがいつだったか、もう思い出せない。覚えているのは、結界を張り続けた腕の重さと、魔力を絞り切った後の指の痺れだけだった。それらはカイルの一撃の派手さに比べれば、誰の目にも映らなかった。映らないものを、三年間、自分は何度も差し出し続けていた。差し出した分だけ減っていく袋の中身のように、何かが少しずつ欠けていった気がした。  ——本当に、誰にでもできる仕事だったのか。  考えても意味がなかった。鑑定結果はDランク支援術師。それ以上でも、それ以下でもない。三年間で技量が伸びた実感はあった。だが鑑定の数値は変わらなかった。技量と鑑定が食い違うなら、間違っているのは自分の自己評価のほうだ。レンはそう結論付けた。  寝返りを打つ。藁が硬く背中に刺さった。痛みで思考が途切れる。それで助かった。これ以上考えると、足元が崩れる予感があった。  目を閉じる。  胸の奥で、また何かが軋んだ。昨夜と同じ、深い場所での微かな振動。痛みではない。熱でもない。けれど確かに、内側で何かが動いている。レンは目を開けなかった。気のせいだと思い込んだ。三年間、何度もそうしてきた。気のせいにすれば、たいていのものは消えた。  軋みはやがて収まり、レンは浅い眠りに落ちた。

 翌朝、夜明け前に目が覚めた。  窓の外はまだ薄暗い。レンは身支度を整え、机の上の布袋を懐に戻した。寝台の藁を均し、机の埃を袖で拭く。雇われ宿でも、来た時より荒らさないのが冒険者の流儀だった。三年前に教わった、最初の習慣だった。  階段を下りると、老婆はもう起きていた。 「もう発つのか」 「ああ」 「飯は」 「いらない」  老婆は鍵を受け取り、ふんと鼻を鳴らした。 「気をつけな」  外に出ると、東の空が薄く青く染まり始めていた。空気は冷たく、息が白い。石畳には昨夜の雨の名残が水溜まりとなって残り、靴底がぴたりと鳴った。  レンは初期装備の杖を握り直し、北門へ向かって歩き出す。  北門の衛兵は、欠伸混じりにギルド証を確かめた。 「Eランク、薬草採取か。一人かよ。山は冷えるから、昼までに戻れよ」  レンは頷き、門をくぐった。街を出ると、すぐに森の入口だった。早朝の森は霧が立ち込め、木々の輪郭が灰色に滲んでいる。落ち葉を踏む自分の足音だけが、耳のそばで規則正しく繰り返された。  森の小径を四半刻ほど進んだとき、レンの背後で、枝が一本、軽く撓む音がした。  風ではない。重みのかかった撓みだった。  レンは振り返らなかった。気づいたと知られれば、相手の出方が変わる。三年間でようやく身についた、ひとつだけの直感だった。歩調を変えず、杖を握る指にだけ少し力を込める。  木の幹の影、二十歩ほど後方。何者かの呼吸が、霧に溶けて細く流れていた。人のものか、獣のものか、その息遣いからはまだ判別できない。ただ、呼吸の間隔が一定に揃いすぎていた。獣は獲物を追うとき、ここまで律儀に拍子を刻まない。刻むのは、刻むことに慣れた者——拍子で気配を殺すことを、どこかで叩き込まれた者だけだった。  レンは小径の分かれ道を、薬草の群生地へ向かって右に折れた。  背後の枝が、もう一度、撓んだ。

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